近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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さて宇垣ですが、彼がこの争いをどういう目で見ていたのか、『一如庵随想録』を参考に探ってみます。”大正11年夏秋に於ける陸軍裏面の暗流に関する観測”として彼は次のように書いています。

寺内、山縣両元帥の逝去は云うまでもなく長閥凋落の徴にして、茲に芋一派は薩閥台頭を企画したり。上原将軍も其多分に漏れぬ。夫れに田中将軍の背景確なる時代に於ける横暴に対する鬱憤も交じりて、田中を押さゆる事が之が報復たると同時に薩閥の勢力維持の一端である。
薩摩の上原たちは、両元帥の死を長閥への報復のチャンスと捉えており、特にそのターゲットは田中義一である。

其の為に山梨将軍の地位に恋着の意向あるを看取して之が擁護に努むるに至りたり。山梨其者は全盛時代も過ぎて凋落の淵に向ひつつある長閥をば旧時の因縁にも拘らず振り捨てて、薩閥の意中に投じて自己の地位保持に利用せんとして居る。否、漸次薩化しつつある。川上田村両将軍の関係より彼が一転長に盲従しありし歴史を考ふれば敢て不思議でもない。
今まで田中にべったりだった山梨は、保身のため上原たちに接近を始めた。上原たちも田中攻撃のためこの山梨の欲望を利用しておる。山梨の変節は、かつて川上操六の深い恩顧を受けた田村怡与造が、川上の死後一転して山縣に取り入ったことを考えれば何等不思議ではない。。(山梨の妻は田村の娘である。この毒舌は当然このことを念頭に置いている)

此間に処して秋山将軍が単純無垢無策、唯田中が兎角政党者流に近付き過ぎて過度に人気取りに流るるを嫌ふの念ある処へ、上原一派の宣伝の乗ずるありて寧ろ田中を押へ山梨擁護の態度に傾きて居るのである。即ち今日の陸軍部内は遺憾ながら田中-上原の暗闘、長-薩の勢力争、之れを山梨は地位保持の為に利用せんとし、秋山は左したる意義もなく利用せられてある。
単純で政治のわからない秋山は、上原たちに乗せられて、事情が良くわかってないにもかかわらず山梨を擁護し田中を押さえる傾向にある。

斯の如き空気に漲れる軍部内で霞ヶ関や三宅坂の要路には一寸田中に親交あるものは禁物である。余の如きも屡々田中より引張られ居る経路にある。余の眼中に閥なし、唯祖国と陸軍と人類を愛するのみ、所謂仕事本位ではあるけれども、上原山梨には余り気持ち宜い人物でもあるまい。
このような状況では田中に縁のある人物は苦しい。自分も田中に引っ張られた一人ではあるが、しかし自分は田中の家来ではない。自分には祖国愛、陸軍愛、人類愛があるのみで、陸軍内部の派閥などまったく眼中にない。

これは飽くまで宇垣の観測ですが、山梨が此頃田中の下を離れて上原に接近していたという点は、なかなか興味深い。山梨という人のパーソナリティを考えれば十分ありうる話だとは思うが果たしてどんなもんでしょうか。

自分は田中に引っ張られたと書いてますが、二人の接近の切欠として一般的に言われているのは、明治41年早稲田で大隈重信列席の下で行われた講演会。ここで宇垣の行った講演が、陸軍嫌いの大隈にいたく気に入られ、彼をして”これからは大いに陸軍と親しもう”とまで云わしめた。それを聞いた歩三聯隊長の田中は早速大隈を聯隊に呼んで講演を依頼し、一気に大隈と親密になった。後の立憲同志会結成や大隈の軍人後援会会長就任などはこの宇垣の講演が機縁となったといってもいいわけで、このことで田中は宇垣という人物を知り、その能力を大いに買ったと思われる。(宇垣を買って重用したのは同じ長州でも岡市之助の方だという説もあり)

上原に関しては次のような記述もあります。
上原元帥の精力と明敏には感心したり。彼嘗て山本伯(権兵衛)を評して「彼は猜疑心深く恰も腐りた御殿女中の如き輩なり」と。余は近時に於ける同元帥の行動及四月中旬会見談の時を追憶して、同元帥もやはり山本伯に彷彿たる性格ありと認めたり。薩人固有の性癖乎。而して彼は余り不遇の味を知らず、人を見るの眼識に於いても欠如せり。
もってまわった言い方をしてますが、とどのつまりあんたも腐った御殿女中だと言ってるわけですから、相当な毒舌です。宇垣の日記は全編を通して毒舌で批評的ではあるんですが、上原に対するそれは格別です。余に派閥なしと云いながらもよほど含むところがあったようです。

大正12年3月24日、上原の参謀総長退任の送別会があったのですが、その挨拶で上原が「本職八年に近く此間大過なく今日に至りしは云々」と述べたことに対しても、まさか本気で言ってるのか?と(勿論日記の中で)噛み付いてます。さらに秋山好古の退任の挨拶を引き合いに出し、上原元帥に比べると秋山大将の挨拶のなんと奥床しきことよと称えてます。

大正13年正月、前述の通り宇垣は清浦から陸相就任を要請されます。宇垣は清浦内閣を”どうせ短命に終わる時代錯誤内閣”とみなしますが、河合、大庭の説得を受け「利害の外に超越し犠牲的精神を基礎として」入閣を承諾します。随分大層な言い方をしてますが、よくよく考えると、大命を受けて組閣される内閣に対して、こいつは短命そうだからと入閣を渋るというのは不遜極まりない態度だと思うのですが、勿論本人にそんな意識はありません。もっとも前述の田中による福田排撃宇垣陸相工作は、宇垣の献策によるとの話もあります。やっぱりホントはやりたかったのか?

余の就任に反感を有するの士は少なくない。殊に上原元帥、福田大将は正面より田中批難の提議を呈出せられたり。敗者の愚痴、報復の意義が主因に外ならぬ。余は適当に将又厳正に裁断的の判決を与ふる前に感情の融和に勉め、河合、大庭、山梨諸先輩も之に努力せられたるも其効果なかりしを以て、余は断乎たる裁決的意思を両者に与えたり。爾後表面上には杳として本問題の声を聞かざるに至りたり。大局を忘れ軍部の威信維持の必要を忘れ区区たる個人の面目や利害に執着して妄動するの先輩少なからず、痛恨にたえず。
まあその職が希望に添う添わないは別にして、やはり自分の就任に反対されるのは気分悪いでしょうね。

結局、宇垣曰く「戦闘力は弱いが上品な」清浦内閣は彼の当初の予想通り短命に終わります。次期首班に指名されたのはは憲政会の加藤高明、宇垣はこの三派連立内閣への留任を承認します。この組閣時にも色々あったようで、
山半(山梨のこと)の加藤、岡崎(邦輔)との暮夜の会見、尾野の売軍的意見を江木(翼)に陳述し、上原の奥に意見を聞くべく加藤への建言等、挙げ来れば嘔吐を催すの感あり
と書き記しています。尾野の売軍的発言というのはどんなものなのか興味がありますが、ちょっとわかりません。ちなみに彼は武藤章の岳父です。奥というのは奥保鞏元帥でしょう。宇垣の入閣を奥に反対してもらおうという話でしょうか?山梨にいたっては最早”山半”です。名前すらろくに書いて貰えない。

まあとにかくそんなこんなで入閣した政党内閣で、彼は第2次の軍備整理を断行します。所謂宇垣軍縮です。
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今年は事件から丁度70年ということで、事件までの流れを陸軍を中心にざっくりと振り返ってみたいと思います。

第1回は大正末の陸軍を二分した上原勇作田中義一についてです。

薩摩の総帥上原と長州の秘蔵っ子田中、その対立は宿命づけられていたと言えなくも無いですが、実際には二人はある時期まではかなり親密な間柄でした。田中は、異常なまでに長州とその同調者で周りを固めた寺内正毅と比べると、ずっと長閥意識は薄く、上原が参謀総長、田中が次長の時代にはタッグを組んで寺内の大陸政策に反対したりしていました。その二人が反目しあう切欠となったのがシベリア撤兵問題です。田中は元々、積極的な大陸政策を持つ上原派と共に、この出兵を旗を振って推し進めた一人でした。しかし原内閣に陸相として入閣すると態度を180度転換して、撤兵に賛成します。この辺は良くも悪くもリアリストで政治家である田中らしい点ですが、当然総長上原はこの変節に猛然と反発しました。しかし田中は屈せず、原敬の応援を得て元老山縣有朋を説得。さらにこれを機会に、統帥権を盾に政府に反抗する参謀本部の抜本的改革にまで乗り出そうとします。

余談になりますが、このころ高橋是清が参謀本部廃止論をいきなりぶち上げ、原たちを驚かせました。原はそのラディカルさに、例え私論としてであっても、絶対に発表しないように高橋に釘を刺しました。原と田中はこの高橋の思いつきについて話し合い、”上原嫌いの長岡外史が、参謀本部をなくせば航空に予算を振り向けられるという考えから、こういったことを高橋に吹き込んだのではないか”というようなことを話し合っています。その席で田中は、”高橋のような論は困るが、いずれ参謀本部は陸軍省の中に移すぐらいにはしたい”と原に言ったそうです。

田中と上原の対立はウラジオストック撤兵問題で最高潮に達し、それまで何度も辞表をちらつかせていた田中は遂にそのカードを切ります。彼は自分が辞めることでまた、上原も辞めざるを得ない立場に追い込もうとしたのです。山縣も田中の辞任を了承し、後任についても田中に一存することで異存は無いと原に伝えました。田中は自らの後任には同期の山梨半造を推薦。参謀総長の後任には、”参謀本部が将来権力を振り回すといけないから、平凡な人物を採用したい”として教育総監の秋山好古を据えるつもりであることを原に伝え、その同意を得ています。こうして田中は辞職しましたが、上原の総長更迭に関しては山縣の反対などもあり結局うやむやになりました。

原、山縣と関係の深い二人の死を挟んで、田中は再び山本権兵衛内閣で陸相に就任します。山本”震災”内閣での田中の最初の仕事は、甘粕事件の責を問うて関東戒厳司令官福田雅太郎を解任することでした。福田は上原派の有力な将星であり、田中とも若い頃から非常に親しい間柄でした。福田自身はこの処置にさして不満というわけではありませんでしたが、福田だけが辞めさせられ、陸相がその職にとどまることに、憤懣を抱いた人々がいたのも確かです。

虎ノ門事件で山本内閣が総辞職。組閣の大命は清浦奎吾子爵に降りました。この清浦内閣の陸相選考を巡って二人の対立は遂に修復不能となります。大命を受けた清浦に対し、田中は次官の宇垣一成を推薦。一方上原も清浦と同じ熊本の石光真臣中将(真清の実弟)を使者に立て、福田を推薦します。この上原の動きを探知した田中は、参謀総長河合操、教育総監大庭二郎を呼び寄せ三長官会議を開き、また東京警備司令官山梨半造、軍事参議官尾野実信、同町田経宇をも集めて会議し、第一候補福田、第二候補尾野、第三候補宇垣として、清浦にはこの三人の中から選ぶように申し述べました。このうち尾野は本人にその意思が無くカモフラージュ候補であり、田中の本命は当然宇垣でした。そのため彼はこの裏で貴族院研究会に働きかけ、福田反対運動を起こさせています。理由は、”甘粕事件により福田は全国の社会主義者、無政府主義者に狙われる身である(実際に狙撃を受けている)。そのような人物を陸相にして陛下に万が一のことがあったら”というものでした。上原派の町田や石光などの反対意見もありましたが、結局清浦は宇垣に陸相就任を要請。宇垣はこれを受諾します。すべてが終わってからこの経緯を聞いた上原は激怒、田中に対し”私的交際はとにかく、公人としての関係は打ち切りたい”との絶縁宣言を投げつけました。福田もまたこの田中の行動に怒り心頭で、”おれは徹頭徹尾田中のやることには反対してやる。(田中の政友会に対して)近く新政党(民政党)ができるというから、そちらにいくつもりだ”とまで揚言したそうです。

とにかくこうして、かつての大陸問題の同志は袂を分かち、山縣亡き後の陸軍に、再び不吉な派閥争いの影がちらつき始めました。そんな中、宇垣一成が登場します。
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