近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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第三帝国の中枢にて-総統付き陸軍副官の日記
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陸軍総司令官の後任の件。破局の余波はまだ残っている。総統はシュムントとわたしを相手に、陸軍総司令官と完全に決別すると決めたことについて長時間話をされた。いわく、余に必要なのは楽観主義者であって悲観主義者ではない。余はあの上級大将に何も言うつもりはないが、政治的な臆病者を使うことはできない。最善の策はベンドラー街から参謀本部の人間をたたき出し、代わりに若手を登用することだ。将軍には政治が分からぬと言ったのはフリードリッヒ大王だが、将軍は戦争の指揮に恐れをなすことを見抜いたのは余が初めてだ。後任さえいてくれればいいのだが。ライヘナウはだめだ。あの男は当てにならない。国家社会主義者でなくてもかまわないが、余の政治目標に忠実で、それに盲目的に従う人間でなければだめだ。ショーベルトは確かに非常に情熱的だが、物の見方に未熟なところがある。グデーリアンも諸々の理由から問題外だ。彼は将軍たちの中に敵が多い、と。シュムントはライヘナウを支持したが、総統を納得させることはできなかった。



それから、軍の高級指揮官の責任感、告白する勇気、政治的な先見の明について話された。いわく、この話題では、軍人に関する芳しい話はあまりない。政治信条、さらに世界観上の信念は、将校には分からない。なぜなら、それは祖国とか「神とともに皇帝と帝国のために」とかいったもの以上のものだからだ。軍の指揮官らはこれまで余に間違った忠告ばかりしてきた。彼らの政治的直感のなさはひどい。ライヘナウのような新しい考えの持ち主でさえそうなのだ。ほとんどの場合、彼らは瞬間的な印象に負けてしまう。ライヘナウが日本の代わりに中国と同盟を結んではどうかと言うのを間いたときには、ぞっとした。だから余は当時、ライヘナウを総司令官に起用する案を支持しなかったのだ。彼の資質や国家社会主義に対する姿勢は評価するものの、余が彼を完全に信用してはいないこととはまったく別の話だ。ライヘナウは非常に活動的だから、政治面で勝手な行動を取ることも可能だと考えている。だから彼は、信頼できる忠実な部下とはとても言えないのだ。ハンマーシュタインは、余の敵ではあるが、政治的な問題を冷静に考えることができる男だ。危険人物だったので追い出さざるを得なかったが、どう控え目に見てもあの男は、余の人間性と世界観を憎悪する主義を貫いていた。余には、ハンマーシュタインが自分の考えを死ぬまで守り通し、第三帝国に露骨に反抗し続けるだろうということも分かっている、と。



総統と総司令官との信頼関係はもはや修復不可能だ。作戦会議はいつも気まずい雰囲気になる。総司令官は総続からの非難や攻撃に耐えられない。夕方、マウアーヴァルトで、総司令官は、もうだめだ、心身ともにもたないとわたしにこぼし、ついに休暇を申請することにしたと言った。そして、総統が後任をお選びになるのなら、フォン・クルーゲかフォン・マンシュタインを推す、ケッセルリングは絶対にだめだ、あれは帝国元帥の手先に過ぎないと言った。夜、シュムントにすべて報告した。彼は明日総統と話をするつもりだと言う。



最近はいつもそうだが、今夕の作戦会議も冷え切っていた。会議の後、シュムントとわたしは総統にいくつか報告を行った。今のところ、総統はカイテルとヨードルの解任を心に決めておられるらしい。シュムントが、後任はお考えですかと尋ねると、総統はケッセルリングとパウルスの名前を挙げられた。いわく、タイミングをどうするか、それだけを決めかねている。カイテルはほかのことではよく働いてくれるのだが、どうやらヨードルの影響を受けているし、もともとたいして自分の考え方を持っているわけではない。ただその前に、まず参謀総長を切ることになる。彼とはもう絶対にやっていけない。



総統が、相手をはずかしめるような状況で参謀総長を解任なさった。ほんの少し前、シュムントから初めてそれを聞いたわたしは、シュムントの指示で参謀総長の様子を見に行った。ハルダーは本当に驚き、わたしが来たことに対して涙ながらに礼を言った。そして、「もしきみがわたしの経験したような目に遭ったとしたら、こうしてきみが来てくれて、わたしがどう感じているか、きっときみにも分かるだろう」と言った。我々は、ハルダーに向かって僚友らしからぬ下劣な態度を取ったカイテルに対して激しい怒りを感じている。



総統とヨードルが激しく言い争った。ヨードルは、妨害工作を行った部隊に対する「特別措置」に強く抵抗し、「ブランデンブルク部隊」やSDの隊員に何か起きるかを考えてほしいと訴えた。一方の総統は、威嚇の効果に大いに期待しておられる。カイテルは、いつものようにヨードルを裏切っては総統の意見に賛同した。情けない男だ。彼はコマンド命令の草案を持参し、署名を求めた。我々はこの命令のことを大いに憂慮しており、ヨードルから、この命令を人民委員命令と同じように扱うように、総司令官や参謀総長に働きかけてほしいと頼まれた。最後に総統は、威嚇的措置に踏み切ろうとしない部隊の生ぬるさを厳しく非難された。いわく、余にはよく分かっている。陸軍の連中は、人民委員命令のときのように、受け取った命令にまったく従わなかったか、しぶしぶ従っただけだ。その責任は、兵士をできるだけ聖職者のようにしたいと考えている総司令部にある。SSがなかったら、今ごろは何も実行されずに終わっていただろう!ヨードルは、戦争中でも国際協定は守るべきだ、それが自軍の部隊のためにもなると反論した。

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ハリマンもリッジウェイも後に気がつくことになる。マッカーサーは問題の是非を目先の目的にかなっているかどうか次第でどちらの側からでも熱弁を振るえる、ということだ。

河野司氏の「二・二六事件秘話」が復刻された。末松さんのブログで知ったわけだが、ここに告知しておく。

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阪谷芳直・鈴木正編『中江丑吉の人間像 兆民を継ぐもの』風媒社

何処で読んだか忘れたが、中江兆民は息子が車引きになってもいいように丑吉という名前をつけたと記憶している。しかし姉は千美といい、弟の娘には猿吉(えんきち)と名付けているところから、ただの珍名マニアだった可能性もある。千美は学校の成績が良かったが、終業式で「右総代中江チビ」と呼ばれるのが嫌でたまらなかった。中江家ではネグロという黒猫を飼っていた。朝になると皆が自分の掛け布団の裾を少しあけて、ネグロを呼び、誰の所へ来るかは猫に任せて、人の所へ行っても文句は言わないという規則があった。しかしネグロは丑吉の寝床へは絶対やってこなかった。丑吉に体中をしつこくいじくりまわされるのが嫌だったからだ。丑吉は時々癪にさわり、規則を破ってネグロを捕まえて自分の床へ持ってくるのだった。父はいけないと言い、姉は怒り、母だけが丑吉を弁護した。千美が丑吉を幼稚園に連れて行った時、団子が皿で出た。丑吉はふだんあまり甘いものが好きでないのに、この時の団子はペロリと平らげたうえ、人前で皿をペロペロなめた。「あれは私を困らせようとしたのです」後年千美は振り返っている。千美は吉田虎治と結婚した。これは吉田茂の兄であった。ずっと後年、丑吉は日記に

何年か前の昔、異邦でなくなった或老革命家から「よくそんな古い事に興味が持てますね」と心から不思議がられた事があった。これも同じく昔の事、一外交官から三千年も四千年も昔の事が当代に何の益ありやと一括されたのを奇体に今だに彼の言葉通り覚えて居る。

と書いたが、老革命家というのは片山潜であり、外交官は義兄の吉田茂のことである。

七高から東大法科を卒業し、有賀長雄博士の渡華に随行。お金は西園寺公望や曹汝霖から出た。西園寺は父の同志であり、曹汝霖は日本留学中、丑吉の母に世話になっていた。老公から研究資金を渡された時、「自分はこれを学問のために使うつもりであるが、或いは社会運動に使うかもしれないがかまわないでしょうか」というようなことを訪ねた。老公は「それはかまわない。が、後の場合は、自分から出た金だということはいわないように」と言ったという。また資本論について話をしていて「いまフランス語版を読んでいるが、どうも訳がよくないせいか難解である」とも洩らしたそうだ。

五四運動で交通総長だった曹汝霖の公館が群衆に襲撃されたとき、丑吉は身を挺して曹と重傷を負った章宗祥を助け出した。支那事変が始まると、日本軍は曹を担ぎ出そうとした。曹は丑吉を訪ねて「喜多さんは誠意のある人だ、中国人に理解があるが、どうも現地の特務機関連中がよくない、これが中国人を泣かせている」といった。それに対し丑吉は「喜多はよくともつまりは悪いのだ。喜多がホントによいならば、悪い特務機関長を処罰し、よいほうに統制すべきではないか、軍の中枢にいてその処罰も統制できないのだから結局悪い奴なんだ」と応え、「あなたは政治家としての晩節を全うするために、この際如何なる勧誘があっても絶対に政治向きのことに顔を出されてはならない」と強く言った。昭和17年8月30日北京の旧宅で行われた丑吉の告別式で、曹は勇敢にもこの言葉を紹介し、涙を流して彼の先見と友情を称えた。梨本祐平はこのことと、自分が王蔭泰(漢奸として死刑)を引き出した事を比較し、自らの不明を恥じている。

丑吉の告別式には当時山西にいた今田新太郎も激越な弔文を寄越したという。二人の親同士が親しかった関係から、今田は若い頃から丑吉に私淑していた。丑吉は人に、「今田が自分に心服しついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見をもっているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである」と語っている。支那事変初期の今田に宛てた手紙で、「今度の事変は蒋介石を明の太祖たらしめるものだ」というものがあるそうだ。現物は残っていないが、今田はこれを石原らに回覧したそうだ。今田が北支那方面軍参謀長に擬せられたとき、関係者が内々に丑吉を訪れると、訪問者に口を開かせる前に、「今田(チンデン)を参謀長にするというんだろう。あれを妙な政治に引出てくれるな。あれは戦場で死なせてやってくれ」とズバリ言った。丑吉が病の床についたとき、看護者に今田から「そんなマヅイ食物ばかり差し上げないで、鯛のお茶漬けとか鰺の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」という手紙が来た。それを聞いた丑吉は、「オツリキで栄養のないものを食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦にシュメルツは必然だ。自分はシュメルツに耐えて戦争するつもり也、と返事に書いてくれ」と言った。

今田の紹介で柔道家の牛島辰熊も丑吉を訪ね、強い影響を受けた。あるとき牛島は北支那方面軍司令官だった多田駿を訪ねた。多田が何処に泊まっているのかと聞くので、昨日は丑吉の家に泊まったと応えた。それを聞いた多田は喜んで、「中江には僕も会って、事変解決の方途を聞きたいから連絡してくれ」と言った。牛島は喜び勇んでそのことを丑吉に告げたが、丑吉は「今更、破れごろもをまとった坊さんに何の用があろうか」と云って頑として聞き入れなかった。多田は二回丑吉を招聘しようとしたらしい。他にも近衛や軍の一部からも中江を招く声はあり、建国大学総長にという話もあったらしいが、いずれも歯牙にもかけていない。真珠湾攻撃の翌朝,牛島が雀躍して丑吉を訪ねると、「牛島さん、これで日本は開闢以来大変なことになりますぞ!」といって牛島をドキッとさせた。牛島は後に東條暗殺を企てるが、丑吉のこのときの言葉が自分を駆り立てたと述べている。

「世界史は『ヒューマニティー』の方向に沿ってのみ進展する。いいかえれば『ヒューマニティー』を担っているもののみが世界史の真のトレーガーたりうる。これが世界史進展の法則だ。いかに強勢を誇ろうとも、『ヒューマニティー』を持続発展せしめる方向をとらぬものは、結局潰えざるを得ない。現在の世界的対立をみると、『ヒューマニティー』を担っているのは、明らかにデモクラシイ国家側であって枢軸側ではない。だから、この世界戦争の究局の勝利は必ずデモクラシイ国家のものだ。……ナチス・ドイツは必ず倒れる。それも決して遠いことではない。そしてヒットラーは白日の下にバッタリ倒れる。……凡人の凡眼からはそう見えなくとも、達人の達眼からは明々白々たる事実だ。」

これが昭和16年8月15日の彼の見立てであった。また次のような事も言っていた。

「この軍部という奴が負けて、ふみにじられて、嫌というほどゴーカンされる図を、生きてみてやる」
「その時はわれわれ国民も全部ゴーカンされるんだ」

憲兵は彼を「北京の城壁にへばりついて聖戦を白眼視するすねもの」と見ていたが、一方安倍源基や増原恵吉、岩田愛之助といった人々も丑吉を訪ねていた。安倍は今、伊藤博文のような軍部を抑えられる政治家がいないというようなことを、丑吉相手に愚痴ったりもしていたらしい。

学問に於いては徹底した原典主義であり、若い友人にカントの講義をしていたとき、その人がハイデガーを持ち出すと酷く怒った。また「カントが律儀な老人らしく、あれほどていねいに書いてくれているのに、それだけでわかろうとしないのか」とも言った。

さて次に掲げるのは,丑吉から今田に宛てた手紙の一節である。

牛島君多情多血の壮漢なるも、小生の同君に期待する所は、一個侠勇伝中の人物として了るに止まらず、柔道求向の道者として其〔の〕大成を希ひ居候。めいご洞けんてき居士に対する御批評凡て同感、小恵小仁もとより不可に非ざるも、○国の大業はかかる美言美行丈けにては到達し得るものに非ず、クラウゼウヰツの所謂好聯隊長は必〔ず〕しも好司令官となり得るものに非ず。益々御自彊御大切を熱望候。

めいご洞けんてき居士というのは多田のペンネームである。丑吉は若い頃、支那研究会のようなものを主宰していたことがあり、そこには重光葵のような外交官だけではなく板垣征四郎、津田静枝といった陸海の軍人も名を連ねていた。また坂西公館の世話になっていたこともあり(尤も坂西利八郎のことは酷評しているが)、そういった関係から多田とも顔見知りであった。しかし丑吉は、北支那方面軍時代の多田を強く批判している。別の人物に対しても次のようなことを云っている。

「一の哲学だなんて、ホーシャンは下らないことをいう奴だ」
「ホーシャンって誰のことですか」
「多田和尚(ホーシャン)よ。軍人は妙な一の字の哲学なんぞ説かずに、軍人らしく軍事に専念すりゃいいんだ。」

確かにこの頃の多田は、風貌だけでなく行動も禅坊主のようになっていた。今田は元々多田と親しかったが、熱血漢だけにこのような多田の態度に飽き足らないものを感じ、不満を手紙に書いたのだろう。文中の「小恵小仁」「美言美行」というのは辻野朔次郎が亡くなったとき、多田が葬儀に参列し、(辻野の)息子の就職を保証するといい「これが最後の友情だ」といったことを指しているらしい。丑吉はこのことと、自分が病気になったときに、多田の後任の岡村寧次が、軍司令官は見舞いにはいけないからと、代理の人間(小山貞知)を寄越したことを比べて、岡村を褒めている。軍人は軍人の本分を尽くせということだろう。丑吉は勿論事変に批判的であった。その点を見れば多田も同じである。しかし多田は現役の北支の最高指揮官である。そのような人間が坊さんの真似事をして半分隠居のようになっているのが、許せなかったのだろう。事変に反対なら反対で、徹底的に全力を尽くせというのが、丑吉や今田の考えであったと思う。



秦郁彦『現代史の対決』文藝春秋

お盆の古本祭りで購入。1998年から2002年に主に『諸君』に掲載された文章を纏めたもの。この頃は、”自虐史観”に対する”自由主義史観”が台頭して来ていたが、まだ”自虐”側もそれなりに頑張っており、そして何より田母神や在特会といったモンスターが現出していなかった。そういう時代の空気を反映して、先生も随所に筆が滑っている(要するに足元を気にせず心置きなく自虐側をおちょくれた時代ということだ)。例えば件の女性国際戦犯法廷でインドの判事が欠席したことについて

東京裁判で唯一人、少数意見を書いた有名なパル判事の”亡霊”に叱られたせいかもしれない。

なんてのは全く書かずもがなだし、天皇訪英時の元イギリス人の要求について、”『戦場にかける橋』のアレックス・ギネスが聞いたら何というだろうか”などと言うのは全く意味不明だ。シドニー五輪に際しての

オーストラリア政府がなんとかアボリジニのご機嫌をとってオリンピックだけは無事に乗り切りたいという苦心の表れとみれば、あのバカバカしい開会式の大騒ぎも同情する気になりました。

と言う文章など、皮肉のつもりなんだろうけど皮肉になってない酷いものだ。所詮『諸君』への投稿なんだし、そんなに目くじらを立てなくてもという意見もあろうが、私は秦先生のためにこれを惜しむ。
田中克彦『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』岩波新書

引用したい箇所が多すぎて逆にこういう手抜きレビューになっているが、文句なしに面白く、非常に読み応えがあった。


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