近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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 他民族のことはあまり知らないが、朝鮮人ほど面従腹背の民族は少ないのではないかと思う。これは数百年、いやもっと以前から常に強力な民族に圧迫され、李朝五百年の虐政がその人間性を形成させたものと思われる。二人寄れば仲がよい。三人寄ればすぐ喧嘩をする。相手をだまそう、他人にだまされないとの用心が骨の髄までしみこんでいる。それでいて、別の新勢力が出現すればすぐ団結してそれと闘う。闘いが終われば仲間割れをする。

 満州に間島という地方がある。ここには朝鮮人が百万もいるといわれていたが、表むきは農民であり、林業、狩猟などをしているが、夜になると匪賊に化ける。集団強盗である。この匪賊は中国人の匪賊と違って実に残忍な略奪をする。そして中国人に対しては日本人だと威張りちらし、都合のわるいときは朝鮮人にもどる。始末におえなかった。

 戦後、李ラインなどと、公海のまん中にかってな領海をつくり、そこに入って行く日本人漁夫を捕らえて監獄に放り込む。

 竹島など明らかな島根県の一島嶼に上陸してきて、これを朝鮮領土だと主張する。日本の哨戒艇など屁とも思わず、その眼の前で堂々と日本漁船を拿捕する。

 日本のお役所の船は手をこまねいて傍観している。外務省の役人に至っては終始朝鮮人に翻弄されどおしである。

 しかし朝鮮人も権力には極度に弱い。「なに、ふざけるな」と反撃すればひとたまりもなく「哀号、哀号」である。そのかわり弱者と見れば、どこまでもかさにかかってくる。この朝鮮人気質を知らない日本の役人など、彼らの目からは幼児同様である。


以上元朝日新聞記者高宮太平著『昭和の将帥』より抜粋

著者は朝日新聞の陸軍担当で鳴らした人物。朝日を満洲局次長で辞めた後、陸軍嘱託を経て、小磯国昭に朝鮮に呼ばれ朝鮮へ。終戦まで京城日報の社長を務めた。『順逆の昭和史』、『米内光政』、『人間緒方竹虎』といった著作がある。

彼の朝鮮観、どんなもんでしょう?何というか、十年一日の思いを拭えないですなあ。
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どんでん語録


大正十一年、宇都宮は病床に臥して、再起不能を自覚するや、在京の同志をその枕もとに集めた。十二畳の病室の壁には大きな世界地図が掲げられている。そこに侍した荒木貞夫大佐に、
「オイ、荒木」
と呼びかけた。病気のせいで声には力がなかった。
「赤鉛筆を以って、東経六十度と百七十度の線に筋を引け」
荒木は謹んで命を奉じた。それを快く眺めながら、
「それだけを日本のものにするんだ。いいか、みんな判ったか」
「ハイ、わかりました」
「俺の遺言はそれだけ、終わり」
一座はしんとして、咳一つない。宇都宮は眼をつぶって、あとは一言も言わなかった。

これは高宮太平『軍国太平記(後に順逆の昭和史と改題)』の中の余りにも有名な一節である。これだけを読むと帝国主義丸出しのとてつもない遺言のように思えるが、しかし、この枕頭に集まった人々と高宮のその後を考慮すると、この本を鵜呑みにするのは甚だ危険であろう。

実際に当時その場にいた人の言い分も見てみたい。土橋勇逸は陸士24期で当時大尉であった。宇都宮太郎が第四師団長時代、隷下の歩兵三十七聯隊附だった彼は、佐賀出身ということで、宇都宮の二人の息子の遊び相手を頼まれた。長男のほうは後に代議士になり、軍縮に熱心だった故宇都宮徳馬である。そんな縁で彼は、大尉でありながらも、宇都宮危篤の病室にいた。土橋によれば、詰め掛けていたのは上原元帥を筆頭に武藤信義村岡長太郎、井戸川辰三(1期)、荒木貞夫ら二十数名の高級将校たちであった。大将が遺言をするというので、村岡少将が荒木大佐に筆記を命じた。荒木は土橋に筆記を命じ、土橋は別室に走って紙と鉛筆を用意した。

大将は、ゆっくりではあるがはっきりと、遺言を始められた。随分長いものであった。それは、永年胸に抱いておられた大将の世界政策、日本が今後、実現せねばならぬ政策であった。
私が筆記した遺言は、今でも徳馬君の手許に残っているのではなかろうか。二、三の著書では、この遺言が侵略主義的のものであるかのように誣いているが、それは誤解である。
遺言が終わった大将は、夫人に、貯えてあるシャンパンを持って来るように求められ、それを一同に少しずつ注がせられた。
「このシャンパンは、日清戦争の戦勝祝いのため、宮中にお招きに預かった時、明治天皇から頂戴したものだから、乾盃しよう」
と話されて、いかにもおいしそうに、口にせられた。

これは土橋『軍服生活四十年の想出』の一節である。土橋の回想も本人の記憶違いなど、怪しい点があるのだが、この宇都宮の遺言に関しては信用しても良いと思う。ちなみに高宮と土橋は面識があり、割合親しかったはず。

そもそも宇都宮太郎とはどのような人物か。彼は佐賀出身で、川上操六に可愛がられ、林太郎(旧6期)、仙波太郎と共に陸軍三太郎と呼ばれた逸材であった。高宮前掲本によれば、宇都宮は少佐の頃から、郷党の後輩を集めて、佐賀左肩党という一種秘密結社めいたものをつくっていたという。

しかしこの左肩党に関しても、大正四年出版の鵜崎鷺城『陸軍の五大閥』の説明は、高宮本とは少し違う。宇都宮が左肩党の領袖であるという点は同じであるが、この左肩党は佐賀人の集まりではなく、荒尾精根津一といった大陸雄飛派の流れを汲む組織であるというのである。確かにそういわれれば、積極的な大陸政策の持ち主が、このグループには多い。

さらに鵜崎によれば、宇都宮は川上には可愛がられたが、田村怡与造には疎んぜられたそうだ。情報畑を歩み、福島安正に信頼されていた。一応反長閥らしいが、余りそれを表面には出さなかったようである。

いずれにせよ、彼が郷党の後輩の面倒を良く見ていたというのは間違いないようだ。彼の許には、武藤、村岡を始めとして真崎甚三郎、梅崎延太郎(12期)、原田敬一(12期)柳川平助といった人々が集った。さらにそこに長崎の福田雅太郎、熊本の石光真臣(1期)、筑紫熊七、鹿児島の町田経宇といった人々が加わり、上原元帥を頭領に仰いで、長州に対する批判勢力を形作っていた。

彼らは主に軍令畑を歩んだ。東京育ちの荒木が一人だけぴょこんと入っているのも、そのへんで説明が付くだろう。

田中義一と激突した上原の背後には、上記の勢力が控えていた。田中に推薦され陸相になった宇垣は、軍備整理計画を進めると共に、大々的な人事刷新も行った。大正14年5月1日、山梨半造、福田雅太郎、町田経宇、尾野実信の四大将が待命となった。山梨を除く三人は上原に近い将軍だ。ちなみにこの少し前に田中も予備となっているが、これは政友会総裁に就任するためである。中将では石光真臣、井戸川辰三、星野庄三郎(2期)、大野豊四(3期)、貴志弥次郎(6期)などが同じく待命になった。星野以外は上原派といって差し支えないだろう。何も宇垣も上原派を狙い撃ちにしたわけではない。それだけ、大将や古参の中将に上原派が多かったということだろう。しかし予備に入れられた方は面白いはずがない。こうして、彼等の長州への恨みは宇垣に転嫁され、代替わりしても継承されていくのである。
舩木さんの「岡村寧次大将」読み直してて、自分の、民国期の政治家、軍閥に関する知識が、いかに付け焼刃なものか痛感しました。とりあえず波多野善大『中国近代軍閥の研究』読み直してますが、これはもっと難しい。手頃な人名事典みたいなのないですかね。『上海時代』の後ろに付いてる人名録だけではやはり限界がある。

しかし張宗昌はやっぱり酷い奴アルな。
北京を占領した張作霖麾下の張宗昌は、北京市場で美人の婦女を攫って欲望の満足に供した。ある時、女子高等学校から出てくる学生を攫ったところ、そのなかに市長袁良の娘と息子の妻女、中央政府の某部長の娘が含まれていた。しかし、北京の新聞記者は、一言半句もこれを攻撃することはしなかった。
まあ、狗肉将軍と呼ばれるだけのことはしてます。伊達順之助が殺し損ねたのは、北京の婦女には不幸なことでした。
袁良といえば、福島安正に可愛がられ、陸士を出た後、特別に近衛騎兵聯隊の見習士官として、日露戦争に従軍したとか。日本語は流暢だが、興奮するとオネエ言葉になるとは、佐々木到一の話です。

上層部の動きばかり追ってきたので、ここらで中堅どころに目を移します。ここでは舩木繁『岡村寧次大将』河出書房新社を中心に『秘録永田鉄山』芙蓉書房、須山幸雄『作戦の鬼小畑敏四郎』同上、沖修二『至誠通天山下奉文』秋田書店などを参考に筆を進めたいと思います。

大正10年(1921)6月18日、歩兵少佐岡村寧次らを乗せた船が横浜を出港した。病身の妻を残しての欧米長期出張には不安もあったが、欧州に駐在する親友小畑敏四郎永田鉄山との再会は楽しみであった。

ニューヨークでは好きな野球を観戦し、その後イギリスを経て、8月20日夜、ベルンに到着、永田の出迎えを受けた。翌日は永田とその前任者梅津美治郎の3人で会食、痛飲した。

9月6日、オーストリアを抜けベルリンに到着。そこには、ロシア大使館附武官に補されながら、ソ連政府の承認が受けられず入国できずにいる小畑が待っていた。岡村は、このベルリンを拠点に欧州各地を歴訪することに決めた。

10月8日、ライプチヒに東條英機山下奉文両少佐を訪ねた。二人は欧州大戦の最中、スイス公使館附として共に働き、この年揃ってドイツ駐在となっていた。後に犬猿の仲となる二人であるが、この頃は非常に仲が良かった。「あれほど仲の良かった二人が大東亜戦をまえにして離れ離れになったということは、わたしには、なんだか不思議でならない。事情もあったろうが、あの二人がしっかりと手を握っていてくれたならば、日本の歴史も少しは変わっていただろう」とは、スイスドイツ時代を通じて二人と行動を共にしていた河辺正三の述懐である。

10月27日(木)
7時過ぎ小畑と共に出て伯林発 途中囲碁をなしつつ午後10時50分バーデン・バーデン着 永田と固き握手をなし三名共第一流ホテルステファニーに投宿 快談1時に及び隣客より小言を言われて就寝す

 この、隣客のクレームで打ち切られた雑談こそが、戦後、高宮太平『軍国太平記』などで一躍有名になったバーデン・バーデンの密約である。この会談を、その後の陸軍の進路を決める重大な陰謀のように書く人は多いが、実際は”閥族打破”といった人事面の抽象的な話に終始したようだ。

3人は何れも陸士16期で親友同士。当時は37,8歳であった。地方幼年学校は小畑が大阪(卒業席次1番)、残りの二人が東京(永田同3番、岡村同4番)。中央幼年学校は永田が2番、小畑が8番、岡村10番。陸士は永田が歩兵科恩賜で全体でもトップ。小畑は全体で5番、岡村は6番であったが、兵科の関係から恩賜には漏れた。参考URL

陸大は永田と小畑が23期。それぞれ2番、6番で卒業し恩賜の軍刀を頂いた。岡村は2年遅れの25期で卒業席次は8番、惜しくも恩賜には届かなかった。参考URL 卒業後は小畑がロシア、永田がドイツ、岡村が支那にそれぞれ駐在した。

小畑家は長宗我部の遺臣の土佐郷士であった。敏四郎の父美稲は、土佐勤王党に加盟し、武市半平太らと共に下獄された。維新後は司法官となり、後に元老院議官に親任され、男爵の爵位を授けられた。敏四郎は土佐っぽらしい硬骨と切れ味鋭い頭脳の持ち主であった。

永田家は代々医者の家柄であった。鉄山は、小畑とはまた一味違った偉材で、その頭脳は”永田の前に永田なし、永田の後に永田なし”とまで云われた。思考のスケールが大きく、人の意見もよく聞いた。性格は円転滑脱、遊ぶときは遊ぶといった切換えが利いた。

岡村家は200年続いた旗本で、寧次も生粋の江戸っ子であった。父は早くに亡くなったが、賢夫人の誉れ高い母親に育てられた。彼は必然的に母親っ子であった。40過ぎてからの日記に、”朝出掛けに母と言い争いをしてきた。いまでも胸騒ぎがして心臓がドキドキする”というようなことを書く人であった。学校の成績は永田小畑に一歩譲ったが、その柔軟な性格で二人の間をうまく取り持っていた。

三人とも将来陸軍を背負って立つことが嘱望される逸材であった。その彼らが第一次世界大戦を目の当たりにしたのだ。ショックを受けるのは当然である。振り返ってわが陸軍を見れば、日露戦争から殆ど進歩がない。人事は相変わらず長州が壟断している。自分たちが何とかしなければという、若きエリートの使命感と、外地にいることによる高揚感が噴出したのがこのバーデン・バーデンの会談であろう。満蒙政策などの対外政策は一切話し合われていないというのが、当事者岡村の証言である。

岡村は帰国後、戦乱の中国に赴任した。翌年には小畑が帰朝し、陸大教官となった。一番遅れて帰朝した永田は、陸大教官を経て、軍事課高級課員となり、既述のとおり宇垣の軍備整理計画を支えた。そして、軍縮と平行して進められていた陸軍省の官制改正によって新設された整備局動員課の初代課長に就任した。このとき既に彼の頭脳には、国家総動員体制作りの青写真が描かれていたのかもしれない。
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