近衛読書中隊

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北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子著 東洋経済新報社
山東省の片隅で起こった拳匪の反乱は、1900年の5月には北京に達した。6月11日、日本公使館員杉山彬が義和団に斬殺され、危機感を高めた列国公使館も防備を固め始めた。しかし、総理衙門はこれを取り締まるどころか、あべこべに聯合国に最後通牒を突き付ける。6月20日、総理衙門へ交渉に向かったドイツ公使ケテラーが射殺され、進退窮まった十一カ国の公使館員とその家族、居留民らは、篭城を開始した。取り囲む軍勢は、義和団に清国官軍も加わり凡そ三万。それに対して列国軍は義勇兵を含めても僅か五百であった。

8月15日に日本を中心とした聯合軍に解放されるまでの約二ヶ月、この大劣勢の中、交民巷を守り抜く原動力となったのは、柴五郎陸軍砲兵中佐に率いられた日本人達であった。
本書において著者は、ロンドンタイムス記者モリソンを始めとした、篭城に参加した欧米人の日記等をふんだんに引用しながら、日本人の活躍を生き生きと描き出している。

本文より

「日本軍を指揮した柴中佐は、篭城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊であったばかりか、誰からも好かれ尊敬された」(ピーター・フレミング)

「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の知力と実行力によるものです。なぜならば、第一回目の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐もとくに発言しようとはしなかったと思います。でも、今ではすべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間無い激戦で怪腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」(P・C・スミス嬢)

「彼(柴)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後に勇敢にかまえています。その様子は、芝中佐の下でやはり王府の守備にあたっているイタリア兵とは大違いです」(同上)

「この小男(柴)は、いつのまにか混乱を秩序へまとめこんでいた。(中略)ぼくは自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」(パットナム・ウィール)

「小柄できびきびした柴中佐は、必要な場所には必ずいつでもいる」(G・E・モリソン)

「しかし、彼(柴)はまったく素晴らしい将校だ。事実、清兵は王府の壁を突き破って突入してきた。しかし、彼らは壁の銃眼の後ろに控えていた日本兵のすさまじい一斉射撃にあって叩き潰された」(ランスロット・ジャイルズ)

「王府は戦略上のキイポジションだ・・・日本兵が王府の守備にあたっていてくれることは、ぼくたち皆にとって非常にラッキーなことだ。もしこれがイタリア兵やオーストリア兵だったとしたら、王府はとっくの昔に敵の手に落ち、ぼくたちは全滅していただろう」(同上)

「七月十二日の夜、日本管轄の王府で激戦がありました。そのときイタリア兵は逃走し、イギリス部署を無防備のまま孤立させたので、イギリス兵たちは大憤慨でした。それに比べて、日本兵はとにかく素晴らしく、みなの賞賛の的になっています」(ジェシー・ランサム)

「絶対といってよいくらいの確かさでその言動を予言できる国民は日本人だけでした・・・私は日本兵が大好きです。彼らは朗らかではつらつとしていて、負傷してもくじけません」(同上)

著者には他に『日露戦争を演出した男モリソン』という著作があり、こちらは現在新潮社から文庫本で出ている。
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