近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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前半は予想通りの酷い内容。
ソ連の進攻(侵攻?)と関東軍の対応に関する説明も従来どおり薄っぺらい。
通化事件に至っては呆れ果てて開いた口がふさがらない。娘さんも、当時幼かったとはいえ、虐殺された日本人にも一言あっていいんではないか?まあ、口に出さないだけで、心の中ではきちんとわかっておられると思うが。事件の実態を完全にぼやかす編集は残念だ。
いったい、中共の歴史観をそのまま垂れ流す姿勢は、大本営陸海軍発表をそのまま垂れ流していた戦中と何処が違うのか?私は別に修正主義者ではないし、日中友好は結構なことだと思う。ただ公平にやってほしい。片方の主義主張だけを押し付けられて、友好など成り立つものか。

は~受信料払いたいくねえ。CHKにでも名前変えてくれ。

しかし動く本庄大将は初めて見たな。後、舩木さんもまだご健在なんですね。この人の本は2冊(岡村大将小浜大佐の伝記)もってるが、非常にいい本です。
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    6 有末精三第二部長時代
  • 有末少将はムッソリーニの親友とまでいわれたイタリア通。田辺参謀次長の旧部下だった関係から引っ張られたのでは。
  • 海軍はミッドウェイの敗戦を陸軍にすら隠していた。
  • 7月20日、ドイツより対ソ賛成要望電報(881号)が届く。
  • ガダルカナルに上陸した米軍に関して在ソ武官より「ソロモン諸島に上陸した米軍はたいした意味のあるものではない。兵力は数千でその任務は飛行場を破壊して撤退することになっている」との電報があった。
  • 第17軍参謀長二見少将、海軍第11航空艦隊参謀長に情勢を聞くが、極めて楽観的な意見を述べられる。神参謀も「ガ島は簡単なり。一木支隊外1大隊で十分なり」と楽観。
  • 日本軍はマリーン(海兵隊)に関する知識がなく、これを軽く見た。
  • 新設の第8方面軍司令部から、筆者、篠原優参謀(39期、大佐)、田中耕二参謀(45期、中佐)の三名は消極参謀と見られた。
  • 辻政信が哈爾賓のモデルメホテルの主人(ドイツ人)を使って和平工作をやっているという裏情報
  • 上記情報に接した有末部長は第一部と第二部の合併を提案するが、結局沙汰止みとなった。
  • 18年1月ドイツの坂西武官とハンガリーの芳仲武官から電報が届いた。坂西武官の報告はドイツは不敗の態勢を整えているという楽観的なものであったが、芳仲武官の報告はドイツの戦争指導に批判的で、イタリア脱落の懸念を伝えていた。
  • 第八課長西義章大佐(31期)はキスカの守備隊司令官への転任を希望していたが、日本からドイツへの無着陸飛行の壮挙があることを耳にして、自らスペインに至って活躍したきことを再度部長に具申した。西大佐は香取孝輔中佐(34期)を連れてシンガポールから飛び立った。パイロットは陸軍第一流の中村晶三中佐、副パイロットは朝日新聞欧亜連絡飛行を行った飯沼正明氏が充当された。大佐の乗った機はインド洋上空で撃墜された。大佐は開戦時在スペイン武官で、当時米国航空兵少佐と和平について密談したこともあった。わが国の現況から和平工作の必要性を考え、中立国スペイン、ポルトガルにおける活動に挺身せんとしたのであった。スペイン公使の須磨弥吉郎はこの種の工作に理解があったことも渡欧を決意させた。
  • 筆者は聯隊の先輩の服部作戦課長からどうしてもと請われて作戦課に移った。
  • 18年9月より島村矩康大佐(36期、戦死して少将)は大本営参謀兼聯合艦隊参謀となり陸海の連絡とともに聯合艦隊司令長官の補佐にあたっていた。またサイパンに中部太平洋方面艦隊が創設されるや同参謀も兼務した。島村大佐はソ連にも駐在し、関東軍や参謀本部の作戦課に勤務した優秀な人材であったが、20年1月15日南支那海で撃墜され戦死した。
  • 19年2月10日、航空機資材の陸海配分で海相嶋田が陸軍に譲歩したことから、海軍の嶋田の弱腰に対する不満が著しく増幅。しかし、陸海協調に努める海相を弱腰、無能と罵るのは不適当。
  • サイパンの斎藤中将より打電。「本朝サイパンに対し戦艦以下20数隻で砲撃中、本夕または明朝上陸の気配濃厚、傍若無人の振る舞い、帝國海軍何れにありや。陸軍部隊の志気旺盛満を持して撃滅を期しあり」
  • 7月5日サイパン島守備隊玉砕。「我等玉砕以って太平洋の防波堤たらん」
  • 海軍、見込みのないサイパン奪回を強硬に主張。教育局長高木少将もっとも強硬。
  • 従来より海軍内に陸軍を目の敵にする風潮有。嶋田はそのスケープゴートとされたか。嶋田は昭和12年以来中央部に位置しないで、16年東條内閣の出現とともに大臣に就任したわけで、重要な諸政策は彼の着任以前にほとんど決定されていたものだ。海軍高級将官が陸軍を”馬の糞”とか”強盗”などといい、対抗意識が強かった。それが下部にも反映し、陸海軍抗争を強からしめたのは否定できない。中沢佑中将は「嶋田大将は立派な提督であった。非難は度が過ぎている」と筆者に語った。
  • 古賀聯合艦隊司令長官は堀中将に送った私信で「海軍将兵が東奔西走懸命な努力を払っているにもかかわらず、ニューギニア、南東方面にある陸軍数ケ軍は徒食しているのは遺憾である」と述べている。これはガダルカナル以来の17A,18A、8HAの将兵の苦労をまったく無視した話である。
  • 戦後出版された多くの回想録や戦記中に対米正面の防衛が海軍の主担任であったことの記述がほとんどないのは残念。
  • 19年9月第二部各課の課長、高級部員を集めた会議で、第五課の野原博起中佐(42期)から満洲を放棄する意見が開陳されたが、強い反対意見から沙汰止みとなった。
  • 所謂海軍乙事件で福留聯合艦隊参謀長はゲリラの捕虜となりZ作戦計画と暗号書を奪われ、セブ島の30MBsに救出された。続いて第十四方面軍の某獣医部附大尉がマニラ市内の繁華街で方面軍作戦計画を盗まれた。軍参謀長諌山春樹少将(27期、中将)は台湾軍司令部附に左遷された。こうして捷一号作戦は、発動前からその計画が米軍に漏れていたのである。
  • 筆者は9月の大本営会議で海軍側に「海軍従来の戦果発表を総合すると、米海軍艦艇は皆無になっているはずだが事実はこれに反する。海軍の過大な発表は作戦指導に及ぼすところ極めて大であるので慎重な態度をとり真実を発表される必要がある」と発言した。
  • 最高戦争指導会議で小磯総理より秦彦三郎参謀次長に「ソ連は中立条約を廃棄するや」との質問あり。次長は「当然廃棄するであろう。ソ連としては今や条約存続の必要性はない。ソ連のような国にとっては条約と戦争は無関係であり、条約があっても安心できない」との見解を述べた。
  • チタ総領事館勤務の原田統吉(中野学校出身)がシベリア鉄道の監視作業を続けて「ソ連対日参戦を7,8月頃」と予測報告していた。
    5-1 若松只一第二部長時代
  • 若松少将はドイツ畑を歩んだ人で、その性格からいっても親独的にならざるを得なかった。
  • 第八課の前身第四班は部内の予算などを担当する総合班であったが、課に格上げされ謀略課という通称を戴いたことから、情報の本筋を離れ宣伝謀略に傾いていき、第一部の強硬意見に追随する傾向が強くなった。
  • 当時ドイツ大使館はオットー大使、スターマー武官以下、盛んに日本にシンガポール攻撃を売り込んでいた。
  • ドイツ経済使節団が来日し、中国におけるドイツ権益の保障などを求めた。ドイツの国内経済が傾きつつある事が看取できたがドイツの戦争遂行能力に無関心な日本軍は彼らの言い分を良く聞いて、協力を惜しまなかった。
  • 米英に関する情報について陸軍は、参本英米班より海軍の情報に信を置く傾向にあった。
  • アメリカを訪れた筆者は西山勉財務官に「日本では大東亜共栄圏などと言っているがとんでもない。それは大東亜共貧圏を意味するもので、絶対日米戦争などすべきでない」と激励された。シカゴで会ったドーズは「スチムソンは極めて危険な狂人的な人物で何をやらかすかわからないので、日本も注意する要がある」と忠告された。
  • 帰国した筆者は、欧米課長にドイツ系で作戦畑出身の天野正一大佐(32期、少将)が就いていることに非常なショックを受けた。
  • 在スウェーデン西村敏雄武官より「独軍の上陸用舟艇は英国本土上陸作戦に必要なだけ揃っていない。本土上陸作戦の可能性はない」との打電があったが、若松部長はこれを読んで「ドイツに不利な情報報告は良くない」との注意を西村武官に与えるよう指示した。これは林三郎ロシア課高級部員の意見具申で取り止められた。
  • 在ドイツの桜井一郎中佐(36期、大佐)は、独軍の上陸用舟艇が敵前上陸に不適である事を発見し、在ドイツ武官に通報していたが、これが東京に報告されたかは不明。
  • 野村直邦海軍中将は「ドイツの英国に対する攻撃はドイツの成功に終わる」と軍令部に報告してきた。
  • 在スウェーデン小野寺武官は、エストニアやポーランドの亡命将校から、ドイツが対ソ戦準備をしているという情報を得て在欧州武官会議で報告したが、大島大使秘書官西郷従吾中佐(36期、大佐)に「大使と共に各戦線を視察して回ったが、独軍は対英本土上陸作戦の準備中である」と否定された。


    5-2 岡本清福第二部長時代
  • 岡本少将はドイツ系で主に作戦畑を歩んだ優秀で誠実勤勉な将校であったが、英米に対する認識は殆ど無かった。田中新一第一部長の威圧的な性格もあって、第二部は岡本部長就任以来、第一部に従属的な態度を示すようになった。
  • ウォルシュ、ドラウトを介した日米交渉に、強烈な枢軸派であった岩畔大佐が出てきたことで、アメリカ側はこの交渉に不信感を持った。
  • 在米海軍将校がアメリカ当局に逮捕される事件が相次いだ。
  • 16年、総力戦研究所が設立された。これは大正年間から酒井鎬次中佐が提唱していたもので、英国帰りの辰巳大佐が強くこの種の機関の必要性を訴え、軍事課高級課員西浦進中佐がそれに賛同してできたものであった。
  • 6月3日、ヒトラーより大島に独ソ開戦が近いという直話があっても、日本はドイツに心酔しきっており、松岡外相や建川駐ソ大使の「独ソ戦は有り得ない」という報告もあって、6月6日の時点でさえ「独ソ協定60パーセント、開戦40パーセント」と天皇に上奏する始末であった。
  • 6月28日になってようやく纏められた『情勢の推移に伴う帝國国策要綱』には「本目的達成のため対米戦を辞せず」との一文があった。これを知った筆者は有末次大佐塚田攻次長を尋ねその真意を質した。有末は「あれは言葉のアヤで、あのように書かないと各方面の合意を得られなかった」と述べた。塚田は「外国勤務の経験が無いので意見があれば遠慮なく申し出よ。支那事変解決に努力を傾注することにはなんら変化ない」と述べた。
  • ドイツより帰国した山下中将は「日本は隠忍自重国力を培養し軍の近代化を図るべきである」との意見を東條陸相に具申した。
  • 関特演にロシア課は反対であった。
  • 当時第一部でアメリカを知るものは僅かに久門有文中佐一人であった。
  • 8月22日、軍令部作戦課はハワイ奇襲案を参本作戦課に提示してきた。
  • アメリカは近衛を全然信用していなかった。
  • 辻政信は近衛が日米交渉に向かう場合、六郷橋を吹っ飛ばして爆殺する計画を立てていた。
  • 10月1日、陸軍大学校で塚田次長統裁の南方作戦図演が行われ、その席上で第十四軍参謀長充用予定の前田少将が「米比軍がバターン半島に逃避する場合に関する第十四軍の使命は」と質問した。大本営の答えは「軍の使命に変化なし」であった。
  • 朝日新聞など日米決裂を一面で派手に扱い、米軍将兵の士気の低さを盛んに書きたてた。
  • 海軍は、南洋委任統治領は海軍の勢力圏であると考え、陸軍軍人が視察に行く事すら好まなかった。
  • 第二部には桑木、沢田、酒井鎬次、橋本群各予備役中将が顧問として時々顔を出し、助言を与えていた。
  • モスクワより帰任した山岡道武大佐(32期、少将)は「独ソ和平によりソ連を枢軸陣営に引き入れるか、或は日独による徹底的対ソ戦によるソ連覆滅か、いずれかを実現しなければソ連は日本にとって今次戦争における最大にして最後の癌となるであろう」と報告した。
    4 土橋勇逸第二部長時代
  • 土橋少将はフランス通でヒトラーに好感は持っていなかった。
  • 欧米課長には同じくフランス系の唐川安夫大佐(29期、中将)が起用された。
  • 土橋部長は海軍や外務省との連絡に非常に熱心であった。
  • 西原一策少将を団長とする監視団が仏印国境に派遣された。それとは別にビルマへも渡辺三郎大佐(30期、少将)以下約10名が派遣されたが、これは第一部が推し進めたもので、第二部は反対であった。
  • 土橋部長は日ソ条約の締結に熱心であった。ロシア班の甲谷悦雄中佐(36期、大佐)が日ソ和解条約案の研究を命じられ、それが後年の日ソ中立条約の基礎となった。
  • 14年12月、野戦病院を見舞った第十一軍司令官岡村中将は、受傷者に銃剣による傷があるのに気付き、中央直系の精鋭による本格反攻と判断、即時漢口に帰還した。
  • 前線を視察した沢田参謀次長は改めて事変解決の難しさを実感。新任の冨永恭次第一部長が自信を喪失し次長に辞任を申し出る一幕もあった。
  • 大本営内は英国の屈服近しという考えが支配的であった。英米班はヘスの英国への飛行はドイツ国内に何らかの問題があるためではないかと考えていた。
  • ベルギーに於いて栗山大使、辰巳英国武官と会談をしていた岡本清福ドイツ武官は、ドイツ事情について聞かれ「ドイツは目下叉銃休憩中である」と語っていたが、同夜半過ぎドイツはベルギーに奇襲をかけ、両武官とも急遽パリ経由で難を避け任地へ戻った。
  • 『情勢の推移に伴ふ時局処理要綱』で海軍は対英戦に同意し、対米戦に関しても「準備に遺憾さえなければこれに対処し得る成算あり」という建前をとった。
  • 陸軍省は積極的に南進を叫ぶようになり、岩畔豪雄軍事課長などシンガポール奇襲作戦を主張する始末であった。
  • 仮出獄していた前田虎雄、景山正治らが7月5日、米内首相ら要人の暗殺を企図した容疑で逮捕された(皇民有志蹶起事件)。
  • 石川信吾大佐はティルピッツに心酔していた。
  • 英国の屈服は近いと考える沢田次長、冨永第一部長と、ドイツに懐疑的な土橋第二部長、西原少将の考えは対立的であった。沢田次長は英国に圧力をかけるため、香港に向けて重砲を展開するべく動員の御裁可を得た。
  • 日独同盟に関して、土橋部長は埒外に置かれていた。
  • 海軍が三国同盟に反対すれば陸軍がクーデターを起こし内乱になる。それが恐いから賛成したと豊田貞次郎次官は述べた。戦後もこのような論法で責任を陸軍に転嫁するものがあるが、海軍首脳が親独派の中堅を抑え切れなかったことは、三国同盟に至る経緯でも明らかである。豊田に対し長谷川清大将は「内乱よりも戦争のほうが国家として重大であるまた内乱などは起らない」とはっきり述べている。
  • このころ親英派といわれた山本聯合艦隊司令長官の見解も変化を来している。及川海相に対し「ここまでくれば仕方ないだろう」と答えている。
  • 大島浩は在日ドイツ大使館の顧問となり、ホットラインで直接リッベントロップと交渉することが許されていた。小笠原長生中将邸にも週2,3回真夜中にドイツ大使館員が訪れ密談を重ねていた。
  • 来栖、重光、東郷大使は日独同盟に反対であったが、海軍は賛成に回った。枢密顧問官石井菊次郎は「ドイツ或はプロシアと同盟を結んでその同盟の利益を受けた国はない。このことは顕著な事実である。そればかりでなくこれがため不慮の災難を蒙り、ついに社稷を失うに至った国すらある」と警告した。
  • 枢密院において有馬海軍大将と鈴木海軍大将は今が日米海戦の好機会なることを率直に言明し、河合操大将は本条約に積極的に賛成した。
  • 在英辰巳武官、在米磯田三郎武官よりの、英国は米国の援助を受けて立ち直りつつあることや米国の軍拡と英国援助熱に関する電報は、親英米的として軽んじられた。
  • 筆者は、在米武官も務め当時衆議院議員であった原口初太郎予備役中将(8期)を時たま訪ね、その意見を伺っていたが、中将には憲兵の監視がついていた。
  • 第一部は15年頃より次々に参謀を南方に派遣していた。
    比島 島村矩康中佐、岩越紳六大尉
    蘭印 志甫健吉少佐、岡村誠之少佐、加藤長少佐
    馬来 谷川一男中佐、国武輝人大尉
    香港 藤原武大佐、瀬島龍三大尉
  • 第二部も遅ればせながら南方へ参謀を派遣した。
    比島 能勢潤三大佐
    泰馬来 八原博通中佐
    バンドン 石川晋中佐
    フィジー 豊福徹夫大尉
    爪哇 古木重之少佐
    スマトラ 門松正一少佐
    北部スマトラ 西村兵一少佐
    パレンバン 小松原虎雄少佐
筆者の経歴はここ 参本の組織に関してはここ
    1-1 磯谷廉介第二部長時代
  • 磯谷少将は支那通で小事に拘らない支那の大人風
  • 部長も両課長も米英の動向に大なる関心無し。
  • 第四課(欧米課)第一班(南北アメリカ担当)の意見は軽視されがちであった。
  • 第二部各班は参謀3名、勤務将校2名及び事務官より成り、人員は第二部全体でも100名に達しなかった。
  • 支那課やロシア班に比べ欧米班は比較的閑散としており、欧米班の1年かの旅費は僅か300円であった。
  • 陸軍の閑院総長宮に対抗して海軍も伏見宮を、東郷元帥を使ってまで、軍令部長に担ぎ出した。伏見宮は常に海軍強硬派の側にあった。
  • 満洲国建国で多くの特務機関が新設された。
    満洲事変以前からあった特務機関
    哈爾賓、奉天、満洲里
    事変後に設けられた機関
    チチハル、ハイラル、黒河、承徳、多倫、密山、張家口、西ウジムチン
    新設された領事館
    ウラジオストック、ハバロフスク、ノボシビルスク、チタ、ブラゴヴェシチェンクス、オデッサ
    参本直轄の新機関
    ベルリン謀略機関、パリ謀略機関、イラン公使館附武官室
  • 小畑敏四郎鈴木率道によって対ソ戦略に大修正が加えられ「まず満洲東方正面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して進攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」という内線作戦が策定された。彼等はこの作戦を補完する為政略的に米英や支那との提携を考えていた。
  • ワシントン会議に関して、林陸相や岡田総理は強く条約継続を要望したが、大角海相はこれを拒否した。アメリカ班長平田正判中佐(25期、中将)はワシントン会議脱退に反対し陸軍上層部に意見具申したが取り合ってもらえなかった。
  • 陸軍にあっても対米戦を考慮して大正末に前田正実大尉をフィリピンに3年間商人として潜入させたり、鈴木敬司大尉を昭和7年より3年間マニラに潜入させたりして情報を収集していた。
  • 海軍の対米作戦構想で重大な要素になったのは、我方の潜水艦を過大評価し、米海軍の潜水艦作戦を蔑視したことであった。軍縮会議において海軍は潜水艦の米英パリティを主張し、海軍作戦の勝利を潜水艦作戦に託していた。すなわち日本人のみが潜水艦乗りに適し、米人らには不適であるとする独善的観念に陥っていた。沢田参謀次長は「海軍が潜水艦作戦は独壇場だとさえ豪語していたことは、陸軍が米国の反撃を真剣に考えなかった一つの原因ともなった」と書いている。
  • この頃斉藤博大使がルーズベルトやハルに日米同盟を提案したが、天羽声明と近衛に不用意な発言でおじゃんになった。
  • 第一次大戦に従軍した陸軍将校
    ロシア軍大庭二郎、中島正武、石坂善次郎、高柳保太郎(以上少将)、福田喜助、荒木貞夫、坂部十寸穂、黒沢準、古谷清(以上中佐)、井染禄郎少佐、橋本虎之助、時乗寿、森田宣、三毛一夫、長谷部照吾、斎藤捨次郎、小畑敏四郎、黒木親慶山脇正隆桑木崇明安井藤治鈴木重康、武田額三(以上大尉)
    フランス軍小林順一郎四王天延孝(以上少佐)、酒井鎬次久納誠一(以上大尉)
    イタリア軍>小川恒三郎、飯田貞固(以上大尉)
    イギリス軍建川美次少佐、児玉友雄、谷寿夫本間雅晴前田利為(以上大尉)
    アメリカ軍>鷲津平大尉
    欧州駐在>渡辺寿少将、渡辺錠太郎大佐、森五六、山下奉文古荘幹郎松井命(以上大尉)


    1-2 岡村寧次第二部長時代
  • 岡村少将は名実共に支那通の第一人者で内外に友人多く、親近感の持てる立派な将軍であった。
  • 欧米課長の神田正種大佐はロシア通で英米に関心は薄かった。支那課長の喜多誠一大佐は支那勤務が長く支那の大人然たるところがあった。
  • 広東特務機関長和知鷹二中佐が陳済棠、李済仁、白崇禧ら反蒋勢力に働きかけていた。彼等は知日派の胡漢民の支持を受けていた。和知は関東軍との折衝により満洲国より三八式歩兵銃、弾薬、山砲、戦闘機を引き出し、彼ら西南軍閥に譲渡した。
  • ロンドン条約廃棄について陸軍部内は無関心であった。
  • 二・二六事件に断乎たる処置を主張したのは全師団中第二師団長の梅津美治郎中将(15期、大将)のみで、多くは首鼠両端を持していた。
  • ゾルゲはこの事件の分析でドイツ大使館からの信頼を得た。


    1-3 渡久雄第二部長時代
  • 渡少将は部内きっての英米通であったが、着任当初より病気がちで多くの場合、欧米課長の笠原幸雄大佐が部長代行を務めていた。
  • 米班長は木村松治郎中佐(27期、中将)で、「対ソ戦法」の赤本に倣って「対米戦法」を起草していた。
  • 第二部担当の「情勢判断」が第一部の戦争指導課に移された。
  • 対ソ情報収集のために投入された武官
    在ソ連 川俣雄人中佐
    在イラン 福地春男中佐
    在トルコ 磯村武亮中佐
    在オーストリア 西郷従吾大尉
    在ラトビア・エストニア・リトアニア 小野寺信中佐
    在ポーランド 沢田茂少将
    在フィンランド 加藤義秀少佐
    在アフガニスタン 宮崎義一少佐
    在ドイツ 大島浩少将
    在満洲 今村均少将
    ※アフガンの宮崎武官は昭和12年11月国外追放された。
  • アメリカ議会はタイデングーマグフダイ法案によって1946年には比島の完全独立を認める事を可決した。比大統領予定のケソンはマッカーサーを軍事顧問団長として招聘した。
  • 海軍では在外武官室に優秀な通信下士官を配置していたが陸軍にあってはその考慮がなく武官を配置すればそれで事足りると考えていた。
  • 従来の国防方針、用兵綱領、年度計画などに目を通し、そこに全体を統御する戦争計画(国防国策)が無いことに気付いた石原莞爾は「まず対ソ軍備に重点を向け北方の脅威を排除し、中国との破局を防止し極力米英との和協を図り、この間満洲国の育成を図らねばならぬ」という考えで海軍と折衝したが、この思想は海軍の受け容れるところとならず、彼等は国防国策を論じるより寧ろ、国際情勢の大変化と軍縮条約の失効の点から国防方針の第三次改訂を優先すべきと譲らなかった。
  • 第三艦隊司令長官の及川古志郎中将がこのとき、対米英との衝突を避けるべく陸海の仮想敵国をソ連に統一することを中央部に意見上申したが、海軍次官、軍令部次長連名で「国防を先ず陸然る後海とするが如きは誤れるも甚だし」という返事であった。
  • 新たに策定された国防方針は仮想敵国に米、ソ、中に英国を加えたものであった。
  • 国防方針の策定と同時に石原が進めていた国防国策に関しては、陸軍の対ソ先決主義が海軍の容れるところとならず、海軍側は陸軍の「対ソ先決」と海軍の「北守南進」を組み合わせた国防大綱なるものを策定した。
  • 石原は国防国策の中で「米国に中立を維持させながら、東亜から欧州勢力を駆逐し、オーストラリア、ニュージーランドまで占領する」と書いていた。これは甚だ現実離れした案であって、石原もまた米国に全く無知であった。
  • ドイツは早くから有力な顧問団を支那に派遣して、その軍備の充実を図っていた。ドイツ式軍が第一次上海事変で日本軍相手に善戦した事から蒋介石はドイツへの信頼を高め、ゼークト大将を招聘した。ゼークトは「日本一国だけを敵として、その他の諸外国との親善政策をとり素質優秀な幹部を中核とした軍を養成すべき」と提言した。ゼークトが帰国した後はファルケンハウゼン中将が後を継ぎ、支那事変において国民党軍の作戦を支援した。ファルケンハウゼンは帰国する時「日本は広大な中国本土において終局的に敗北するだろう」と述べた。
  • 松本重治は改造に第二次上海事変は日独戦争という論文を出したが、その部分は削除された。
  • 海軍予備役大佐石丸藤太の「日米戦ふか」がイギリスで売り出され一大センセーションを巻き起こした。
  • 米軍は日本陸軍には概して敬意を払っていたが、日本海軍には警戒的であった。当時大尉だった筆者の月給は米軍伍長と同じ水準であった。


    2 本間雅晴第二部長時代
  • 本間少将は英国通で語学や文学に優れ世界情勢にも通じ情報部長に最適であったが、ソ連や支那関係者から親英米派と見做されていた。
  • 欧米課長に木村中佐を昇格させずフランス畑の芳仲和太郎中佐(27期、中将)を持ってきたところに欧州重視の思想が伺える。
  • 支那事変に関し、第二部では支那課長の永津佐比重大佐(23期、中将)が一撃論者であった。
  • 新任の本間はそれを容認した。
  • ルーズベルトの所謂隔離演説があった。しかし彼の演説は米国を戦争に巻き込むものとして一般的には不評であった。
  • パネイ号事件は斎藤大使の適切な処理のお蔭で何とか収まった。
  • 陸軍はドイツから重爆撃機を一機譲渡してもらおうと交渉していたが、交渉は捗らなかった。在イタリア武官有末精三大佐は我軍の窮状を察し、イタリア政府にかけあってBR-26重爆撃機72機などを購入する事に成功した。
  • 臨時調査課長に就任した高木惣吉大佐は、陸軍側から積極強硬派と見られていた。
  • 日本の米国軽視の風潮は、欧州重視の裏返しであった。
  • 本間は離任に際し「英米軽視の風潮を改め、ヒトラーの政策に巻き込まれないよう努めなければならない」と申し送り、欧米課長に辰巳栄一大佐を推薦した。



    3 樋口季一郎第二部長時代
  • 樋口少将はポーランド武官などを務めたソ連通で英米に対する理解は薄かった。
  • 近衛は、次女が細川護貞に嫁ぐその前夜の仮装パーティーでヒトラーのコスプレをしていることから見ても、どちらかといえばヒトラーに好意的であったのではないか。
  • 白鳥はイタリアに赴任する際、近衛から「現地よりどしどし引っ張ってくれ」と激励されていた。
  • 当時の在欧州武官は、英国武官以外殆どアメリカに注意を払っていなかった。
  • 斎藤大使の死は米国民から非常に悲しまれた。
  • 斎藤大使の遺骸を運んできたアストリア号の歓迎パーティーでグルー大使に「日本海軍は本当のところ米国と戦争するつもりではありませんか」と聞かれた米内海相は「日本海軍に関する限り米国と戦争する気はまったくありません」と答えた。
  • 当時戦争指導課に在籍していた秩父宮殿下はしばしば英米班に来られて、英米の動向に多大な関心を寄せられた。
  • 陸大教官兼務であった筆者が学生に「支那の最大の援助国は誰か」と聞いたところ、英国、ソ連を挙げる者が多く、ドイツと答えた者は僅か2名、アメリカと答えた者はゼロであった。
  • 海軍が推し進めた海南島占領はいたく米英を刺激した。この島の占領に強く反対する汪兆銘政府の陳公博に対し、海軍の前田稔少将は「実は日本が米英と戦争する為にはどうしても海南島が必要なのだ」と頑張り通し同意を取り付けた。
  • この海南島占領は米内山本井上のトリオによって実行されたものであるが、戦後これらの提督に関する出版物でこのことを詳述しているものは殆ど無い。
  • 中支那方面軍に渉外部が設けられ部長に英米通の広田豊大佐(27期、中将)が任じられたが、同大佐は幕僚陣より作戦妨害部長などと皮肉られた。
  • ノモンハン事件後の服部らの処分が軽かったのは、総務部長の神田少将自身が脛に傷(満洲事変のときの朝鮮軍独断越境)を持っていたからではないかと筆者は考えているが、私自身は必ずしも此意見には賛成しない。
  • ノモンハン事件後に参謀次長に就任した沢田中将は、謀略課長にポーランド武官の臼井茂樹大佐(31期、戦死して少将)を起用し、第八課は情報業務から離れ謀略方面に深入りしていった。
  • 編制動員課の棚橋茂雄大尉(40期、中佐)が大阪商人と結託し、支那事変解決の為米国より20億ドルの借款を受け得られるとして工作に乗り出した。相手はカリフォルニアの会社社長チャンドラーで、開戦間際まで行われた。英米班はこの工作に「実現の可能性は全然無く、我が国の弱みを米国に知らすに過ぎない」と強硬に反対していた。筆者はこれはCIAの謀略工作でなかったかと推測している。
  • 関東軍司令部は対ソ戦で善戦したフィンランド軍よりカイラス大佐及びライネ少佐を招聘して対ソ作戦研究に参与せしめた。これはフィンランド武官小野打寛大佐(33期、少将)の斡旋によるものであった。
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