近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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特攻隊員というと誰を思い浮かべるでしょう?関大尉?藤井中尉?上原少尉※?
私は題名の若杉少尉です。私が彼の名を知ったのは故村上兵衛氏の『桜と剣』でした。淡路島の巡査の息子であった彼は、洲本中学では開校以来の秀才といわれていたそうです。その後広島幼年学校、陸士予科、航空士官学校と進み、すべて恩賜で卒業しました。

航空士官学校時代ではひとつのエピソードがある。
その担任の区隊長が、若杉を目の仇にして、些細なことを咎めては、彼を殴った。
その区隊長はモノマニアックなところがあり、とくに幼年学校に対する激しい敵意を抱いていたらしい。
嫌いな幼年学校出身の生徒が、しかし何でも良く出来るとなると、事毎に腹が立ったのかも知れない。
若杉は、温厚でけっして人と争ったりしない優しい性格の男でだったが、そういう完璧さが、ますます区隊長の怒りを誘った、ということも考えられる。
毎日のように、満座の中での殴打が続き、若杉の顔は、いつも脹れあがっていた。
しかし若杉は、それは自分にどこか至らないところがあるから、と反省するような男だ。
とうとうある夜、区隊長がまた若杉を列の前に呼び出し、殴ろうとすると、
「待ってください」と列中から呼び声がかかった。
同期の野上五夫が、
「若杉を殴るなら、私を殴ってからにしてください」と、一歩前に進み出たのである。
「なにぃ」
区隊長の怒りの眼差しの前に、すると、
「私も同じです」
「私も・・・・」
ぞろぞろと全区隊の生徒たちが、一歩前に踏み出した。
「貴様らぁ」
狂乱した区隊長は、その全員を、つぎからつぎに殴り飛ばし、そして部屋から去っていった。
野上によると、そのときの区隊長の後姿は、がっくりと肩が落ちて、じつに淋し気だった、という。
そして、その日からぴたりと区隊長の”若杉いじめ”はおさまった。(村上前掲書)


その後彼は常陸教導飛行師団で編成された八紘第十隊(殉義隊)の隊員に選ばれました。しかしその態度は、実に従容たるもので、一点の曇りも無い晴れ晴れとした表情であったと、皆語ります。

「若杉少尉にはおどろいた。あの人は普段から悠揚としていたが、特攻隊に決まっても、少しも変わらず、こちらが挨拶すると、にこやかに答礼してくれたものです」(高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』)


伝聞いた村上氏ら同期の人々も、若杉ならさもありなんと、何ら疑うことなく、それを受け入れました。しかし、フィリピンへ向かう途中、新田原で同期の日野少尉、木幡少尉と会った若杉少尉は、
「特攻隊編成の話があった時、おれは一番で志願した。しかし・・・・貴様は、まちがっても特攻隊なんかになるんじゃないぞ」と2人に言い残しました。その後、台湾の高雄でも同期の歩兵少尉を探して、一晩語り明かし、最後にこう言ったといいます。

「今まで俺は天皇陛下のため、お国のためと言い続けてきた。
 自分でもそれを信じ、いや信じていると思っていた。
 しかしその言葉にはどうも本当ではない部分が混じっているような気がする。
 …俺はそのことを誰かに言い遺しておきたかったんだよ」(村上前掲書)


敦賀隊長以下殉義隊の五機は、昭和19年12月18日、クラークへ進出、同21日1240頃、ミンドロ島沖の敵輸送船団に突入しました。

若杉是俊少尉 享年22歳 死後二階級昇進 功三級




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三浦観樹の回想録読んでからこちら、すっかり明治ずいてる。
ただこの時代を扱う本となると、どうしても古い物が多く、手に入れ辛い。芙蓉書房さんやってくれんかな?再刊。





これは西南の役の終結後、宮中に参内したときの諸将。
山田顕義(市ィ)がどれかは説明なしでも分かるでしょう。
山田の後ろは、顔見たら分かると思いますが、大山弥助
山田の右の目つきの悪いのが三浦梧楼です。
その横の髭はどっかで見た記憶があるんですが、思い出せない(谷かなあ?)。
それにしても、30台でこの童顔。そらこの10年前の戊辰の役のとき、西郷どんが、こんな子供に任せて大丈夫かと心配したのもわかるちゅうはなしですわ。





これは、四将軍とか呼ばれながら、三浦の回顧録に最後まで名前の出てこなかった曽我祐準。中々の美形では?
坂本竜馬暗殺の直後に、それとは知らずに、竜馬の下宿を訪ねたそうだ。彼の自叙伝は、解説も含めて中々勉強になる。故司馬遼太郎さんの小説で出てくるネタも散見する。司馬さんもこれ読んだんかなあ?





おまけ。日露の諸将。ひじ付いてタバコの児玉がダンディ。
話題になっているのは、速記とかではなくメモなので、それだけ読むと、松岡と白鳥には気の毒すぎるように思うが、親英米派の昭和天皇らしい発言だと思う。

君臨すれど統治せずが建前の天皇であるが、それでも何度か政治介入しているし、軍人の人事にまで口を出したこともある。2.26事件や終戦時の御前会議は言わずもがなだが、山下奉文石原莞爾の親補職への就任をご裁可されなかったことは夙に知られる。石原は板垣の、山下は同期の阿南沢田の計らいで、何とか2度目のトライでご裁可を得ているが。

昭和天皇の人物の好みの一つとして、何でも細かく嘘をつかずに報告(上奏)してくる人物が挙げられる。故に東條英機は寵愛されたし、松岡などは嫌われただろう。

ここに一つ、一般的にはあまり知られていないが、私個人としては非常に重視している昭和天皇の人事への介入例がある。阿部信行内閣の陸相人事である。次期陸相というのは通常、陸軍三長官の会議で決まる。もっともそこには人事局長なども出ることがあり、厳密に三人だけで決めるというわけではないが。阿部内閣の陸相には、この三長官会議の結果、四人の候補の中から阿部と同じ兵科で、人物に偏りの少ない多田駿が選ばれ、人事局長が牡丹江目指して出発した。

ところが参内した阿部は、天皇から、”陸相には梅津を。それ以外の者は認めない”という思わぬお言葉を聞いて仰天する。梅津は石橋を叩いても渡らないといわれた慎重居士であり、畑もまあ似たようなタイプ。梅津は関東軍司令官になったばかりということで、結局侍従武官長の畑を下げ渡し願い、なんとか組閣した。

しかしなぜ天皇はこのようなことを言い出したのか。独白録でもこのことは触れられているが、理由までは書かれていない。多田よりもう一人の候補だった磯谷を忌避したような感じもするが、それにしてもである。ただいろいろ諸事情を総合すると、やはり君側に入れ知恵した人間がいた可能性が高いと思う。

天皇のお声掛りで陸相となった畑は、就任直後の陸軍省で痛烈に従来の陸軍を批判する演説を行ったが、結局余り為すところ無く、最後は統帥部の圧力に負けて、米内内閣を潰してしまう。

一方寸前で陸相の座を逃した多田は、その後北支方面軍司令官を最後に予備役となった。彼は元々事変初期に参謀次長として、事変の不拡大に注力した所謂不拡大派の親玉であった。しかし、”平和主義者”とされる天皇に彼は忌避された。或いは参謀次長として身近に接し、不拡大を唱えながらもずるずると引きずられていった多田の姿に、頼りなさを感じていたのだろうか。

私がこの人事を重視するのは、下世話な論点だが、多田の人間関係による。彼は当時陸軍において、最も石原莞爾と親しい人間の一人であり、また最も東條英機と仲の悪い人間の一人であった。戦後最も人口に膾炙したIFの一つ、”石原の進出と東條の失脚”は、実は多田の陸相就任によって実現した可能性があるのだ。勿論その結果がどうなったかは分からない。もしかしたら東條の代わりに石原が十三階段を上がっただけかもしれない。まあ、それにしても興味をそそられるIFである。



もっとも今回のメモ、偽者もしくは勘違いの可能性もあるかも?しかし天皇の側近というのは、昔から余り人物がいない。
それと立ってるものは親でも使うマスコミの態度は、みっともない。恥と言う感覚は無いのかねえ?
高杉晋作のこと
高杉という人はまったく偉人であった。乃公がこれまで偉い人だと思ったのは、高杉一人だけだ。長州で門閥を打破し人材の抜擢に努めたのも高杉だ。伊藤、井上、山縣、品川、鳥尾、それに乃公と、皆高杉に抜擢された。乃公などは高杉から随分可愛がられた。そのころからよく山縣とは衝突していたが、
「狂介ごときを眼中においてどうなるものか」
とよく言われたよ。
大西郷を偉いという人がいるが、あれはただボーっとしているだけだ。高杉は違う。機略縦横、ゆくとして可ならざるはなしである。

木戸孝允のこと
木戸は乃公より11歳年上で、まずは兄貴分といったところだ。乃公とは立場が違ったが、全く同意見だった。彼は長州出身であっても決して長州味の無い人で、あくまで薩長の情実人事を打破して、公明正大な政治を行うことを目標にしていた。木戸はまったく立憲政治の主唱者、先覚者だ。彼は何事についても進歩的な意見を持っていた。
木戸は若い頃斎藤弥九郎道場の塾頭をつとめたほどの手練れであった。ある年の正月、黒田清隆が木戸のところに挨拶にした。そしてさんざん飲んで暴れ始めた。木戸がなだめても言うことを聞かない。挙句には木戸に掴み掛かった。しかし木戸は剣術だけでなく柔術も心得ておる。黒田はただ蛮勇だけで木戸の敵ではない。木戸は飛び掛ってきた黒田に大腰を掛け、物の見事に投げた。そして喉を締め上げて
「どうじゃまいったか」
というと、黒田も
「まいった、まいった、ゆるせ」
とあやまるので、駕籠を呼んで送り出してやった。その一件以来、あの乱暴者の黒田が、木戸にはすっかり閉口しておった。

伊藤博文と山縣有朋
あるとき郷里の者が、東京に出て二人を訪ねた。その後乃公のところに来て、
「山縣さんのところは、取り扱いが誠に親切であったが、伊藤さんは大違いでろくに話もきいてくれない」
というので、乃公は
「なるほどそれはちょっとそう見えるが、伊藤の泣くおりは、本当の涙を流すが、どうも目白の涙はあてにならんぜ
と言ってやった。この話を後に陸実が聞いて、それは名評だと、新聞に載せたそうだ。
山縣が自伝を出したといって一冊よこした。読むと、山縣が馬関にいたとき、伊藤が高杉の紹介状を持って尋ねてきたという一節があった。紹介状には「この者見込みがあるから、よく引き立ててやってくれ」というようなことが書いてあったという。それを読んだとき、乃公もこれはちょっとおかしいなと思ったが、果たして、伊藤がこれを読んで激怒した。
「山縣という男は実に驚き入った奴だ。予とあいつとは、松陰先生門下で一緒にやってきた仲じゃないか。何でわざわざ高杉の紹介状を持っていくことがあるか」
ところが山縣の方も、紹介状は今でも確かにあると言い張る。そこで乃公は、それはあるのかも知れないが、そんなこと態々書いて、伊藤を怒らせることは無いじゃないかと言うと、山縣もそれはそうだと折れて、次の改訂版で削除すると言ったが、結局そのままになっているようだ。
伊藤が暗殺された年の年末のこと、ふと新聞を見ると、伊藤の遭難写真が国技館で公開されるという広告が載っていた。乃公はこれは実にけしからんと思い、直ぐに山縣に、止めさせるよう桂に伝えろといった。山縣も分かったと請合ったので、安心して熱海に行った。ところが帰ってきて新聞を見ると、予定通り興行が行われたという。驚いて山縣に詰問の手紙を出したところ、年末年始の忙しさで忘れていたという。更に内務大臣の平田東助からも手紙があり、件の写真は真っ黒で何が何やら分からぬので、差し支えないと思って許しましたという。写真が黒いとか白いとかは問題ではないのだ。卑しくも国家の元勲の遭難の実況を鉦太鼓で囃しながら見世物にするのが問題なのだ。この点、自分は絶対に看過できないと怒った。政府は遂にその写真を買い取ったそうだ。

後藤新平のこと
まだ後藤に会う前、人に後藤の人物評を聞かれ
「あれは子供が植木を植えるようなものだ。朝植えると昼にはもうついたかと、抜いてみないと気がすまんのじゃ。あれが何かをやったってつく気遣いがない」
と言った。その後、寺内のところで初めて後藤と会ったとき、後藤がこの話を持ち出し、
「三浦さんは私のことを子供が植木を植えるようなものだと言われたそうですね」
と言うと、それを聞いた寺内が偉くうけて、頭を押さえて大笑いした。後藤は不満そうに
「私だって衛生局長なんて詰まらん仕事を7年も続けてました。朝植えて昼抜くような馬鹿なことはしません」
というので、
「そんなことは知らんが、乃公が見たところ子供の植木だ」
と言ってやった。寺内は大いに笑っておった。

山本権兵衛のこと
山本が総理大臣になって枢密院に来たとき。乃公は山本の顔を見ると、
「やあ山本、今年は薩摩芋が豊作だそうだが、芋焼酎ばっかり飲むなよ。近所が困るぜ」
と言ってやった。山本は二の句が継げず
「馬鹿ぁ」
と言っただけで出て行ったが、廊下へ出た後でまた引き返して、扉を開けるとそこから半分だけ顔を出して
「三浦、萩の餅はもうかびたぜ」
とだけ言うと、さっさと帰っていった。咄嗟に良い返しが思い浮かばず、ずっと考えてきたが、廊下に出てからそれが思い浮かんだので、引き返してきたらしい。山本はこういう快活で面白い男で、乃公は彼と話をするのが大好きだった。

恐妻家の谷干城
土佐は難治の国で知られていた。明治25、6年のこと。谷が故国土佐の県知事をやると言ってきた。農商務大臣までやった男が、故郷のために県知事をやるという。それも知事の上役、内務大臣は谷の仇敵井上馨である。谷は偉い男だと皆感心した。ただ伊藤だけは、谷は大丈夫かと念を押す。妙なことを言うなと思って居ると、数日して谷が困った顔でやってきた。聞くと妻やら陸実やらが反対してどうもだめだという。しょうがないので井上と2人で伊藤のところへ行って事情を話すと、伊藤は
「女房に言われて進退を変えるとは情けない奴だ。谷にはときどきこういうことがある。だから俺は念を押したんだ」
とぶりぶり怒ったが致し方ない。結局その趣を上奏して、谷の県知事就任は沙汰止みとなった。

大迫尚敏と大寺安純
鳥羽伏見の戦いのとき、乃公は薩摩の陣屋でタバコをもらったことがあった。ずっと後年、宮中で昔話をしていると、大迫があれはあなたでしょうと言う。そこで、
「あのときマッチをすってくれたのは誰か」
と聞くと
「それが私です」
と言う。
「これは不思議だ。ではタバコをくれたのは」
と聞くと、
「あれは大寺ですよ」
と言う。大寺は日清戦争で戦死した。
「そうか、そうであったか」
と今更ながらに、懐旧の情を催した。大迫は後に兄弟そろって大将に昇進した。大寺も生きていれば、同じく大将になった男であった。
原敬のこと
およそ英雄豪傑が指弾されるのは女と金のことだ。ところが原はこの点が非常に綺麗であった。二個師団問題で西園寺内閣が倒れ、政友会も大きく議席を失ったが、乃公は、
「君には前に随分家付き小舅が多いようだといったことがあるが、これが掃除できたと思えばいいじゃないか」
と慰めてやった。
原が内閣を引き受け、組閣準備に追われていたとき、原は乃公のところへは一切顔を出さなかった。それを指して不義理だと言う者もあったが、乃公は逆にそこが原の偉いところだと、言ってやった。
原が刺されたことは、元田肇の電話で知った。乃公が傷は何処だと聞くと、腹だという。それを聞いた乃公は
「腹なら助かる。大丈夫、死にはせぬぜ。原にはいい修行だ。きっと偉いものになるぞ」
とあべこべに原のために喜んだが、豈に計らんや、乃公が東京駅に駆けつけると、原は冷たい躯となって、運び出されるところであった。

日独戦争
日本参戦の報を聞いて驚いて大隈の所を訪ねたが、この男では土台話にならない。そこで山縣を訪ねて、
「君のような用心深い人物が付いているから大丈夫と思っていたのに、これはどうしたことか。イギリスに請求されたからといってなんでそう事を急ぐ必要があるのか。大体、大戦参戦を名目に二個師団を増設するなんぞ、敵本主義じゃないか」
と言うと、山縣は
「それはそうかも知れぬ。君は何か別の考えを持っているようだが」
と言う。そこで
「それは大いにある。ドイツ大使を訪問して、日本は日英同同盟の関係上、膠州湾を放っておくわけにはいかぬ。そこで少しの間、日本に膠州湾を任せてくれないか?と説得し、膠州湾を封鎖すれば、何もわざわざ兵を出して戦端を開く必要などない」
と言うと、山縣は
「それは名案だ。惜しいことをした」
と言った。とにかく日本はこんなにもせっついて参戦する必要はなかった。加藤高明など、戦争は二ヶ月ほどで終わると考えていたらしい。大隈もこの加藤の考えに影響されていた。結局加藤の外交姿勢は、大国の尻馬に乗っていさえすれば良いという、日本外交の伝統的考えに基づいていた。

寺内内閣倒閣事情
外交調査会をつくって、対支政策を刷新するという話になった。そこで乃公は、支那の諸悪の根源は督軍制度だ。あれをぶっつぶして師団制にしないとだめだ。外務省が出来ないなら乃公が行ってやるといったが、寺内はうんうん煮え切らない返事ばかりだ。そこで乃公は寺内に見切りをつけ、山縣の所へ行くと、
「寺内という男は、どうも思っていたより人間が小さい。それに恐ろしく猜疑心が強い、決断力の乏しい男だ。駄目だぜあれは」と言うと、山縣も
「あれはあんなもんだよ。日露戦争のとき、あれが陸軍大臣でよかった。もし参謀総長なら、大負けするところだった
と言う。間もなく寺内は体を悪くし、米騒動もあって退陣した。

参謀本部廃止問題
原内閣のとき、乃公は原に責任内閣制と参謀本部の廃止の二つをやれと勧告した。陸相の田中義一がやってきて、今すぐに参本を閉じるのは難しいので、実質的廃止に持っていけば良いではないかという。そこでどうするのかと聞くと、
上原が辞める気になっているので、後釜にはごくごく従順な人を据えれば、参謀総長は名前のみで、参本は骨抜きになるでしょう」
と言う。
「それはまあそれでも良いが、後任は誰にするつもりじゃ」
と聞くと、
秋山好古のつもりです」
との答え。
「それなら申し分なしじゃ。あれなら右向けと言えば、右を向いているから、世話はない
ということで田中は帰ったが、結局上原は辞めず、参本はその後も存続した。

三党首会談
憲法が制定されて30年。とっくに憲政が確立しておらなければいけないのに、現実は逆にどんどん憲法から遠ざかっている。山本内閣が倒れたが、その後はまた清浦の変態内閣だ。そこで乃公は、もはや猶予は許されないと考え、三党の党首に会談を呼びかけた。高橋、犬養は快諾したが、加藤だけはぐずぐず言って、中々了承しない。18日は拠所ない用事があるなどと言うので、久原を呼んで、何が何でも来るようにと伝えろと言った。加藤は
「日時も許さぬとはとんだ圧制だ。しかし年寄りの言うことだからしょうがない」
とぶつくさ言いながら、渋々やってきた。三人が集まると、乃公は憲政擁護の必要性を説いた。いずれも異議無く、三派連合はこうして成った。加藤もすっかり安心したのか、いろいろ喋って腰を上げない。用事があるならさっさと帰れとも言えないので、
「乃公はこれで失礼するよ。後は君らでやれ」
と言って立った。



まだ続く
鳥尾の変節
貴族院議員のとき、当時司法大臣だった山田顕義が仏人のボアナソードを顧問にして、法改正を断行しようとした。ところが鳥尾小弥太はこれに大反対だという。議員を糾合し反対意見を滔々と述べ、どうか明日の議会でも自分に賛成してほしいという。貴族院きっての能弁家の鳥尾に、集まった者は皆賛成し、法改正に反対するとした。翌日の議会で、鳥尾は演壇に立った。無論法改正に反対の演説をするのだろうと思っていたところ、なんと法改正に大賛成だという意見を長々と述べるのである。議員たちは呆気に取られ、そして靴を踏み鳴らし、野次を飛ばして、彼の演説を妨害にかかった。それに対し、自分の変節を棚に上げて激怒した鳥尾は、辞表を叩きつけて帰ってしまった。一体鳥尾という男は、よく議論の変わる男だ。これは欲得から来るのではなく、あの男の性質で、こっちが良いと思えば、ころっと豹変するのである。こんなことは一度や二度ではない。しかし放ってはおけないし、伊藤も頼むので、乃公はその晩鳥尾の家を訪ねた。
「君、今日のことは伊藤が悪いわけではないだろう。君が自ら招いたことじゃないか。大体昨日と今日でまるで議論が違う。皆が怒るのは当然だ。何も伊藤がやらせたんじゃない」
と説いたが、鳥尾は得意の弁舌を振るって何やらグチャグチャ言う。そこで、
「議論では君にはかなわない。君の話を聞いてたら日が暮れる」
と、ストーブの前にあった焼けた鉄の棒を引き付けた。これには奴さんも痛い目にあっているので、
「それじゃあ君の言うとおりにしよう」
と折れた。そこで、
「これは返すぜ。もう蒸し返すなよ」
と辞表を返して帰り、金子堅太郎を呼んで、うまくいったことを伊藤に伝えさせた。
そもそも鳥尾が一夜にして180度態度を変えたのは、山田に泣きつかれたからだ。山田はあの法改正に多年努力してきた。それに鳥尾が反対だと聞くと、早速あれのところに赴き、自分の長年の苦労と、国際環境を涙をふるって説いた。鳥尾はこれに動かされたのだ。彼にはこういう話がたくさんある。

地租改正に反対
明治31年の地租増徴に乃公は反対した。しかしこれは、軍備増強は大切であるが、そのために国家の財源である農民を苦しめ、これを涸らしてしまっては元も子もないと考えたから反対したんだ。単に政略上から反対した大隈重信なんかとは違う。このとき、演説で北越地方へ向かったが、星亨が乃公を信州で止めようと、壮士なんかを動員した。上田である宿屋に泊まったが、その主人が博徒の親玉か何かであった。風呂上り、部屋に戻る途中、ふと仏壇が目に入ったので、いつもの習慣で軽く頭を下げて通った。ところがそれを目にした主人が、
「ありがたい。かかあの位牌に頭を下げてくだすった。もう俺は誰が何と言ってもこのお方をお助けする」
といって力みだした。この主人、実は反対党に買収されて、乃公を妨害するつもりだったらしい。これのお陰で星に送り込まれた壮士たちも、どうすることもできなかった。

会津松平家救助
旧会津藩主の松平家が非常に逼迫していると言う話をきいた。逆賊とはいえ、あの時代、最後まで首尾一貫していたのは、長州と会津だけだ。何とかしてやりたいと思って、山縣に相談したが、煮え切らない態度だ。そこで田中光顕にももちかけたら、
「会津は自業自得だ。戊辰戦争のとき官軍を相手に随分酷いことをやった。自分は警視総監をやったときに、直接会津の者から聞いている」
と言うので、
「君は戦争に出てないから知らないだろうが、官軍も随分酷いことをしたんだぜ。会津の用人を焼き殺したり、負傷者を地雷火に掛けたり、生き胆をとったりと。君は戦争に言ってないから知るまいが、乃公は実地でよく知っている」
と言うと、田中は驚いている。
「それに会津は先帝の御宸襟を受けている。これが表に出ると厄介だぞ」
と言うと、
「それは大変だ。君は見たのか」
「勿論拝見した」
「それは世に出ると困る」
「だから何とか御救助を願いたいというのだよ」
ということで、幾らかの御下賜金が出て、松平家も一息つけた。

同志会結党前後
が政党を結成すると言うて、乃公に相談を持ちかけてきた。乃公は、少し遅きに失したと思ったが、それでも色々激励してやった。このとき桂は山縣と大分疎遠になっていた。その後、久々に山縣を訪ねると、
「桂という奴は、雪隠でも腹を切れない男だ」
と中々の剣幕だ。そこで
「これは意外だ。桂は政党を結成するというのを君に相談しなかったのか」
と言うと
「いや、それは相談したけども」
「それなら、今頃ゴチャゴチャ言うのはおかしいじゃないか」
それでも山縣は暫く、桂に対する悪口を止めなかった。そのうち取り巻きの官僚連が帰ったので、
「大体、君の情報は偏っている。君のところに来るのは、あんたに阿る人物か官僚臭のする奴ばっかりじゃないか」
と言うと、
「いや我輩も野にある人物から聞いている」
と言うので、
「そりゃ誰だ」
と問うと
「君の嫌いな松下軍治や秋山定輔だ」
と言う。
「札付きばっかりじゃないか」
「じゃあ誰が良いんだ?犬養か?」
乃公が犬養を贔屓にしているというので、山縣は会うたびに犬養がどうのと、嘲弄するのだ。
「しかし犬養も最近大分何だの。色々聞いとるよ」
と言うので、
「いや、あいつは金をもらってどうこうできる人間じゃない。全くの離間中傷策だ。冤罪だ」
と弁護しておいた。それから間もなく桂も死に、立憲同志会は憲政会になった。


続く
三浦梧楼『明治反骨中将一代記』芙蓉書房

久々のヒットなので、摘要してみる。


脱隊騒擾余談
乃公は北越戦争の後、暫く国元にいた。そのときの話である。乃公は隊長だったが、隊長の給料は兵隊と同じで月30匁であった。ところがある日、山口に出張すると、出張費だといって500匁を会計係が渡してきた。聞くと、隊長連が山口に来ると、旅費として500匁渡す慣例だという。当時、各隊とも、兵隊に渡す給料も無く、仕方なく残余の米や武器を売って金を作っていたというのに、隊長連は勝手放題金を使っていたのである。山縣は役職は軍監でも実際は総督である。乃公が山縣に不快の念を抱くようになったのはこのときからだ。
その後、兵隊たちに報いるところ薄かったせいもあり、脱隊騒ぎが起こった。上層部の指導が宜しきを得ず、多くの死者を出してしまった。大正になってから、乃公はこのときの生き残りを3人、東京に呼んでやった。皆大層喜んできた。たまたま時事新報がそれを記事にしたところ、それを読んだ原敬が、3人を是非首相官邸に招きたいという。来いと言うのだから行って来いと送り出してやった。3人と会った原は、奇兵隊が強かったのは、彼らを見たら想像がつくと言っておった。ところが、この間山縣は、何も言ってこない。知らないはずは無いんだがな。まあ、3人の方も、山縣のところに行きたいとは、とんと言わなかったが。

兵部省出仕の頃
乃公は木戸に言われて東京に出た。丁度山縣が洋行から帰ってきたので、久々に一杯やろうと中村楼に登ると、前原一誠と佐々木男也も来た。ところが前原は一言もしゃべらない。実はこの前の脱隊騒ぎのとき、前原が帰国しようとしたので、前原では騒ぎは収められない、どころか余計に大きくなると考えた乃公は、条公に頼んで前原の帰国を止めてもらったのだ。それが前原は気に食わない。山縣に事情を説明すると、山縣も乃公の言うとおりだと納得した。愈々前原は納まらない。まず山縣が杯洗の水を前原の顔にぶっかけると、「なにをするぞ」と前原が飛び掛ってきて、2対2の喧嘩になった。喧嘩は往来に出てまで続いたが、提灯の火から火事が起こり、大騒ぎとなった。こっちも水だ水だと、大狼狽、喧嘩どころではなくなった。その後、国に引きこもった前原と一度会い、上京してくるよう説得したが、結局愚痴の人だけに、腹のそこまで氷解せず、遂に身を滅ぼしてしまった。

征蕃事件前後

薩人の機嫌を取るためだけに政府は台湾征伐を決定した。とんでもない自家撞着である。木戸は憤然と反対した。乃公も勿論こんなものには反対であった。乃公は当時、兵器の元締めのような職にあったので、出征する連中に一切兵器を渡さなかった。みんな困ってあの手この手で乃公を説得しようとしたが、乃公は一切聞かなかった。一身の事なら譲りもしようが、国家の公事を曲げることはできない。どうしても武器が要るなら乃公を辞めさせればいいだろうと、辞表を叩きつけて行方を眩ました。80の老親が国に帰りたがっていたので、親を連れて横浜の駅に行くと、福原和勝がうろうろしている。きっと乃公を探しているんだろうが、あいつはド近眼で、夜などまったく見えない。それでも見逃すまいとキョロキョロしている。黙っていくのは簡単だったが、それではあいつが可愛そうなので、
「おい福原」
と声をかけた。福原はびっくりして
「おお三浦か、君を捜してたんだ」
と言う。思ったとおりだ。
「そうだろうと思った。知らん顔で通ることも出来たが、それではお前が可愛そうなので、声をかけたんだ。どうか乃公を見たことはいうてくれるな」
というと福原も
「宜しい。君を捜したが見つけられなかったということにする。だが伊藤と井上が横浜に来てるぜ」
と忠告してくれた。翌朝、宿屋に県庁からの使いが来た。伊藤と井上の命令だという。しょうがないので2人に会いに行った。伊藤がいきなり
「貴様脱走する気だな。軍律を知らんのか」
と怒鳴る。乃公は
「去年西郷があれだけの人数を引き連れて無断で辞めていったのは脱走じゃないのか」
と言うと、伊藤も態度をガラリと変えて、
「君の気持ちはよくわかるが、ここはまげて東京に帰ってきてくれ」
と言うので、仕方なく帰った。

西南戦争の逸事
山縣という男は細かいことまでグチグチ言うので、参謀もあいつが来るのを嫌がっていた。そこで乃公は一計案じた。山縣が尋ねてきたとき、給仕役として、風呂にも入っていない薩摩の捕虜を使った。山縣は驚いて
「三浦こいつは賊じゃないか」
「ああ賊だよ。蚊遣り代わりに丁度良いんだ」
「もし火薬庫に火でもつけたらどうするんだ。剣呑だぜ」
「何心配ない」
気味が悪いのか、山縣は早々に立ち去った。
も一つある。陣中の暇つぶしに、誰が始めたのか、蟹の爪に艾を挟ませ火をつける。熱いので蟹は一生懸命右往左往する。遂には爪を挙げると、その拍子にポロっと爪が落ちる。これがなかなか面白い。そこへ山縣がやってきて、
「これは愉快じゃ、面白い」
と大変ご機嫌であった。その後、山縣のところに行くと、あのまじめな男が、蟹をいじめて、悦に入っているところだった。

木戸の死と洋行拒絶

乃公が九州にいる間に起きた一番悲しい出来事は、木戸の死である。木戸は誰よりも藩閥人事を憎んでいた。その点、乃公とまったく軌を一にしていた。木戸は、乃公への遺言として「もし三浦が尋ねてきたら、情実は病気より恐ろしい」と伝えてくれと、言ったそうだ。乃公は後に木戸の未亡人からそれを聞いた。
その後、高島と川路が洋行するので、乃公にも行けという話があった。そんな薩長のバランスを取るためだけに行かされるのは真っ平ごめんと、乃公はこの話を断固断ってしまった。

開拓使官有物払下事件
黒田らが起こしたこの事件は酷い事件だった。乃公は大山のところにねじ込んだ。大山も実に酷い話だと相槌を打ったが、結局何もしなかった。伊藤や井上も同類だった。そこで乃公は条公に訴えた。条公は黙って聞いておられたが、その後、お上に上奏された。そのとき「三浦がきて斯く斯く申しました」と奏聞されたと聞く。これで事件は破れたが、乃公は陸軍士官学校長に左遷された。

征清論打破
明治18年頃、乃公が帰朝すると、薩摩の連中が非常な征清論を唱えていた。海軍の仁礼、陸軍の高島、野津が尋ねてきて、非常な強硬論をぶった上、実は副使として行く西郷従道も同腹であると告げた。伊藤や井上にそのことを告げても、いや西郷は違う、大丈夫だと取り合わない。そこで乃公は西郷に直接会って化けの皮を剥いでやろうと考え、伊藤と井上にも来るように言った。後日、西郷の所へ乗り込むと、薩人が大勢集まっている。しかしいくら待っても伊藤も井上も来ない。「出し抜かれたか」と内心憤激したが、如何ともしがたい。開き直って連中の征清論を強硬に論駁したが、糠に釘である。そこで、「天津へお出でになったら、李鴻章の生き胆の欠片くらいは頂戴したいもので」と捨て台詞してその場を立ち去ると、その足で伊藤の家に飛び込んだ。
「何で来ないんだ(怒)」
「いや実は西郷からこんな手紙が来て」
それは「何もお構いできないので、ご多忙のお2人が来られても、かえって恐れ入る」との断り状。
「こんなもん無視して来ればいいじゃないか」
「それはそうだが」
「だからお前らは駄目なんだよ」

軍制改革論争
乃公が第一師団長のとき、皇族方から師団長、旅団長が紅葉館に招かれたことがあった。そのとき乃公は薩長の藩閥人事打破を叫んだ。酒が入ると、薩人が3人、お盃いただきたいといって、来た。もとより喧嘩を売りに来たのだ。乃公は真っ向から迎え撃った。暫くして1人が
「やあ違うなあ」
と嘆声を挙げた。
「何が違う」
「聞くのと見るのとでは大違いだ」
と言い出した。形勢不利と思ったのか、後ろの方から
「誰々、議論じゃいかんぞ」
と叫ぶやつがいる。見ると乃木だ。乃公もカチンときて
「何だ帰薩、混血なんぞつくって」
とやった。すると乃木も怒って
「これはどうも言語道断だ」
と言うから、
「お前は後にしろ」
と言うと、向こうも陣を引いた。違うなあといったのは、第七師団長の永山武四郎であった。あれは正直な男で、段々話すうちに乃公の精神が分かったのだ。翌日乃木が3人の先輩将官に連れられてやって来た。
「議論じゃいかんというのは、腕力に訴えろという意味ではなく、酒にしろという意味で言ったんだ」
と弁解する。そんな風には聞こえんかったぞと詰れば、外の3人も同意見だった。しかし乃木も反省しているので、許すことにした。また乃公の方でも無礼なことを言ったが、貴様がそういう意味で言ったんでは無いと言うなら、乃公もこれを取り消すということで、一件落着した。
乃公はとにかく陸軍の大改革を望んでいた。そこで、田中光顕を立会い人に、山縣に論戦を挑んだ。ところが山縣は、
「君とは全く同意見だ」と言って、乃公の前ではいい顔ばかりする。ところが後になると、「我輩は賛成だが大山が反対だ」と大山を盾に使って婉曲に乃公の意見を取り上げない。これは山縣のいつもの手だ。大山は大山で、自分の意見が通らないなら辞職すると言い出す。すると薩人は皆、大臣が辞めるなら俺も辞めるときた。伊藤も井上もどうもやむを得ぬということで、乃公の熊本への左遷が決まったと、後に山田に聞いた。乃公は熊本には赴任せず、予備役となった。


続く
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