近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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これまで

引き続き満川『三国干渉以後』によって、老壮会の活動を見ていく。
第一回の会合は大正7年10月9日午後6時清風亭で開かれた。このときはまだ名前も何も決まっていなかった。来会者は海軍中将上泉徳彌、陸軍中将佐藤鋼次郎、大日本主幹川島清治郎、東邦協会幹事川久保健、参謀本部編修長瀬鳳輔、善隣書院長で上泉の義兄宮島大八、前順天時報社長亀井陸良、旧自由党の大井憲太郎、徳富蘆花の義兄原田良八、支那通の中西正樹等の先輩格に、島中雄三、大宮欽治、日高瓊々彦、小室敬二郎の中堅組並びに三五会同人よりは大川周明、宮川一貫、岡悌治、何盛三、山田丑太郎、平賀磯次郎ら総員27名。まず世話人の満川が立って挨拶した。曰く「一切の年齢、職業、階級を縦断する『縦の交際』」で「根本に憂国的精神の存在する以上は、そが仮令所謂危険思想なるも、秩序紊乱なるも、何を発言しても差し支へな」く、「維新志士の精神に立ち返りてこの会を進めて行きたきものなり、云々」と。議事ではまず会名を決めようということになり、満川が夜光会、佐藤鋼次郎が老壮会、大井憲太郎が大正義会を提唱した。満川の夜光会には、今後日本はますます暗黒となるからその時の光とならんという意が込められていた。結局決定は次回に持ち越しとなり、更に小むつかしい会則などは一切作らぬことに決定した。次に小室より会は何か根本に決定するところが無ければならないとの発言があり、佐藤、川島、上泉、何、日高らの応酬があり、岡は熱烈なる普通選挙論を唱えた。大井の「この会は実行機関にせねばならぬ」という猛烈論に、島中が「決議による実行を強制せらるるやうでは、断然退会の外なし」と反駁し、満川は「会としては飽くまで研究本位でやりたし」と述べた。その後各自懇談に移り、午後11時散会した。

第二回の会合は10月22日に持たれ、夜光会では文学青年の集まりのようで優しすぎるし、大正義会は自由党の壮士のようで恐ろしすぎるというので、佐藤中将の老壮会(老人も青年もという意)に決定した。この会合の題目は「現下世界を風靡し、我皇室中心主義上、将た亦講和上至大の関係ある所謂民主的大勢を如何に取扱うべきか」であった。島中がリンカーンの言を引いて民主主義何ら憂うるに足らずと解説すると、大川がこれに駁して我が国には独特の国家観無かるべからずと論じた。

以後、大正7年内だけで第五回まで会合は持たれ、唐継尭顧問の大作理三郎やロシア通の中山逸三、インド研究家衣斐吉、松林亮、東京高師教授中島信虎、文学博士大類伸、前東京市参事山田忠正、帝大法科生の平貞蔵、泰東日報社長阿部真言、支那通の小村俊三郎、長谷川光太郎、そして中野正剛等が参加した。第三回の題目は「我国政治組織改革の根本精神如何」、第四回は「独逸の敗退に伴ふ英米勢力の増大」、第五回は「普通選挙問題」であった。第五回の会合では、岡、平賀が普通選挙論を述べ、川島、何が反対論を述べた。

ベルサイユの講和会議が始まると、民間有志からも中野正剛らが渡欧した。また佐藤鋼次郎が提唱して国民外交会という会が組織され、満川も勧められるままに参加した。満川はこの会の席上で、北一輝から送られてきた対支時局観の謄写刷りを配った。これを卓見として最も共鳴したのは政友会の松田源治であった。講和会議を取材し危機感を抱いた中野は「日章旗影薄し」と叫んで急遽帰国した。

この頃満川は、旧知の福田徳三博士を訪ね、老壮会に加わってくれるよう要請したが、福田は学会以外には一切関係しないと拒絶した。しかし間もなく福田は、吉野作造と共に黎明会を創立した。会の趣旨は「強権によるドイツのミリタリズムは滅んだ、今や新しき人類文化の黎明期に入らんとするに当たり、この黎明会を興す」というものであった。満川は、老壮会を夜光会と名付けようとした自分と、福田の思想にはよほど距離があることを思い知った。会には両博士のほかに、高橋誠一郎、左右田喜一郎、新渡戸稲造、麻生久、森戸辰男らが名を連ねた。

一方、黎明会と同じく神田青年会館で集会を持つ団体で、文化学会という会があった。発起人は島中雄三、岡悌治らで、満川も勧められるままこれに入会した。会員には外に下中弥三郎、安部磯雄、宮路嘉六、鷲尾正五郎、石田友治、北沢新次郎、杉森孝次郎、何盛三といった人々がいた。

年が明けた1月19日の第六回の席上には、売文社の高畠素之、北原龍雄が姿を現した。これは社会主義者の窮状に同情的な満川の依頼を受けた岡が、密かに交渉した結果であった。席上北原は「社会主義とは何ぞや」と題し、高畠は「社会主義者の観たる世界の大勢」と題して講演した。講演が終わると佐藤中将、中島教授、何盛三、小室敬二郎、川島清治郎らから、軍事問題や人口問題について質問があり、高畠、北原より一々答弁があった。散会して帰宅した満川の下には早速2名の刑事が現れ、会について根掘り葉掘り聞いた。老壮会の中には社会主義者を国賊の如く見ていた人もいたが、実際に会ってみた高畠は上州男児の面目躍如たる男であり、北原は気骨稜稜たる土佐ッポであった。(---余談ではあるが、高畠は井上日召と中学の同窓である。しかし支那革命に参加していた日召はまだこの頃中国にいた。---)一方高畠の方も、頑迷固陋な国家主義者の集まりと思っていた老壮会が、以外に話せることを知り、雑誌『新社会』に「福田徳三博士を介して黎明会に入会を申し込んだところが、色彩過激の故を以て拒絶せられた。然るに老壮会では欣然之を迎えて其説を聴取した。余は吉野博士等のダラダラした民本主義などよりは、錦旗を奉じて社会主義に驀進するをも辞せざらんとする佐藤中将、宮島大八氏等の国家主義にヨリ多くの共鳴を感ずるものである」と書いた。

社会主義者まで包含した老壮会は、第九回からは婦人も迎えた。権藤成卿の妹たる権藤誠子や吉田清子、柳葉清子ら『女性』同人が来会し、婦人問題についての議論がなされた。また大杉栄の先夫人堀保子もしばしば来会した。

大正8年4月売文社は解散し、高畠は堺利彦、山川均と袂を分かった。高畠、北原、遠藤無水、尾崎士郎、茂木久平は以後、国家社会主義の旗幟を立てて活動する。大衆社である。7月の第十五回老壮会に出席した遠藤は、「我国の社会主義者は志士系と侠客系との二種類に分かれるが、何れにしてもこの切迫せる困難より国家を救うには国家社会主義に由る外はない」と語った。

こうして老壮会は大きくなり、左右に翼を広げていった。島中雄三曰く「余は最初老壮会が出来たとき、期待に反することが多かったので、老壮会は不肖の子でないかと案じていたが、二三ケ月欠席の後出席してみると実に以外にも立派に成長していた。こんな愉快なことはない」と。

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これまで

また話が逆戻りしてしまうが、北一輝、大川周明と並ぶ重要人物である満川亀太郎の本を紹介する。この『三国干渉以後』は、昭和10年に下中弥三郎の平凡社から出版された自伝めいた書である。昭和10年に出たということを念頭に置いて読むと、中々感慨深い。論創社から再販されている。戸部先生の『ピースフィーラー』といい論創社GJ



満川は大阪に生まれ、京都で育った。小学生のときに再び大阪府豊能郡池田町(今の池田市)に引越し、更に池田から南に一里半の北豊島村に移った。この北豊島村というのは今の阪急宝塚線の石橋駅のある付近であり、当時は池田より見れば草深きド田舎であったそうだ。私事で恐縮だが、私は大学の関係でちょうどこの辺りに住んでいた。満川もまたあの辺りで育ったのかと思うと、なお一層の親近感が湧く。高等小学校に上がると、教師をしていた兄にくっついて京都に戻った。この頃、北清事変において発生した馬蹄銀事件を聞き、軍人から泥棒が出たと深いショックを受ける。星亨が殺されると、校長は生徒を集めて、星の罪悪を並べ立て、伊庭想太郎を賞揚した。渡良瀬の鉱毒事件に胸を痛め、近衛篤麿の国民同盟会就任に、日露開戦近しと、心を躍らせた。

余談だが、北清事変に出動した第五師団長の山口素臣が死んだとき、それがどうしたことか山縣有朋の訃報として伝わった。それを聞いた小村寿太郎は「それはどうもおかしいな。山縣大将とは今朝お目にかかって話をしたところだが」とつぶやいた。間もなく誤伝が明らかになると、小村外相は「ウム、死んだのはアレか」と言っただけで、弔問の使者さえ出さなかったという。

小学校を卒業した満川は、中学校には進まず、日本銀行京都出張所に就職した。入行当時の総裁は山本達雄、副総裁は高橋是清であった。間もなく京都出張所の所長が替わり、大阪支店より井上準之助が赴任してきた。日露戦争の最中、広瀬武夫の詩に感銘を受けた満川は、日銀を辞め、中学に進むことを決意した。ところがそこで入った中学が、私立吉田中学校というとんでもないインチキ学校で、一日も出席しないものに卒業証書を売ったなどの悪行がばれて、文部省から閉鎖を命じられてしまう。卒業を間近に控えた五年生は、生徒大会を開き、陳情団を東京に送ることを決定した。イの一番に最も悲壮なる演説をした満川は5人の陳情団の筆頭に挙げられ、2名の教師に付き添われ上京した。「国家の柱石たらんことを望めばなり」とか「社稷は常に俊傑によりて維持せらる」といった大人ぶった陳情書を文部省(大臣牧野伸顕)に提出したところ、「君等は学業をおろそかにして何をしに来たのか。陳情など学校当局がやることだ」といって相手にしてくれない。それでも、具体的な方法を案出してくれない限り、手ぶらでは帰れないとごねていると、西園寺公望の秘書官であった中川小十郎が、まとめて面倒を見ようと言ってきてくれた。それが清和中学校、後の立命館である。

中学を卒業した満川は、上京し早稲田に入学した。東京に着いて直ぐに読んだのが、幸徳秋水の平民新聞だった。また彼は、宮崎寅蔵らの革命評論も愛読した。早稲田に入ったものの、大隈のことはどうしても尊敬する気になれなかった。日本に革命を起こさなければならないと考え、部屋の壁に「革命者善也」と赤書して人を驚かせた。また学内の図書館に入り浸り、北輝次郎の発禁書「国体論及び純正社会主義」を借り出し、五日間で読了した。

間もなく、食べるために民声新聞に原稿を書くようになった。民声新聞社は星亨が創刊した新聞であり、かつては横川省三や国木田独歩が編集長を務めていた。満川はこの仕事を通じて小栗孝三郎や床次竹二郎と知り合った。

大逆事件が起こると、満川は記者としてその判決が下されるのを傍聴した。彼はこのような事件が起こったことの責任は、官僚閥族にもあるとして、金権に阿附する政治を憎んだ。このことを床次にぶつけると、彼もまた桂さんの責任は大であると述べたという。

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前回

さて安直戦争から時間は少し遡る大正7年7月、富山県魚津市を火元に米騒動が起こった。末松太平は後に、西田税や大岸頼義が国家改造運動を企てたことの根本は米騒動と関東大震災だと云ったそうだ。西田はこの年、広島から東京の中央幼年学校に進んだ。大岸は広島で西田の一つ下で、共に秀才(西田はトップ、大岸は4番で卒業)。二人はその頃から親しくしていたという。

同年10月、老壮会は誕生した。世話人は満川亀太郎。会自身は一定の方針を持たず、意見の交換を目的としたものであったという。左右にウィングを広げた多彩なメンバーが集まっていた。これは満川の人柄にもよるだろう。『現代史資料4』によればその顔触れは次の如く。

大井憲太郎  大川周明   満川亀太郎
中野正剛   高畠素之   北原竜雄
遠藤無水   畠中雄三   石田友治
下中弥三郎  山元亀次郎  鹿子木員信
沼波瓊音   渥美 勝   笠木良明
島野三郎   岩田富美夫  長谷川光太郎
細井 肇   田鍋安之助  伊達順之助
大竹博吉   上泉徳弥   金内良輔
平 貞蔵   小原達明   小栗慶太郎
川島清治   高尾平兵衛  佃 信夫
長崎 武   臼井清造   角田清彦
野中 貞   草間八十雄  山口正憲
長瀬鳳輔   中村高一   工藤鉄三郎
松延繁次   麓 禎助   権藤成卿
阿部真言   佐藤鋼次郎

後に国家革新運動など各方面で指導者となった人々がぞろぞろいる。しかし前述のように、この会自体は具体的な活動を行っていない。凄い面子であるが、私自身まだつかみきれてない部分が多い。これを機に勉強したい。

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これまでのあらすじ


段祺瑞は馮国璋、王士珍とならび北洋の三傑と呼ばれた袁世凱の宿将である。この三人は段が砲兵、馮が歩兵、王が工兵と出身の兵科も違い、段は虎、馮は狗、王は竜と呼ばれた。

段はいったん目を掛けた人はどんなことがあっても捨てないと言われた。彼の一派は俗に安徽派と呼ばれ、徐樹錚、呉光新、傅良佐、靳雲鵬の段門の四天王や盧永祥、陳樹藩、段芝貴などで構成されていた。段が長く陸軍総長や国務総理を務め、譜代の四将軍もまたその下で官僚ポストを歴任していたため、彼らはあまり大きな私兵集団を持たなかった。

安徽派の最重要人物は徐樹錚である。彼は1909年に日本の陸軍士官学校を卒業した後は、段の智嚢として活躍した切れ者であった。軍人に似合わず政治的な才知に富み、武弁である段を補佐したが、やり過ぎて敵も多かった。

一方、馮国璋を中心とした直隷派は、北京から遠ざけられていたが故に、安徽派と比べて強力な私兵集団を持つことができた。直隷派は馮を筆頭に曹錕、王占元、李純、陳光遠、孫伝芳、斉燮元、馮玉祥などおり、曹錕の配下には呉佩孚がいた。

1917年(民国6年)11月、対南政策を巡って段祺瑞は国務総理を辞任した。しかし徐樹錚の策動によって、本来主和派のはずの直隷督軍曹錕らが馮国璋に対南武力行使を要求した。さらに徐は張作霖を関内に招じ入れ馮に圧力をかけた。1918年(民国7年)3月、やむを得ず馮国璋は王士珍に代えて段祺瑞を国務総理に任命した。

しかし段の武力統一政策はうまくはいかず、11月、大総統に就任した徐世昌は停戦を命じ、翌年2月には南北和平会議を開いた。会議自体は破綻したが、五・四運動によって反帝国主義の運動は全国に広まった。これを受けて呉佩孚は南北和平を訴え段政府を攻撃した。

1920年(民国9年)5月、かねてより撤兵を訴えていた呉佩孚は、遂に無断で湖南より撤退して保定に帰ってしまった。そして7月には徐樹錚の罪を鳴らし、直隷平野に兵を進めた。段祺瑞も辺防軍(参戦軍)をもって定国軍を組織し、自ら総司令、徐樹錚を総参謀長に任命し、保定に布陣した。辺防軍というのは元々参戦軍といい、坂西利八郎が、軍閥に左右されない国軍の中核にしようと育てていた。坂西も青木も辺防軍の使用に反対であったが、辺防軍を権力基盤とする安徽派が聞き入れるはずも無かった。

かつて徐樹錚の招きで入関した張作霖は、このときすでに徐とは決裂しており、安徽派と同じく日本を後ろ盾に持っていたにも関わらず、直隷派についた。また段譜代の靳雲鵬も、徐との不仲から離反した。しかしそれでも安徽派有利が大勢の見方であった。張の顧問をしていた町野武馬ですらも安徽派の勝利を予想していた。

7月14日に始まった勝負は、わずか数日で決着がついた。兵力に勝る安徽派が惨敗し、段は下野、徐は日本へ亡命した。これは前述のように安徽派に信頼できる手兵が無かったことや、トラブルメーカー徐樹錚によって、安徽派内部が分裂したことも原因に挙げられるが、一番の要因は五・四運動以降の排日機運であろう。直隷派はナショナリストのポーズをとり、安徽派を親日集団として攻撃した。しかし、実際安徽派は日本に対して再三援助を求めたが、日本は最後まで手を出さなかった。いや出す暇が無かったのか?

直隷派の総帥馮国璋は前年の12月に病死していたため、北京の権力は新総帥曹錕とその配下の実力者呉佩孚、そして張作霖が握った。しかし直隷派と奉天派は元来水と油であった。



波多野善大『中国近代軍閥の研究』
戸部良一『日本陸軍と中国』
西原亀三『夢の七十余年』


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大隈内閣が倒れ、朝鮮総督寺内正毅が組閣の大命を受けた。寺内は現状維持派の最右翼で、袁世凱在世時にはこれを支持して、排袁派の田中義一らを梃子摺らせた人物であった。この、大隈内閣の打倒と寺内担ぎ出しに一役買ったのが、後藤新平と西原亀三郎であった。西原はさらに寺内に進言して、朝鮮銀行総裁勝田主計を蔵相に据えた。彼は以前にも、勝田を鮮銀総裁にするよう、寺内に献策している。

西原はかつて、対露同志会の神鞭知常のスタッフを務めていたことがあり、彼の王道主義に深く傾倒していた。西原の持論は、徹底的に中国に親切を尽くし、中国民をして日本を信頼させるとともに、中国の内政、産業を改革し、日中が一体化した経済自給圏をうちたてるというものであった。彼のこの構想の下に行われたのが、西原借款であった。

西原の持ちかけた借款の条件は、従来のそれとは比較にならない有利なものであったため、段祺瑞政府は随喜した。この交渉で日本側の窓口となったのが西原と坂西利八郎であり、中国側の窓口が、新交通系と称される曹汝霖、陸宗與らであった。ひとり西原は完全な私人であった。

西原はこれを梃子に、中国を連合国に加盟させようと策動を開始した。しかし当時北京では、連合国加盟賛成の段祺瑞政府及びそれに同調する梁啓超ら研究系と、反対の大総統黎元洪との間で激しい争いがあった(府院の争い)。民国6年3月4日、何とか対独国交断絶までもってきたが、5月23日、遂に黎元洪は段祺瑞を罷免した。

ここで、調停を名目に北京に進出してきたのが張勲である。彼は北京に入ると議会を解散し、変法派の康有為を上海から呼び寄せ、宣統帝を担ぎ出し、7月1日清朝復辟を宣言した。驚いた黎元洪は、先頃までの喧嘩相手だった段祺瑞に国務総理復帰を命じると、自らは日本大使館に逃げ込んだ。得たりかしこと討逆軍を編成した段は、あっさりと張勲の復辟を粉砕し、北京に返り咲いた。張勲はオランダ公使館に逃げ込み、黎元洪は責任をとって大総統を辞職、段のライバル馮国璋が後を継いだ。

8月14日、中華民国は対独宣戦布告を行った。これを受けて南方派は、広州に於いて非常会議を招集し、中華民国軍政府を組織。9月1日、孫文を大元帥に、唐継尭、陸栄廷を元帥に選出した。しかし唐、陸の二人は孫文の要請を受けても、元帥に就任しなかった。彼らは一応段政府(安徽派)には反対の立場で、独立を唱えてはいたが、孫文の軍政府に協力する気はさらさら無かった。とくに陸栄廷の場合は、馮国璋ら直隷派と気脈を通じており、極力軍政府の活動を妨害した。民国7年5月20日、軍政府が合議制に改組されると、孫文は陳烱明に後事を託して、上海に落ち延びていった。
このころ東三省のトップは督理東三省軍務兼奉天巡按使の段芝貴であったが、実力で彼を凌いでいたのが、緑林上がりの盛武将軍張作霖であった。彼は日露戦争のとき、露探として日本軍に捕まりながら、井戸川辰三、田中義一の尽力で命を助けられたという経験の持ち主であったが、だからといって日本に融和的であったわけではない。むしろ日本に近い段に比して張は、二十一か条の要求に強く反対するなど、強硬な姿勢をとっていた。外にも清朝復辟を目指す宗社党や、蒙古独立を目指すパブチャップもおり、長城以北は混沌としていた。

民間において宗社党やパプチャップの活動を支持していたのが浪人川島浪速や外務政務次官柴四朗、予備役海軍中将上泉徳弥らであった。川島は北清事変のとき、北京を戦火から守り、粛親王から格別の信頼を得た。粛親王は彼に娘を養女として与えた。そのうちの一人が川島芳子である。彼はそれ以来清朝のために尽くしてきた。柴は東海散士の筆名を持つベストセラー作家でもあり、名うての対外強硬論者であった。北清事変で活躍した柴五郎は、直ぐ下の弟にあたる。上泉は日露戦争前に料亭湖月において山座円次郎や田中義一、秋山真之らとともに開戦論をぶった、秋山とともに海軍にしてはちょっと珍しいタイプの軍人であった。

参謀本部第二部長福田雅太郎も、宗社党を支援して、満蒙に一騒動起こす計画に積極的であった。彼は、満洲情勢の調査という名目で小磯国昭少佐を派遣した。小磯は葛山彰と名前を変え、川島や彼と気脈を通ずる大連市長石本貫太郎と面談するなど働いた。関東都督中村覚もまた、宗社党に好意的であった。資金は大倉喜八郎から出た。

ところが袁世凱の死で状況は一変する。後ろ盾を失った段芝貴は追い落とされ、張作霖が名実ともに東三省の最高権力者となった。そうなると日本にも、弱い宗社党やパプチャップよりも、この張作霖を担いだ方が得策ではないかと考える人々が台頭してきた。このころ張の顧問をしていたのは菊池武夫であった。梯子は外されつつあった。そんな中、1916(民国5)年5月27日、ついに宗社党支援の日本人浪人団が暴発した。

この一団は、パプチャップ軍の進撃開始に先立ち、張作霖を除こうと考え、張が関東都督を奉天の駅頭に出迎えた帰り道を要撃する計画を立てた。そして団員斎藤某が、体に爆薬を巻きつけ、張が乗っていると思しき馬車に体当たりした。しかし、張はその一つ後ろの馬車に乗っていた。暗殺失敗を知った隊長三村豊予備役少尉は、再び張を狙って爆弾を投げたが、これは電線に引っかかって、三村自身の命を奪った。彼は陸士15期であったが、少尉の時に陸軍を飛び出し大陸に渡っていた。この襲撃で三村とともに、もう一手の隊長を務めていたのが、伊達順之助であった。彼は、伊達政宗の庶子秀宗を藩祖とする宇和島の藩主で、幕末に四賢侯と呼ばれた宗城の息子宗敦の六男であった。世が世なら金枝玉葉の身であるが、若いころから度外れた人物で、満蒙決死団を結成すると、その団長としてこの満蒙挙義に参加していた。壇一雄の『夕日と拳銃』のモデルである。

6月28日、この問題に深入りしていた福田雅太郎が、欧州視察を命じられ、東京を離れた。参謀次長田中義一も、挙義の中止を決定した。激怒した上泉が田中を怒鳴りつけたが、もはやどうにもならなかった。そんな中パプチャップ軍が進撃を開始した。

パプチャップは青年時代、凶悪な馬賊の跳梁に憤激し、自ら緑林に身を投じて正義の一団の育成を図り、やがて蒙古一帯に鳴り響く馬賊となった。日露戦争においては、ロシア軍の後方を攪乱した永沼挺進隊(隊長永沼秀文中佐)に随行した馬賊の参謀長格となり、それ以来非常な親日家であった。彼はその後蒙古独立運動に身を投じ、常勝将軍とまでうたわれた。黄龍旗を先頭に押し立てて進撃するパプチャップ軍には、日本からも陸士26期の西岡元三郎予備役少尉らが加わっていた。パ軍は、張麾下の猛将呉俊陞をも破り、郭家屯を占領した。焦った張は菊池を使って関東軍を動かした。関東軍は両者の間に割って入り、菊池は日本の武力を背景に、パプチャップに撤退を勧告した。パプチャップは、奉天を指呼に望みながら、泣く泣く勧告を受け入れ、撤退を開始した。パ軍は、休戦協定を破って攻撃を仕掛けてくる張軍を撃退しながら、内蒙の入り口林西まで到達した。しかし林西城を攻撃したときに、いつもの如く先頭を切るパプチャップが、機関銃の弾丸を受けてあっけなく戦死してしまう。パプチャップを失った蒙古軍は、それでも翌年ハイラルを攻撃し、独立を宣言したが、中露軍の攻撃を受けて崩壊した。

こうして第二次満蒙独立運動は潰えた。命令によって満洲に派遣されていた小磯は、要注意人物のレッテルを貼られた。パプチャップの遺児カンジュルジャップは、後に川島芳子と結婚した。しかし二人は離婚し、芳子は東洋のマタハリと呼ばれ、戦後漢奸として処刑され、興安軍の重鎮となったカンジュルジャップは昭和20年8月ソ連軍と戦い戦死したソ連に投降後、シベリア抑留を経て中国に引渡され、溥儀ら満洲国戦犯が収容された撫順戦犯管理所に入れられ、最後は釈放された。ちなみに、後年察東事変、綏遠事変で日本と行動をともにした李守信は、張作霖軍に属してパプチャップ軍と戦い、西岡少尉の率いる砲兵隊の威力にいたく感心して日本びいきになったそうだ。



参考
波多野勝『満蒙独立運動』
相良俊輔『赤い夕陽の満州野が原に』
芦沢紀之『二・二六事件の原点』
伊達宗義『灼熱』
松井忠雄『内蒙三国志』
小磯国昭『葛山鴻爪』
島貫重節『あヽ永沼挺進隊』
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