近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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大隈内閣が倒れ、朝鮮総督寺内正毅が組閣の大命を受けた。寺内は現状維持派の最右翼で、袁世凱在世時にはこれを支持して、排袁派の田中義一らを梃子摺らせた人物であった。この、大隈内閣の打倒と寺内担ぎ出しに一役買ったのが、後藤新平と西原亀三郎であった。西原はさらに寺内に進言して、朝鮮銀行総裁勝田主計を蔵相に据えた。彼は以前にも、勝田を鮮銀総裁にするよう、寺内に献策している。

西原はかつて、対露同志会の神鞭知常のスタッフを務めていたことがあり、彼の王道主義に深く傾倒していた。西原の持論は、徹底的に中国に親切を尽くし、中国民をして日本を信頼させるとともに、中国の内政、産業を改革し、日中が一体化した経済自給圏をうちたてるというものであった。彼のこの構想の下に行われたのが、西原借款であった。

西原の持ちかけた借款の条件は、従来のそれとは比較にならない有利なものであったため、段祺瑞政府は随喜した。この交渉で日本側の窓口となったのが西原と坂西利八郎であり、中国側の窓口が、新交通系と称される曹汝霖、陸宗與らであった。ひとり西原は完全な私人であった。

西原はこれを梃子に、中国を連合国に加盟させようと策動を開始した。しかし当時北京では、連合国加盟賛成の段祺瑞政府及びそれに同調する梁啓超ら研究系と、反対の大総統黎元洪との間で激しい争いがあった(府院の争い)。民国6年3月4日、何とか対独国交断絶までもってきたが、5月23日、遂に黎元洪は段祺瑞を罷免した。

ここで、調停を名目に北京に進出してきたのが張勲である。彼は北京に入ると議会を解散し、変法派の康有為を上海から呼び寄せ、宣統帝を担ぎ出し、7月1日清朝復辟を宣言した。驚いた黎元洪は、先頃までの喧嘩相手だった段祺瑞に国務総理復帰を命じると、自らは日本大使館に逃げ込んだ。得たりかしこと討逆軍を編成した段は、あっさりと張勲の復辟を粉砕し、北京に返り咲いた。張勲はオランダ公使館に逃げ込み、黎元洪は責任をとって大総統を辞職、段のライバル馮国璋が後を継いだ。

8月14日、中華民国は対独宣戦布告を行った。これを受けて南方派は、広州に於いて非常会議を招集し、中華民国軍政府を組織。9月1日、孫文を大元帥に、唐継尭、陸栄廷を元帥に選出した。しかし唐、陸の二人は孫文の要請を受けても、元帥に就任しなかった。彼らは一応段政府(安徽派)には反対の立場で、独立を唱えてはいたが、孫文の軍政府に協力する気はさらさら無かった。とくに陸栄廷の場合は、馮国璋ら直隷派と気脈を通じており、極力軍政府の活動を妨害した。民国7年5月20日、軍政府が合議制に改組されると、孫文は陳烱明に後事を託して、上海に落ち延びていった。
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このころ東三省のトップは督理東三省軍務兼奉天巡按使の段芝貴であったが、実力で彼を凌いでいたのが、緑林上がりの盛武将軍張作霖であった。彼は日露戦争のとき、露探として日本軍に捕まりながら、井戸川辰三、田中義一の尽力で命を助けられたという経験の持ち主であったが、だからといって日本に融和的であったわけではない。むしろ日本に近い段に比して張は、二十一か条の要求に強く反対するなど、強硬な姿勢をとっていた。外にも清朝復辟を目指す宗社党や、蒙古独立を目指すパブチャップもおり、長城以北は混沌としていた。

民間において宗社党やパプチャップの活動を支持していたのが浪人川島浪速や外務政務次官柴四朗、予備役海軍中将上泉徳弥らであった。川島は北清事変のとき、北京を戦火から守り、粛親王から格別の信頼を得た。粛親王は彼に娘を養女として与えた。そのうちの一人が川島芳子である。彼はそれ以来清朝のために尽くしてきた。柴は東海散士の筆名を持つベストセラー作家でもあり、名うての対外強硬論者であった。北清事変で活躍した柴五郎は、直ぐ下の弟にあたる。上泉は日露戦争前に料亭湖月において山座円次郎や田中義一、秋山真之らとともに開戦論をぶった、秋山とともに海軍にしてはちょっと珍しいタイプの軍人であった。

参謀本部第二部長福田雅太郎も、宗社党を支援して、満蒙に一騒動起こす計画に積極的であった。彼は、満洲情勢の調査という名目で小磯国昭少佐を派遣した。小磯は葛山彰と名前を変え、川島や彼と気脈を通ずる大連市長石本貫太郎と面談するなど働いた。関東都督中村覚もまた、宗社党に好意的であった。資金は大倉喜八郎から出た。

ところが袁世凱の死で状況は一変する。後ろ盾を失った段芝貴は追い落とされ、張作霖が名実ともに東三省の最高権力者となった。そうなると日本にも、弱い宗社党やパプチャップよりも、この張作霖を担いだ方が得策ではないかと考える人々が台頭してきた。このころ張の顧問をしていたのは菊池武夫であった。梯子は外されつつあった。そんな中、1916(民国5)年5月27日、ついに宗社党支援の日本人浪人団が暴発した。

この一団は、パプチャップ軍の進撃開始に先立ち、張作霖を除こうと考え、張が関東都督を奉天の駅頭に出迎えた帰り道を要撃する計画を立てた。そして団員斎藤某が、体に爆薬を巻きつけ、張が乗っていると思しき馬車に体当たりした。しかし、張はその一つ後ろの馬車に乗っていた。暗殺失敗を知った隊長三村豊予備役少尉は、再び張を狙って爆弾を投げたが、これは電線に引っかかって、三村自身の命を奪った。彼は陸士15期であったが、少尉の時に陸軍を飛び出し大陸に渡っていた。この襲撃で三村とともに、もう一手の隊長を務めていたのが、伊達順之助であった。彼は、伊達政宗の庶子秀宗を藩祖とする宇和島の藩主で、幕末に四賢侯と呼ばれた宗城の息子宗敦の六男であった。世が世なら金枝玉葉の身であるが、若いころから度外れた人物で、満蒙決死団を結成すると、その団長としてこの満蒙挙義に参加していた。壇一雄の『夕日と拳銃』のモデルである。

6月28日、この問題に深入りしていた福田雅太郎が、欧州視察を命じられ、東京を離れた。参謀次長田中義一も、挙義の中止を決定した。激怒した上泉が田中を怒鳴りつけたが、もはやどうにもならなかった。そんな中パプチャップ軍が進撃を開始した。

パプチャップは青年時代、凶悪な馬賊の跳梁に憤激し、自ら緑林に身を投じて正義の一団の育成を図り、やがて蒙古一帯に鳴り響く馬賊となった。日露戦争においては、ロシア軍の後方を攪乱した永沼挺進隊(隊長永沼秀文中佐)に随行した馬賊の参謀長格となり、それ以来非常な親日家であった。彼はその後蒙古独立運動に身を投じ、常勝将軍とまでうたわれた。黄龍旗を先頭に押し立てて進撃するパプチャップ軍には、日本からも陸士26期の西岡元三郎予備役少尉らが加わっていた。パ軍は、張麾下の猛将呉俊陞をも破り、郭家屯を占領した。焦った張は菊池を使って関東軍を動かした。関東軍は両者の間に割って入り、菊池は日本の武力を背景に、パプチャップに撤退を勧告した。パプチャップは、奉天を指呼に望みながら、泣く泣く勧告を受け入れ、撤退を開始した。パ軍は、休戦協定を破って攻撃を仕掛けてくる張軍を撃退しながら、内蒙の入り口林西まで到達した。しかし林西城を攻撃したときに、いつもの如く先頭を切るパプチャップが、機関銃の弾丸を受けてあっけなく戦死してしまう。パプチャップを失った蒙古軍は、それでも翌年ハイラルを攻撃し、独立を宣言したが、中露軍の攻撃を受けて崩壊した。

こうして第二次満蒙独立運動は潰えた。命令によって満洲に派遣されていた小磯は、要注意人物のレッテルを貼られた。パプチャップの遺児カンジュルジャップは、後に川島芳子と結婚した。しかし二人は離婚し、芳子は東洋のマタハリと呼ばれ、戦後漢奸として処刑され、興安軍の重鎮となったカンジュルジャップは昭和20年8月ソ連軍と戦い戦死したソ連に投降後、シベリア抑留を経て中国に引渡され、溥儀ら満洲国戦犯が収容された撫順戦犯管理所に入れられ、最後は釈放された。ちなみに、後年察東事変、綏遠事変で日本と行動をともにした李守信は、張作霖軍に属してパプチャップ軍と戦い、西岡少尉の率いる砲兵隊の威力にいたく感心して日本びいきになったそうだ。



参考
波多野勝『満蒙独立運動』
相良俊輔『赤い夕陽の満州野が原に』
芦沢紀之『二・二六事件の原点』
伊達宗義『灼熱』
松井忠雄『内蒙三国志』
小磯国昭『葛山鴻爪』
島貫重節『あヽ永沼挺進隊』
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