近衛読書中隊

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伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社

昭和19年春、参本編制動員課長だった美山は、”高級”参謀次長の後宮淳に呼ばれて、対戦車戦法に関する研究を命じられた。研究結果は対戦車戦法研究会で美山が発表することになっていた。彼は研究会の前日に、自らの案を予め後宮に説明した。後宮も彼の研究成果に同意を与えた。翌日の研究会で美山は1時間にわたり丁寧に自分の研究を発表した。後宮が「諸官の意見はどうか」と一同に尋ねたところ、軍事課長の西浦進が静かに次のようなことを言った。

「こんないろいろな兵器を使いこなすのは、複雑すぎて実際上はなかなか困難なのではないか」

西浦は見かけどおりのシャープな頭脳を持ったThe官僚といった人物だが、器は存外こまい。回想録でも人事局に対する恨みばかり書いてる(勿論それが全然不当な批判というわけでは無いが)。ところでこの西浦の発言を受け、後宮が豹変した。昨日美山に内諾を与えたばかりなのに。

「然り。全然同意。本案は対戦車戦法としてはまったく不徹底で問題にならん。そんな簡単な方法で戦車がやれると思うか。ここはもはや兵が対戦車地雷を抱いて敵の真っ只中に飛び込む『肉攻』のみで行く他ない。即ち…」と言いながら、やおら席を立ち、白墨を握った手を勢いよく振り上げて、黒板に自ら「肉弾特攻」作戦図を描きだそうとした。

これを聞いた美山は憤怒し、

「そんな簡単なことで勝てるなら、この戦争はとっくに勝っている!」

と怒鳴った。美山は大佐、後宮は大将である。しかし一座は美山の気迫に押されて粛然としている。作戦課長服部卓四郎がとりなし、その場は散会となったが、美山は南方総軍への出張を命じられた。そして彼がマニラ、緬甸と巡って、自らの戦法の説明をしているところへ、彼を南方総軍高級参謀へ補するという電報が飛んできた。この人事について南方軍総参謀長だった飯村穣は、『現代の防衛と政略』で次のように書いている。

 さて私は、この時代に南方軍の作戦地域を視察中の整備課長美山要蔵大佐が、視察を終ってマニラに帰って来たのをつかまえて、南方軍の作戦課長に任命して頂いた。美山大佐は、私が陸大の幹事、校長当時の学生で、これはと思って目をつけていた学生であった。そこで私は、私の関東軍参謀長になった時もこうだったといって、美山を内地に帰らせずに、そのままマニラに引きとめた。当時南方軍の作戦課長であり、陸大での私の学生であり、総力戦研究所長当時の部下の教官であり、南方軍総参謀長として赴任する時も同時に作戦課長に任命されて同行し、特に親しみの深かった堀場一雄大佐が航空関係の参謀副長坂口中将と犬猿の仲となり、どうにも始末がつかなくなったので、ケンカ両成敗にするわけにも行かず、まず下級者の堀場を支那総軍か航空軍かの参謀に転任させたのである(その後坂口中将は病を理由にして内地に帰り、予備役になった)。そこで私は、美山を堀場のアト釜に据えたのである。

文中の坂口というのは阪口芳太郎中将のこと。堀場、服部、西浦で俗に34期三羽烏といった。これは半分は真実、半分は飯村一流の優しさだろう。美山は当然、先の研究会で後宮を怒鳴りつけたことに対する報復人事と見た。

さて美山は人物評をよくした。当然後宮についても書いている。

「非常に威張る単純な男。東條大将は同期生の相談役が居らんので、是非、後宮を大将にしたかった。しかし、後宮は支那総軍〔派遣軍]の参謀総長としても大変評判が悪い。元来、総参謀長ともあるものが外地で女を抱くなどといふ事はけしからん事である。そこの将校と感情の疎隔を来す。後宮は特に行儀が悪かった。評判は悪化する許りで、そこで東條は早く内地に連れ帰らんと大将になれんと思い、富永を南京に派遣し、中部軍司令官に栄転方を伝えた。評判を落とした奴を大将に拾い上げるが如きは、人事の混濁を来すこと甚しい」

またシベリア抑留時代についても、帰還者からの情報を元に次のように書いている。

「ハバロフスクに収容された時、皆軍歴や日本軍の実情を調べられたが、誰もあまり言わず、言わないと営倉や刑務所に入れられたり、減食で責められたりしたようである。秦〔彦三郎・関東軍〕総参謀長、草地〔貞吾〕関東軍参謀、牧〔達夫〕第四軍参謀、木下〔秀明・機動第一〕旅団長等は、よく節を枉げずに沈黙を通したようである。然るに後宮大将は進んで先方から問題を貰って来て、同囚の部下に聞いたり書いて貰ったりして居ったようである。東條人事の罪は軽くない」

ついでに東條の女房役富永恭次の人物評も載せておく。

「悍馬である。駐独中、対ソ謀略をやって有名な人物である。〔東條は〕之を次官に抜擢して各局長を押さへさせ、富永は威圧した。レイテ決戦前、比島方面の航空決戦の主戦力なる第四航空軍の司令官を買って出た。これは無理である。死地に臨む特攻隊を統率する指揮官としては力量不足である」



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伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社

南進か北進かの問題において、美山は南進論を取った。彼は①できれば日ソ中立条約は破りたくない②ソ連の極東方面の兵備は以前固く、ノモンハンの二の舞になる③兵站線が延びすぎる④油が無いという内容の意見書を出した。そのとき彼は関東軍参謀であった。

美山は、民間人ながら熱心に南進論を唱えた人物を挙げている。一人は浄土真宗本願寺派の大谷光瑞。彼はたびたび大本営に現れて南進論を説いた。そのたびに参謀総長宮以下参謀は食堂に集まって、彼が世界地図を指しながら熱弁をふるうのを聞かされた。美山は大谷のことを「風変わりな坊主」と書いている。

もう一人は企画院の迫水久常。彼もまた非常な馬力で南進論を唱え、三日にあげず大本営を訪れては、壁に用意した図表を掛け、

「軍の作戦が有効に進展し、南方から内地への物資輸入が確保される限り、たとえ世界大戦に至っても、経済財政上の心配は要らない」

と豪語していたという。そんな彼が戦後は口をぬぐって平和主義者面しているのが、直情な美山には気に食わない。

「吾人が最も不可解とする点は、彼迫水が終戦内閣の書記官長であったとは言いながら、今になって戦争反対であったかの如き口吻を弄し、岳父岡田啓介を始め海軍首脳と結託して、戦争犯罪を陸軍にのみ押し付け、自らは反戦終戦処理の第一人者の如き顔ををなし居る点であって、頗る摩訶不思議と申さざるを得ない」

と書いている。

伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社

北支那方面軍が編成され、寺内寿一が軍司令官に親補された。寺内に下された勅語を起案したのは美山であった。

「朕卿ニ委スルニ 北支那方面軍ノ統率ヲ以テス 卿宜シク宇内ノ大勢ニ稽ヘ 速ニ 敵軍ヲ平定シ 威武ヲ四表ニ発揚シ 以テ朕カ望ニ副ヘヨ」


参謀総長の裁可を貰ってこれを侍従武官府に持って行ったところ、騎兵大佐の侍従武官は、

「この『敵軍』の二字は面白くない。今度の北支方面は不拡大方針であって作戦目標も限定され、さように作戦任務も出されているのだから」

といって突き返してきた。しかし美山も参謀総長の裁可まで貰っているのでおいそれとは引き下がれない。この先輩に対して

「およそ軍隊を動員して外地にご派遣になる以上、敵軍なくしてご派兵ということはあり得ない。『敵軍』を削除するということはどうも納得しない」

と押し返した。美山の気迫に押された侍従武官は、黙って退出し、ほどなく御裁可を貰ってた。

参本に帰って上司の武藤章に報告すると、武藤は

「美山もたまにはそんなことができるか」

と冷やかしながら褒めた。寺内も出征前の祝宴で、

「今度は作戦命令では抑えられているが、勅語ではすっきりしている。自分は勅語によって方面軍を統率する」

と語った。美山はそれを聞いて密かに面目を施したが、後世の知識で以て判断した場合、侍従武官の考えも一つの見識であったと言えるだろう。一方美山の態度を伊藤氏は、

事務の前例踏襲と手続きの一事不再議という自分の狭い判断とプライドにこだわっていたと言わざるを得ない。
まだ仕事を覚えるのに必死で、複眼的に見渡す余裕などなかったのであろう。一人ひとりの軍官僚によるこうした小さな「踏み外し」の集積が、日本軍全体の大きな錯誤へ行き着いたとも言えるのである。

と書いている。

この騎兵の侍従武官は、陸大教官として令名があった四手井綱正だろう。彼は昭和20年8月18日、台湾の飛行場でスバス・チャンドラ・ボース自由インド国家主席とともに事故死した。

伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社

美山に関しては既に『廃墟の昭和から』という、彼の日記を元にした本があるが、本書はもっと正当な評伝で、特に戦後の靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑の問題について詳しく扱っている(この辺は『廃墟の昭和から』の編者の甲斐氏はぼやかしていた)。2005年のNHKスペシャル『靖国神社~占領下の知られざる攻防』で、美山がA級戦犯合祀の責任者として描かれたことが、いかに誤りであるかも、きちんと描かれており、ご家族の方も満足だろう。ここでは私が気になった箇所を摘要して、感想を書いていく。

美山は陸士35期の騎兵であった。西田税は同じ兵科の一期先輩で、仲が良かった。西田は美山を仲間にしたかった。美山は迷ったが、結局軍人として生きる道をとった。西田はそんな美山に「十年の戀(こい)が一日にして醒めた」と吐き捨てた。昭和32年、美山は彼のことを想い、『十年の戀一日に醒む』という文章を書いている。その中で北、西田の判決文を筆写しているが、走り書きの文章は、「被告人西田税」と書き付けてから一変しているという。伊藤氏によればそれは極細のペンで原稿用紙40ページ、一万三千文字。一画一画をおろそかにしない気迫のこもった文字で、一字の書き損じも、訂正もない。ほかの日記やノートにも見られない異様な集中力で書かれた文章は、非業の死を遂げた鎮魂の写経であろうと。もとよりそのような注記があるわけではないが、見るものにそう確信させずにはおかない迫力があるという。

美山が参謀本部の編成動員課に勤務しているときに北支事変が起きた。ある日、不拡大論の作戦部長石原莞爾を戦線拡大派のロシア課長と支那課長が囲んで突き上げていると、不拡大派の動員班長が議論に加わり、石原に加勢し始めた。

そこへ作戦編制課長の武藤章が割って入り、部下である動員班長に対し、「お前なんかそんなことを言う資格はない。あっちへ行け」と耳を引っ張って追い立てたという。


ロシア課長は笠原幸雄、支那課長は永津佐比重だろう。不拡大派の動員班長というのは二見秋三郎。後に第17軍参謀長としてガダルカナルの戦いに臨んだが、そのときに消極的な報告をしたことから、更迭され予備役に入れられてしまった。この辺の経緯は、亀井宏氏の大著『ガダルカナル戦記』に詳しいが、亀井氏は、二見は、取材であった軍人の中で最も鮮烈な印象を受けた一人であったと書いている。

『二見参謀長の意見は、非常にむつかしいということのようだが』という報告だけはした。しかし、当時はね、後期と違って、東京ではそういう考えは微塵も持たなかったですからね。とにかく、何がなんでも奪ると、そういうことが重なってね。それじゃ二見参謀長じゃこりゃ弱くて、ガ島奪れんかもしれん、ということになったんですね。それを、ただ更迭するだけならまだしも、そんな弱い奴は陸軍にゃ要らん、ということになっちゃって、予備役にしちゃったんですね。いやあなた笑うことはない、僕はこれにゃ本当に吃驚してね。僕の報告が悪かったのかと思って、いろいろ聞いてみたんだが、そうじゃないんだ、前からいろいろ経緯があるんだということでね

『ガダルカナル戦記』より、語り手は井本熊男。陸軍も後々悪いと思ったのだろう、後に召集して、終戦間際には少将のまま師団長(心得)にした。少将の師団長は二見を含めて三人だが、あとの二人、久米精一、片倉衷は正真正銘の少将。二見は更迭されなければ中将であった。


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