近衛読書中隊

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「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん
以下引用
≪「真実はっきりさせようと思った≫
 照屋昇雄さんへの一問一答は次の通り。
 --なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか
 「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」
 --当時の立場は
 「琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」
 --渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか
 「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」
 --その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか
 「1人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」
 --ではなぜ集団自決をしたのか
 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」
 --集団自決を軍命令とした経緯は
 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」
 --赤松元大尉の反応は
 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」
 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」
 --住民は、このことを知っていたのか
 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」
 --あらためて、なぜ、今証言するのか
 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」
引用終わり

別にこれで日本軍のやったことが帳消しになるわけではないが嘘は嘘
さて飼い犬に手を噛まれたノーベル賞の大先生はどうされるんでしょうかね?元々私は、この人の小説はともかく歴史に関するスタンスが嫌いだったで、同情はしないけど。
しかし書いてるときはいい気分だったでしょうな。弱者(それもかなりの)を助けて軍人を叩くんだから。
この人に限ったこっちゃ無いけど、事実より結論ありきで、そのためなら立ってるものは親でも使うという姿勢が、こういう事態を招くんでしょう。結局戦前とか戦後とか、民主主義とか帝国主義とか関係ない。駄目な奴はいつでもどこでも駄目。しかし右も最近は酷いのが増えてる。他山の石。

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前回

さて安直戦争から時間は少し遡る大正7年7月、富山県魚津市を火元に米騒動が起こった。末松太平は後に、西田税や大岸頼義が国家改造運動を企てたことの根本は米騒動と関東大震災だと云ったそうだ。西田はこの年、広島から東京の中央幼年学校に進んだ。大岸は広島で西田の一つ下で、共に秀才(西田はトップ、大岸は4番で卒業)。二人はその頃から親しくしていたという。

同年10月、老壮会は誕生した。世話人は満川亀太郎。会自身は一定の方針を持たず、意見の交換を目的としたものであったという。左右にウィングを広げた多彩なメンバーが集まっていた。これは満川の人柄にもよるだろう。『現代史資料4』によればその顔触れは次の如く。

大井憲太郎  大川周明   満川亀太郎
中野正剛   高畠素之   北原竜雄
遠藤無水   畠中雄三   石田友治
下中弥三郎  山元亀次郎  鹿子木員信
沼波瓊音   渥美 勝   笠木良明
島野三郎   岩田富美夫  長谷川光太郎
細井 肇   田鍋安之助  伊達順之助
大竹博吉   上泉徳弥   金内良輔
平 貞蔵   小原達明   小栗慶太郎
川島清治   高尾平兵衛  佃 信夫
長崎 武   臼井清造   角田清彦
野中 貞   草間八十雄  山口正憲
長瀬鳳輔   中村高一   工藤鉄三郎
松延繁次   麓 禎助   権藤成卿
阿部真言   佐藤鋼次郎

後に国家革新運動など各方面で指導者となった人々がぞろぞろいる。しかし前述のように、この会自体は具体的な活動を行っていない。凄い面子であるが、私自身まだつかみきれてない部分が多い。これを機に勉強したい。

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朝日新聞の土曜版「be」の赤い方wで『耳をすませば』の監督故近藤喜文氏の記事があった。

” 「耳をすませばの」の主題歌「カントリーロード」は、鈴木敏夫さんの娘麻実子さんが訳詞した。当時19歳と年齢が月島雫に近いことから頼まれ、宮崎駿さんが補作した。歌詞は「ひとりぼっち/おそれずに/生きようと/夢見ていた」だが、麻実子さんの詞は「ひとりで生きると/何も持たずに/まちを飛びだした」だった。
 これを巡って近藤喜文と宮崎さんが対立。近藤は麻実子さんの訳を支持したが、宮崎さんの変更案が通った。
 映画の宣伝のため出演したラジオ番組で、近藤は麻実子さんの歌詞について触れ、「漫画家になろうと、家出するように東京に出てきた。本当に何も持っていなかった」と涙を流して語った。口数が少なく、いつも心の中を見せなかったが、鈴木さんは「内にある熱いものが噴き出した」とみる。”

” 雫が猫に話しかけようと座るシーンがある。鈴木さんは近藤と宮崎さんの違いが表れた場面だという。雫はスカートを押えて座ったが、宮崎さんだったら風が舞い下着が見えていたという。「人の目を意識する、知的で品のいい雫になった」”

それにしても若い。享年47歳。
帰ってきてテレビつけたら、マーティ・フリードマンが喋ってた。

日本語で。

やっぱやばいねこの人。

ところでデイブ・ムステインって今何してんのかね?

アリスにはアフロが入ったらしいし、もう最近の音楽シーンさっぱりわからん。



しかし中日が負けると、律儀に負けるね。付き合いの良いこって。

しかしこの時期に桧山とか使うのは犯罪ですよ。
お盆に見たので忘れないうちに。
ネット上での評判はクソミソでしたが実際見てみると割合楽しめました。個人的にはハウルよりよかった(声も含めて)。期待しないで行ったからですかね。あんまり肩肘張ったテーマでもなく(ゴロー氏の意図は知らん)気楽に見れました。
しかし原作は読んだこと無いのですが、相当な長さとのことですので、テレビ(日テレ?)で半年か1年くらいかけてやっても良いんじゃないかと思いました。正直映画ではジブリも頭打ちでしょうし、両御大も昔はテレビの仕事やってたんですから。

それにしても「均衡が崩れてる」とか「光が弱まってる」とかそれはジブリのことですか?親殺しといい狙ってるのかと勘繰ってしまいます。
『日本陸軍航空秘話』 田中耕二・河内山譲・生田惇 原書房 昭和56年

総勢50名を超える陸軍航空兵科出身者による座談会。主な出席者は
川嶋虎之輔少将(31)
青木 喬少将(32)
猿渡厚孝大佐(35)
宮子 実大佐(36)
秋山紋次郎大佐(37)
村田謹吾中佐(41)
田中耕二中佐(45)
加登川幸太郎中佐(42)

やはりその道の専門家が語るだけあって、読みごたえがある。知らなかった裏話とかもちょいちょいあった。座談会形式というのも読み易い。
ちなみに彼等が挙げる航空の先覚者は
寺内正毅:航空ために予算をとった
長岡外史:飛行機大好き人間
宇垣一成:4個師団と引き換えに航空8個中隊
井上幾太郎:文句なしに陸軍航空の父
徳川好敏:飛行将校の魁
石原莞爾:早くからの空軍独立論者
鈴木率道:優れた航空軍司令官
下村琢磨:やはり指揮官として優れる
原田貞憲:軍政面の第一人者
谷川一男:航空部隊運用の先覚者
島貫忠正:空地分離制の推進者
小野門之助:航空写真の大御所

島貫の空地分離というのは、それまで一纏めだった空中部隊(飛行中隊)と地上部隊(飛行場大隊)をばらして、別々に運用するというもの。航空士官学校の独立もこの島貫と谷川が殆どやったといわれる。島貫家は5人の息子が陸軍に入り、そのうち4人が陸大を恩賜で卒業したというちょっと他には例のない家。忠正はその長男にあたる。ノモンハンで戦死。

個人的には上にプラスして悲運の天才日野熊蔵を挙げたい。

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兄弟或いは親子で大将という例は幾つかあるが、それが陸海軍分かれてとなると、2組しかない。西郷兄弟と鈴木兄弟である。ただし西郷兄弟は草創期の人物で、いきなり大将或いは少将に任官されたことを考えると、正味の陸海軍兄弟大将は鈴木貫太郎・孝雄兄弟のみと云えるだろう。兄の貫太郎は終戦時の首相で有名だが、弟の孝雄はそのとき靖国神社の宮司をしていた。終戦で辞任したが、実に8年近くこの職にあった。彼の妻は日清日露の勇将立見尚文の娘で、次男の英は海軍に進み、開戦直前、郵船の事務員に身を窶してハワイを偵察した人物。ちなみに兄貫太郎の妻は、昭和天皇の養育係として知られる孝子夫人だ。

『怒涛の中の太陽』という本がある。孝雄の長男鈴木武氏が中心となって編纂された鈴木兄弟に関する本である。その中に、孝雄自ら筆をとり兄についての思い出を綴った「先兄を憶う」とい文章がある。残念ながら未完のまま、大将の遺稿となってしまった文章だが、中々面白いのでちょいと紹介したい。



大正5年頃だったか、私が砲兵課長奉職時、偶々品川よりの汽車の中で、兄と懇意な井上雅二氏と会った。氏は私に「君はお兄さんの人格についてどう思うか」と尋ねられた。私は「私が今日あるのは全く兄のおかげで衷心感謝しているが、特別なところがあるとは思わない」と答えた。すると井上氏は諄々と兄の業績を物語り、兄をして他日の大をなさしむるには、これからも兄弟が助け合っていかなければならないと、説かれた。後日これを兄に話すと、兄は笑って「私は決して名利を求めない。私はただ事に臨んで誠心誠意これを処理するのみだ。他人の批判のごときには全く関心が無い」と述べた。この言葉こそ、兄の終生を貫いた人生観ではないかと、物心ついた頃より終生苦楽を共にした私は思う。

父の由哲は関宿藩士で、元治元年から代官として和泉国伏尾の陣屋に駐在した。兄の貫太郎はそこで生まれた。3歳下の私は小石川の藩邸で生まれた。戸籍上は明治2年となっているが実際は明治3年生まれである。

兄は大きな体に似合わず泣き虫であった。しかもその泣き声は、体に比例してすこぶる大きかった。私は兄とは反対に強情で腕白で暴れ者であった。兄の泣き声を聞くと、私は兄を守るために直ちに声のする方へ飛び出していく。ついてみれば、兄は数人の学友に囲まれ、揶揄されているのか、ただ声を上げて泣いているだけである。私はまだ学齢に達していなかったけれど、彼らは私の姿を見ると囲みを解いて逃げ去った。私は、兄を苛めた上級生の一人が、私の家の前を通って通学することを知っていたので、翌朝未明から起きてその生徒が通るのを待ち伏せ、これに闘争を挑もうとしたが、その生徒はこれを察知したのか、道を変えて登校した。

小学校時代、私たちが住んでいた前橋に、板垣退助先生が演説に来られた。私たちは接待役補佐に選ばれた。まさに宴会が始まらんとするそのとき、突然私は宴会に出席して酌をしろと申し付けられた。驚いた私は兄に相談し、兄は年長の学童に代わってくれるよう頼んだが、彼らは、”武士の子が酌をするなどもってのほかである。我々は下足番をするから、お前たちは酌をしろ”といって代わってくれない。そこで私は仕方なく宴席についた。そして云われるがままに、立って演説する板垣先生に「先生水を」とコップを差し出した。礼儀作法も心得ない学童を、このような場面で使うとは、よくよく無謀な話である。私は明治11,2年頃、胃病に悩み、病床に呻吟していた。兄は学校から帰宅するとまず第一に私の病床を見舞った。私が兄の帰宅を一日千秋の思いで待つとともに、兄は私が一日でも早く快復することを望んだ。兄の私に対する愛情はこの時代に始まり、終生変わることなく続いたことを憶うに、私は感謝の念禁ずるに能わざるとともに、涙を禁じ得ない。

明治18年の夏、海軍兵学校より帰ってきた兄と二人で妙義山に登る二泊三日の旅行をした。この旅行こそ、兄が私に最も大きな教化を与えた記念すべき旅行であった。私たちは妙義山を下り富岡町に至る途中で道に迷い、右へ行くか左へ行くか議論した。その結果、私は茶目っ気を出して、憤然と自らが主張した道を進み、数百メートルいったところで桑畑に隠れて兄の動静を観察していた。しばらくすると心配顔の兄が私の前を通り過ぎた。私は兄が数十メートル行ったところで声をかけた。すると振り向いた兄は、目に涙を浮かべて、”お前は出発前に父上が言われたことを忘れたのか。父上は我らに仲良く旅行をしてこいと言われた。このような行動をして、お前自身は満足かもしれないが、私は兄として父上に面目が立たない。この行は、お前一人の行にあらず、二人の旅行である。自分の欲を充たさんとして他者の責任を考えないのは愚者の行為だ。”と諄々と私に訓戒を加えた。私は返す言葉もなく、涙を浮かべて己の不明を詫びた。



以下思い出は日清戦争にとび、そこで終わっている。未完なのは残念だが、それでも兄弟の若い頃を生き生きと描く文章は素晴らしい。終戦という未曾有の大事件の収拾にあたった鈴木貫太郎には、それを陰で支えるこういう弟が居たのである。鈴木貫太郎は昭和23年、82歳で世を去った。鈴木孝雄は戦後は偕行社会長を長く務め、昭和39年、93歳の天寿を全うした。


写真は靖国神社宮司時代の鈴木孝雄



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毎日暑うおますな。絶対地球おかしなってますね。
というわけで、お盆らしくお墓参りならぬお墓撮影。
行ったことのなかった霊山行ってきました。
祇園でバスを降り、ひぃひぃ云いながら歩いて。
暑いの暑くないのって。




 天誅組の吉村寅太郎(左)と藤本鉄石の墓
 
後で分かったのだが、吉村の後ろには梅田雲浜の墓があったらしい。

 那須俊平

天誅組那須信吾の舅で、禁門の変で戦死した。

 平野國臣

この奥に野村望東尼の歌碑があったらしい・・・

 水戸藩士住谷寅之助

光って見えないでしょうが・・・

 梁川星巌

死に上手?

 これは木戸夫妻。左が孝允、右が松子。
 
仲良く並んでます。

 十津川郷士中井正五郎

竜馬暗殺の復讐の殴りこみで斬り死にした人。

所郁太郎

井上聞多の治療をした人です。

 宮部鼎蔵

池田屋で死んだ肥後の御大。

 人斬り河上彦斎

某ジャンプ漫画のモデルとか。

 んでまあお馴染みのお二人さん
 


お盆ちゅうことで、皆さん帰ってこられてたんでしょうか?
ろくろく手も合わせずごめんなさい。

で、まあこの後、霊山歴史観に立ち寄ったわけですが、そこでがっくり。志士の墓マップがあるじゃないですか!なんだよ大村益次郎って・・・そんなん見逃してるよorz
これから京都めぐりにいい季節になりますが、行かれる方は、先にミュージアムの方に寄られると良いと思います。入場料は500円、霊山の方は300円です。

 ちなみにこんな方も

建立委員長は瀬島龍三氏

帰りは高台寺には寄らず、ねねの道?をとろとろ歩いて帰りました。

帰り道に発見した御陵衛士の碑。そういえば彼らは高台寺に居たんですねえ。

しかしせっかく行くのなら、やはり最低限のプランは立てて行かないとだめですね。ちゃんとしたデジカメ買ったらまた行こうっと。


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再放送を録画して、たった今見ました。まあ取り立てて目新しい内容でも無かったですね。支那事変拡大へのみちのり(昭和12年7月~13年1月)は非常に入り組んでおり、元々1時間やそこらでどうこうできるものじゃないですが。

しかし下村定を出しときながら、多田駿堀場一雄を出さないのはどうしてですかね?軍上層部ったって、陸軍大臣の杉山は一撃論者の神輿に乗ってたわけだから、制令線に拘って南京への追撃に反対していた上層部というのは、事実上多田のことでしょうが。

やっぱりまともな軍人を出すのは憚りがありますか?チャイナ放送協会さんw
ありのままをさらけ出さずに、本当の友好は有り得ないでっせ。

それにしても昭和13年1月15日の大本営政府連絡会議は、その後の日本の行方を決定付けたともいえるのに、ホントによくスルーされますね。全く情けない限りです。歴史屋より講談屋が幅を効かす国だからしょうがねえか。

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糺の森の古本まつりに行ってきました。
小一時間のつもりがたっぷり三時間。
収穫はまあまあでしたが、ショックなことが。
数週間前に1万円で買った本が2千円でありましたorz
一番欲しかった本も手持ち不足で買い損ねたし。
11月の知恩寺でリベンジだな、こりゃ。




その後行ったことの無かった霊山を
くそ暑い中えっちらおっちら廻りました。
これはまた後日。

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これまでのあらすじ


段祺瑞は馮国璋、王士珍とならび北洋の三傑と呼ばれた袁世凱の宿将である。この三人は段が砲兵、馮が歩兵、王が工兵と出身の兵科も違い、段は虎、馮は狗、王は竜と呼ばれた。

段はいったん目を掛けた人はどんなことがあっても捨てないと言われた。彼の一派は俗に安徽派と呼ばれ、徐樹錚、呉光新、傅良佐、靳雲鵬の段門の四天王や盧永祥、陳樹藩、段芝貴などで構成されていた。段が長く陸軍総長や国務総理を務め、譜代の四将軍もまたその下で官僚ポストを歴任していたため、彼らはあまり大きな私兵集団を持たなかった。

安徽派の最重要人物は徐樹錚である。彼は1909年に日本の陸軍士官学校を卒業した後は、段の智嚢として活躍した切れ者であった。軍人に似合わず政治的な才知に富み、武弁である段を補佐したが、やり過ぎて敵も多かった。

一方、馮国璋を中心とした直隷派は、北京から遠ざけられていたが故に、安徽派と比べて強力な私兵集団を持つことができた。直隷派は馮を筆頭に曹錕、王占元、李純、陳光遠、孫伝芳、斉燮元、馮玉祥などおり、曹錕の配下には呉佩孚がいた。

1917年(民国6年)11月、対南政策を巡って段祺瑞は国務総理を辞任した。しかし徐樹錚の策動によって、本来主和派のはずの直隷督軍曹錕らが馮国璋に対南武力行使を要求した。さらに徐は張作霖を関内に招じ入れ馮に圧力をかけた。1918年(民国7年)3月、やむを得ず馮国璋は王士珍に代えて段祺瑞を国務総理に任命した。

しかし段の武力統一政策はうまくはいかず、11月、大総統に就任した徐世昌は停戦を命じ、翌年2月には南北和平会議を開いた。会議自体は破綻したが、五・四運動によって反帝国主義の運動は全国に広まった。これを受けて呉佩孚は南北和平を訴え段政府を攻撃した。

1920年(民国9年)5月、かねてより撤兵を訴えていた呉佩孚は、遂に無断で湖南より撤退して保定に帰ってしまった。そして7月には徐樹錚の罪を鳴らし、直隷平野に兵を進めた。段祺瑞も辺防軍(参戦軍)をもって定国軍を組織し、自ら総司令、徐樹錚を総参謀長に任命し、保定に布陣した。辺防軍というのは元々参戦軍といい、坂西利八郎が、軍閥に左右されない国軍の中核にしようと育てていた。坂西も青木も辺防軍の使用に反対であったが、辺防軍を権力基盤とする安徽派が聞き入れるはずも無かった。

かつて徐樹錚の招きで入関した張作霖は、このときすでに徐とは決裂しており、安徽派と同じく日本を後ろ盾に持っていたにも関わらず、直隷派についた。また段譜代の靳雲鵬も、徐との不仲から離反した。しかしそれでも安徽派有利が大勢の見方であった。張の顧問をしていた町野武馬ですらも安徽派の勝利を予想していた。

7月14日に始まった勝負は、わずか数日で決着がついた。兵力に勝る安徽派が惨敗し、段は下野、徐は日本へ亡命した。これは前述のように安徽派に信頼できる手兵が無かったことや、トラブルメーカー徐樹錚によって、安徽派内部が分裂したことも原因に挙げられるが、一番の要因は五・四運動以降の排日機運であろう。直隷派はナショナリストのポーズをとり、安徽派を親日集団として攻撃した。しかし、実際安徽派は日本に対して再三援助を求めたが、日本は最後まで手を出さなかった。いや出す暇が無かったのか?

直隷派の総帥馮国璋は前年の12月に病死していたため、北京の権力は新総帥曹錕とその配下の実力者呉佩孚、そして張作霖が握った。しかし直隷派と奉天派は元来水と油であった。



波多野善大『中国近代軍閥の研究』
戸部良一『日本陸軍と中国』
西原亀三『夢の七十余年』


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北京から満洲へ逃げ帰る張作霖の列車は、京奉線のクロス地点に於いて爆破されたが、このとき起爆スイッチを押したのは東宮自身であったとの説もある。もとより河本、東宮の行為は許されざるものである。しかし一方において、張作霖の苛斂誅求もこれまた揺るがし難い事実だ。また東宮が熱心に進めた満蒙開拓移民も、多くの原住民から土地を奪い、彼らを不幸にした。しかし終戦後の日本移民の凄絶なる運命は、一体誰に一義的責任があるのか?そもそも8万人もの農民が死に追いやられることについて、NHKなどどう思っているのだろうか?戦争にはよくある事とでも言うつもりだろうか?戦争犯罪というものに勝った側負けた側の区別があるのだろうか?何でもかんでも人のせいにしない態度は結構だが、ここまで来ると何らかの意図をもってやってるのかと疑いたくもなる。



さて張作霖爆殺事件の後、東宮は岡山の歩兵第十聯隊の中隊長に転任となった。聯隊長は小畑敏四郎であった。小畑は東宮を深く愛したが、東宮もまたこの陸軍きっての切れ者聯隊長を深く尊敬した。当時東宮は河本の後を追って予備役となるつもりであったが、小畑は自分に一任しろといってこれを止めた。小畑はこのとき、永田岡村らと河本の処分に反対する運動を続けていた。結局彼ら二葉会の運動の甲斐なく河本は予備役となったが、東宮は現役に残れることになった。当時の東宮を知る人はこう語っている。
「東宮さんは実に立派な完璧な中隊長であった。全身全霊、これ至誠の人といっても過言ではない。日ならずして聯隊内の将校下士官は、東宮さんの人柄に打たれた。東宮さんは熱血、純情の人であったが、誰に対しても謙抑で親しみ易い、素朴な村の長老といったタイプで、威張るとか法螺を吹くとか、自己の手柄話などはしない。つねに春風駘蕩たる人柄だが、一歩公務となれば峻烈極まりない」
このころ既に東宮は、武装移民の計画を抱いており、予備となったらその活動に打つ込むつもりで、聯隊の将校にも語っていた。
当時は非常な不況であった。彼はまた非常に人情に厚く、兵隊の家庭が困っていないかを熱心に調べた。そして貧農の子弟がいると呼んで話を聞き、ボロボロと涙を流した。父母が病気だなどという話を聞くと、堪らなくなるのか、財布の金を全部出し、断る兵隊に無理やり握らせる。なので、中隊付きの曹長がよほど気を付けていないと、東宮の給料袋は空になってしまう。満蒙移民の背景にはこういった世相もあったということも、少しは頭に入れておいて良いのではないか。

支那事変が勃発すると、東宮は特設師団の大隊長として出征した。柳川平助率いる第十軍の一員として杭州湾上陸を果たした彼は、11月14日、浙江省平湖県の草原で、左胸に被弾した。もはや助からないことを自覚した東宮は、部下にノートと鉛筆を出させ、

うれしさや 秋晴れの野に 部下と共

という辞世の句を認め絶命した。享年45歳。死後歩兵大佐に昇進した。

余談ではあるが、東宮に先立つこと2ヶ月、これまた特色ある隊付将校、杉本五郎も戦死している。彼もまた、死してなお影響を後世に与え続けた人物であった。


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麻生太郎外務大臣が先頃朝日新聞紙上で、靖国神社の非宗教法人化という意見を述べられました。また自身のサイトにも靖国に弥栄あれという題で意見を載せておられます。前半の靖国神社に対する考えは概ね同意です。特に”(2) 靖国神社にとって、「代替施設」はあり得ません。 ”という部分は当にそのとおりだと思います。目先の利益だけ追いかけ、安易に代替施設の建設をなどとほざく恥知らずな輩とはさすがに違います。また本問題の解決法として麻生大臣は、靖国を最終的に国営にし、その過程で合祀の基準も明確に決めるとしています。私はこれはこれで一つの見識だとは思いますが、ベストかどうかは判断が付きません。ただ時間が無いというのは激しく同意です。皆死んでしまい気色の悪い連中ばかりになってからでは、どうしようもないですからね。すでにサヨクはそうなってますね。ウヨクも早晩そうなるでしょう。
麻生氏の靖国私見について

さて話は変わります。麻生太郎氏といえば吉田茂を祖父にもち、三笠宮仁親王殿下は義弟という名家の出ですが、そんな氏にも靖国に眠る親類がおられます。麻生攝郎海軍少尉。麻生太賀吉氏(太郎氏の親父殿)の従弟です。麻生少尉は昭和20年4月29日、第四筑波隊の一員として沖縄に突っ込み戦死しました。少尉は早稲田大学商学部を卒業した予備学生でした。後日母の元に半紙一枚の遺墨が届きました。




少尉はクラシックが好きで、弟妹への遺書には、戦死したならば交響曲のレコードをかけて我が霊を慰めてくれとあったそうです。




 




日本昔話のごんぎつねを見て、懐かしくなって青空文庫で新見南吉の作品を読んでたところ、「手袋を買いに」の中にもありました。
「ねむれ ねむれ
母の胸に、
ねむれ ねむれ
母の手に――」
シューベルトの子守唄。
戦死する将兵が最期に叫ぶのは「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」であるというのは良く聞く話です。
立山英夫歩兵少尉は、支那事変初期の永定河の戦いで戦死しました。少尉に任官されたかどうかという時期で、勿論49期最初の戦死者でした。少尉の内ポケットには母の写真が一葉入っていました。その裏には次のような母への思いが綴られていました。




「お母さん」と24回繰り返すこの文にいたく心打たれたかつての大隊長大江一二三少佐は、少尉の葬儀が営まれる日、次の弔歌を打電しました。

靖国の宮に御霊は鎮まるも
     をりをり帰れ母の夢路に



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硫黄島で散った男爵西竹一
ロスオリンピックでのひとコマ



栗林中将の指導はとにかく細かく厳しいものだったそうです。これはアメリカの力を知りすぎるほど知っていた故でしょう。中将は現状について甘い希望など一切持っていませんでした。

さて「バロン西、出てきなさい」という米軍の呼びかけは、文字通り”伝説”だったわけですが、栗林中将の最期にも異説があります。一般的にいわれている中将の最期は、最後の突撃の先頭に立ち、戦死もしくは自決というものです。しかしそうではなく、「もはや充分に戦った。降伏しよう」という栗林を高石参謀長と中根参謀が射殺し、その後2人も自決したという話です。この話の出所はどうやら独混第十七聯隊通信隊の某下士官であるようです。『オリンポスの使徒』の著者大野芳氏はこの下士官に話を聞こうとしましたが、この下士官は婉曲に証言を拒んだということです。

ところでこの番組に出ておられた大曲さんは、最期の乱戦において、一時西中佐と一緒に行動しておられた方です。お元気なのは何よりですね。しかし出てくる人が海軍ばかりなのは偶然でしょうか?

それにしてもNHKは相変わらずですね。今すぐ北朝鮮とか中国みたいな一党独裁国家に移っても、何の問題も無く適合できそうですね、この局は。


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バルトの楽園という映画が公開中だ。私は未見なのだが、第一次世界大戦のドイツ人捕虜収容所を舞台にした映画で、主人公は松江豊樹大佐のようだ。会津出身ということから早速星亮一氏が本を書いてる。ただマツケンはどうも苦手だ。何かコスプレに見えてしょうがない。

ところでバルトというのは髭を意味するそうだ。おいらが何の疑いも無くバルト海だと思い込んでたのは内緒。

 


チンタオ陥落で捕虜となったドイツ人を収容する捕虜収容所は、この徳島以外にも10箇所以上あった。所長にも後の大将真崎甚三郎松木直亮といったドイツ駐在経験のある人々が充てられた。福岡収容所所長を務めた白石通則は後に中将となった。終戦時の宮城事件で義兄の近衛師団長森赳と共に、畑中少佐らに斬殺された白石通教中佐は、この人の次男にあたる(森の妹が白石に嫁いでいた)。

習志野(最初は浅草にあった)収容所の所長を務めたのは、西郷隆盛の嗣子、侯爵西郷寅太郎大佐であった。父西郷は西南の役で賊徒となったが、明治帝の西郷への愛情は変わることが無く、寅太郎は明治帝特別の思し召しにより、18歳のときドイツへ留学した。

ドイツでプロシア陸軍の士官学校を卒業し少尉に任官された寅太郎は、帰国後、帝國陸軍の歩兵少尉に任官された。こういう経歴の持ち主は後にも先にも彼一人である。明治35年、侯爵受爵が伝えられると、彼が母と2人で暮らす借家に、徳川慶喜が馬車で乗りつけ祝福した。

彼が歩一の大隊長時代、同じく歩一に勤務していた樋口季一郎の回想に、第一師団の秋季演習時の面白い話が載っている。富士の裾野で行われた演習の初期、第一旅団長統裁の南北支隊対抗演習が行われた。西郷は南軍の支隊長を務めた。ところが夕食に一本付けさせた西郷支隊長は、一本が二本になり三本になり遂に眠り込んでしまった。前線からは引きも切らさず情報は入ってくる。副官たちはてんてこ舞いだ。そんな時、審判官である歩兵第一聯隊長がやってきた。聯隊長はひっくり返っている西郷を見て驚き、「西郷君、西郷君」と体を揺すったが、先生一向に起きる気配が無い。そこで腹をくくった聯隊長は、自分が西郷の代わりを務めることにした。日付が変わってようやく目を覚ました西郷は、各隊の命令受領者を集めると、副官の捧げる支隊命令を躊躇無く読み上げた。それが、直属の上官であり、この演習の審判官でもある聯隊長の書いたものであるとは露知らず。

ドイツに長くいた彼は当然ドイツ語が堪能であった。時々兵隊にドイツ語で号令をかけたというが、これは嫌味でやってるのではなく、自分では日本語で言ってるつもりが自然にドイツ語になったという(そういえば先日お亡くなりになった吉村昭先生の『長英逃亡』という小説で、高野長英が階段から突き落とされたとき、「危ない」とオランダ語で叫んだというエピソードがあったのを思い出した)。こんな彼であるから、ドイツ人相手の捕虜収容所長は打ってつけの仕事である。着任した彼は「戦争は政治的関係で、人民其の者に対しては何等の敵意がない」との訓示を下した。日本にソーセージの製法を伝えたのは、この習志野収容所に収容されていた職人さんであった。しかし、大正8年1月、世界的に大流行したスペイン風邪に罹って、西郷寅太郎大佐は、命を落とした。享年54歳。


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61年前の8月3日、病院船橘丸は、バンダ海上で、米駆逐艦からの停戦命令を受けた。橘丸には、第五師団の第十一聯隊第一、第二大隊と第四十二聯隊の一個中隊が乗っていた。臨検によって隠していた武器を発見した米艦は、直ちに橘丸を拿捕、乗っていた将兵を捕虜とした。病院船を使った兵力輸送は国際法違反であった。

8月5日、カイ島で、橘丸の拿捕を知った第五師団参謀長浜島厳郎大佐は、翌日自決した。飛行機で先行していた第十一聯隊長佐々木五三大佐は、スラバヤでこの情報に接して驚き、第五師団長山田清一中将に、進退伺いの電報を送った。セラム島の山田師団長からの返電は、7日頃届いた。それは『この事件の責任は師団長にある。私に任せよ』というものだった。

橘丸の拿捕を知った南方軍総司令官寺内寿一は激怒した。参謀副長の和知鷹二によれば、『広島十一聯隊は武勇の誇り高い名門である。生き恥をさらすのは皇軍の不名誉この上もない。直ちに爆撃機を出して橘丸を撃沈してしまえ』といったというから尋常ではない。自分で命令しておいてよくもまあこんなこと言えたものだと思うが、あるいは病気が脳までまわってたのか。

そもそも第五師団では、病院船を使った兵力輸送に反対であった。それを「光輸送」といって強行したのは南方総軍であった。しかし戦後は一転して、責任をすべて第五師団になすりつけた。第五師団が属していた第二軍司令官豊島房太郎中将もまた、『内部的責任は総軍、外部的責任は第五師団にある』というわけのわからない証言を行い、自らの責任については、『知らぬ存ぜぬ』を貫いた。軍司令官のこうした態度は、直属の参謀からも反感を買い、北森信男中佐は巣鴨に於いて、豊島中将に対し、『責任を回避すべきでない』とかなり強硬に申し入れたと言う。しかし結局総軍も第二軍も最後まで、病院船に兵士を乗せたのは第五師団の独断であるという主張を続けた。なぜなら、参謀長に続き、師団長山田清一もまた、8月15日、セラム島において自決していたからであった。

7日、セラム島で浜島参謀長の遺骨を迎えた山田中将は『ご苦労だったなあ』とまるで生きている人間に話しかけるように言った。15日、終戦の事実を確認すると、山田中将は一人黙って姿を消した。師団長不在に気付いた部下が探すと、裏山の防空壕の中で、額を撃ち抜いて倒れている山田の遺体が発見された。山田は開戦時、整備局長の職にあり、省内会議で、貯油量の不足を理由に、東條の前で敢然と開戦反対を主張した人物であった。学者肌で、当然病院船による兵力輸送が国際法違反であることを承知しており、ちゃんとした輸送船を回すように要求していた。橘丸しかないとわかったとき、静かに『米軍に臨検を受けたら終わりだね』と言ったという。

当時の裁判において、死んだ人間に責任をかぶせて、すこしでも”被害者”を減らすという手法は、必ずしもおかしいことではない。あるいは沼田多稼蔵参謀長も、『すべては第五師団の独断』などという事実に反する証言を行うことは苦痛であったかもしれない(副長の和知は割合率直に責任を認めているが)。しかしそれによって、生き残った第五師団の人々は酷い目にあった。今や何憚ること無い時代である。責任の所在は明確にされるべきである。名誉は回復されるべきである。

山田中将は非常な母親っ子であった。賢母の誉れ高かった母は『どこまでもいつまでもお前について離れずにいるよ』という言葉を残して逝った。南方の陣中で母の訃報に接した山田は、肌身離さず持っていた母の写真を取り出してむせび泣いたという。

いつくみし はぐくみ給いし母君の みたまはわれに今ぞ移りぬ


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