
光市事件の影響で鵜沢総明の伝記を読んだが、これが瓢箪から駒。鵜沢博士といえば相沢三郎の弁護に立ち、東京裁判では弁護団長を務めた人。これだけを見たらちょっと皇道がかったお爺くらいに思えるが、どうしてどうして。その弁護士人生は中々味がある。
鵜沢は幼名を惣市をいったが、惣市が12歳のとき、父が無実の罪で入獄した。しかし惣市の父は、決して罪を認めず、過酷な未決囚の生活に耐え、3年半後に無実で出獄した。この辺りの話は、『寄生木』の小笠原善平の父親とそっくりであるが、当時はよくあった話なのだろうか。惣市は父の入獄のお陰で進学を諦め、高小を卒業すると母校の先生になった。しかしその才能を惜しんだ校長の斡旋で、太田和斎という人の塾に通えるようになった。
父が出獄すると、惣市は東京に遊学に出た。このとき弁護士になりたいと父に言ったら、父は「弁護士になるなら、無実の罪で監獄に入っている者の心で、法律を修めるがよい」と言って、許可してくれた。東京遊学1年で一高にパスすると、病気で1年延期するもこれを卒業し東京帝大独法に進んだ。このとき名前を総明に改めている。また一高在学中に植村正久に出会い、クリスチャンになっている。
卒業後、帝大の恩師レンホルム教授の法律事務所で働き始めるが、自分の保証人でもあり、父の弁護人でもあった長谷川深造(長谷川時雨の父)が東京市参事会員の涜職事件に関与したため、独立してこれの弁護に当たった。このときの弁護は「非公吏論」というもので、この弁論を聞いた星亨は「本当の弁護論だ」といって賞賛した。
その後も日比谷焼討ち事件、幸徳秋水の大逆事件、岩下清周事件、朝鮮総督暗殺未遂事件、京都ブタ箱事件、虎ノ門事件、北九州事件、松島遊廓事件、佐郷屋留雄事件、帝人事件、尾崎行雄の不敬事件など多くの事件で弁護人を務めた。
衆議院議員としては政友会に属し、原敬や西園寺公望の信頼厚かった。しかし、朝鮮に関する制令はすべて法律案によらず緊急勅令で律しようとする勅令三二四号には烈火のごとく怒った。原との対談ではこれを千古の悪法と断じ、六法全書を机に叩きつけて議論したため、六法の綴じが割れてばらばらになったという。新米の癖に党議に逆らうものは除名してしまえと院外団が殺気立ったが、朝鮮人の人権の根本に関する問題であるとして断固反対を貫いた。穂積陳重これを聞いて鵜沢に次のような手紙を出している。
貴兄は固く法律家の節操を守り 毅然として不動 ついに堂々たる大政党をして反省せしむるに至り 学者の面目を全うせられ候趣
小生はこれを聞いて欣然雀躍致候事にござ候
圧巻はなんといっても第四章・昭和陸軍の原型(プロトタイプ)ーバーデン・バーデンから一夕会までーです。二葉会、木曜会、一夕会のメンバー表や出欠、討論の内容にいたるまで、非常によくまとまっており、脚注も含めて読み応えがあります。入手も容易ですし、お奨めの一冊といえるでしょう。
著者は東京日日新聞の記者で、平野零児の後を襲って陸軍担当となった。立場的には青年将校に近く、特に二・二六事件の蹶起将校たちより一段上の山口一太郎や柴有時と親しかった。定番の本なのだろうが、恥ずかしながら私は今年に入ってから入手した。陸軍造兵廠長官植村東彦中将の逮捕というのが、二・二六事件後に逮捕された山口一太郎の告発に端を発したというのは、この本で知った。この事件は、先の防衛事務次官の件と同じく妻まで関与した汚職だったそうだ。
紹介するのが遅れましたが、なかなか良かったと思います。写真もふんだんに使われており、特にカンジュルジャップがえらく好男子なのには驚きました。またこのブログでは常連ですが、従来の川島芳子本ではさらっと触れられるだけの多田駿について、そこそこ紙幅を割いているのも、私的には高ポイントです。
右が著者のHPです。http://www.tblegs.com/terao/win/home.html
ちなみに私は掲示板の方にチラッと感想を書かせていただきました。
多田が北支方面軍司令官時代に、芳子暗殺指令を出したという話は、芳子からそれを聞いた笹川良一の回想などで知られた話ですが、指令を出したのが多田自身なのか、部下の参謀なのかは曖昧です。実際に指令を受けたという中野学校出の将校は、次のように書いています。
日下部一郎著『謀略太平洋戦争』弘文堂より
ある日、久村は、茂川中佐から、東城の無量大人胡同にある中佐の公館に来るようにいわれた。約束の時間に公館を訪れると、すでに先客があった。特殊情報の機関長である日高中佐であった。
(何かあるな)
久村はとっさに感じとった。果して、日高中佐と久村を前にした茂川中佐は、
「実は、参謀長閣下から内命があった」
と単刀直入に切り出した。
「川島芳子を始末せよ、とのことだ」
思いもかけぬ内命だった。日高中佐と久村は思わず顔を見合わせた。
命令を受けた久村は、川島邸への威嚇射撃を行い、何とか芳子が自発的に北京から離れるよう仕向けたが、そこは芳子もさるもので、全く気にした様子がない。そこで久村は思い切って北京飯店に自ら赴き、単刀直入に談判に及んだ。「君たちも聞いてはおるだろうが、最近の川島芳子の乱行ぶりは目に余るものがあるのだ。軍司令官閣下の名を濫用して中国商人から多額の金品を詐取したり、満州国皇帝を侮辱するかと思えば、汪新政府をみだりに批判したり、傍若無人の振舞はつのるばかりである。このまま放置して、軍司令官閣下に迷惑のかかるような事態でも起これば、取り返しはつかぬ。今のうちに始末するようにとの参謀長からの内命なのだ」久村は内命の実行者たること、日高中佐はこれを側面から援助することを、茂川中佐は強い調子で言い渡した。
「きょう伺ったのは、陸軍将校としてではなく、あなたと面識のある者として、個人的な立場で、あなたに重大なお願いをしようと思ったからです。この私の願いは、是非、ききとどけてほしい。押しつけがましいようだが、これはあなたの生命に関することなのですから……」
芳子の表情から媚が消え、その大きいつぶらな眼はいっそう大きく見聞かれて、久村の顔をじっとみつめた。
「川島さん、この北京を一時離れていただけませんか。急にこんなことをいい出して、不審がられることでしょうが、いや、聡明なあなたのことだから、理由はもうお察しになっているかもしれない。とにかく、この際、北京にとどまっておられることは、大変ご迷惑な結果を招くことになるのです。」
ここまで一息にいうと、久村も言葉を切って、相手の真剣な眼を見かえした。
重苦しい沈黙がつづいた。二人とも視線をそらそうとはしない。二つの視線は、まるで真剣勝負のように、空中でするどく切り結ばれた。緊張の数秒が長く感じられるような空気を突然破って
「よくわかりました」
川島芳子の唇がやっと聞かれた。
「あなたのおっしゃる意味は私にもよく解っています。だからこそ、私は意地でも北京を一歩も動くまいと考えていました。しかし、そんな意地を捨てて、あらためて進退を考えてみましょう」
ちなみに楳本捨三氏は山田乙三大将の伝記『将軍の四季』で彼女の振舞を次のように書いています。
楳本氏は芳子だけでなく、彼女をほったらかしていた多田にも批判的です。今日はちょうど彼女の誕生日であり、北京在住の朝野の名士が招かれて、そのパーティーに華やかなものであった。
集まってきた顔ぶれは、華北政務委員会情報局長管翼賢、北京に公用で来ていた満州国の軍事部大臣(終戦時前)刑士廉上将(大将)、満州建国当時の実業部総長(のちの経済部大臣)の張燕卿、三六九画報社長朱書紳、新聞、雑誌界の知名土、名優馬連良をはじめ、梨園の名優たち、北支方面軍司令部の参謀肩章を輝やかせた軍人たちの姿など。なぜ、こんなに知名士が集まるのだろう?とだれでも不思議に思うに違いない。しかし、その疑問は、すぐに解くことができた。玄関正面を入れば、ぱっと目につくところに、銀色まばゆく輝く大きな楯がれいれいしく飾りたてられてある。
祝誕生日 川島芳子ヘ 北支那方面軍司令官多田駿
と刻みこまれた大文字が、人々の目を剌したからである。
次の文は当時北支方面軍参謀長だった笠原幸雄中将から楳本氏へ宛てた手紙の一節です。芳子は口をひらくと、”お父さま”と多田駿を呼んだ。中国でいう乾らい、いわゆる義理の父という意味である。当時、日本軍の占領地で、その方面軍司令官といえば、神さま同然の権力者である。現代の若い娘が中年男を、パパ、パパと呼ぶ、男と女の関係、そんな仲でなかったと思うものはひとりもいなかった。
芳子は、いちばん長く多田駿を利用した。満州国が建国され、多田少将が満州国軍(そのころは軍政部)の最高顧問だった時代からであり、多田の名がいかに芳子に利したか、その時代から多くの中堅将校(のちの将官連)に聞かされたことである。
『このたびは、また川島芳子の御著書御恵贈を辱うし有り難う存じます。まだ読みませんが、川島芳子に関しては、極端なる長短両面あり、小生には苦き思い出があります。昭和十四年ごろ、小生、北支方面軍参謀長(司令官多田駿大将。当時、中将)時代、川島芳子北京に来りあり、多田閣下の芳子の名付親(?)たりし関係を利用し、その名を利用し種々策動−−また、芳子の策動に因して、方面軍司令部の有能の参謀をして、物資融通の過を犯さしめるに至り、小生、涙を呑んで、その参謀を停職に処分するに至り、それに関連して芳子に断乎、北支退去を命じた苦き思い出を思い出し、感慨無量なるものがあります。』
何となく話が見えてきますね。ちなみに芳子は獄中で多田について「沈静で品格も高尚」と供述しているそうです。
更に正月用に、『陸海軍人物史論』も落手。元は大正5年に出た本。鵜崎鷺城の本と似たような匂いがするが、何か面白いエピソードでも拾えれば。
それから、大岡昇平の『ながい旅』が角川文庫より再販されています。来年の映画にあわせたものでしょうが、未読の方はこの機会に是非お手にとってみてください。
さてこの本で唯一資料的に面白いのものは、真崎追い落としを画策したと称する某将軍の手記とやらの摘要である。長くなるが以下引用。
昭和八年夏の定期異動で私は独立混成第一四旅団長から大阪歩兵第七旅団長に転任を命じられ、部下の将兵を山海関に残し内地へ戻った。私は台湾軍参謀時代以後、渡辺大将の知遇を受け、胸襟をひらいて様々な教えを受けていたが、二・二六事件に関係し、お互いの運命を左右する結果になるとは想像もしていなかった。
昭和九年正月私は冬期休暇で牛込の自宅に帰省したが、そのとき、歩兵大尉香田清貞と栗原安秀の訪問を受けた。両人とも私の歩兵第一連隊長時代の部下で、当時香田は連隊旗手で常に私の側近にあり、栗原は、見習士官として士官学校から帰隊していた。栗原は士官として優秀であったが、士官学校卒業前、彼は稀にみる美男子で女性問題を起し卒業が危くなったことがある。幸いに士官学校生徒隊長が私の同期生であったので、私は栗原のために弁明し、彼を無事に卒業させることが出来た。その事件がなければ、栗原は恩賜の仲間にはいったかも知れない。この二人が六、七年の間に香田は大尉に、栗原は中尉として機関銃隊付に成長して突然私の前に姿を現わしたのであった。しかし彼等はその思想も著しく進歩し複雑特異の境地に立っているのを知って更に驚いた。彼等は世界の情勢をのべ、我国の政党や政府要人の不真面目で無気力なことを指摘し、日本の将来のため、彼等が満州駐屯前にクーデターを決行し、昭和維新招来の犠牲になる覚悟であることを熱心に説き、私に、その幹部の一人になることを要望したのである。しかしこれは一生の一大事で、秘中の秘であるから、返事を保留し、彼等が持ってきた『日本改造案原理大綱』を検討してみたが、これは明らかに暴力革命の一種であり、私には直ちに賛成は出来なかった。そして、私は、彼等と正反対の立場に立つ決心をした。それで二人の二度目の来訪の析、極力思いとどまるように説得しようとしたが、二人とも意志をかえなかった。要するに彼等の保持する思想は、荒木、真崎両将軍の強調する皇道主義を基調とし、それに北一輝の革命的思想や井上日召の宗教的思想が一体となったもので、一種の神がかりであった。
真崎将軍は教育総監の現職にあり、その実力は高く評価され、彼等の信望を集めていることがわかった。そこで、彼等の行動を阻止する策は、真崎将軍を教育総監の位置から後退させなければならないと考えた。私は渡辺将軍に相談した。丁度その年末に賀陽宮殿下が宇品運輪部視察の帰途、大阪の東久邇宮殿下御訪問のため立ち寄られた機会があり、私は賀陽宮殿下に香田、栗原の名前は出さなかったが青年将校の間に不穏な空気があることを言上し、閑院参謀総長宮殿下に私の具申を、おとりつぎ願ったのである。そのことがあってから約一週間後、私は突然賀陽宮殿下からの書簡を受けた。内容は、小田原に御避寒中の閑院宮殿下に面接、貴殿の意見を申し上げたが、殿下には、何分老齢故、約束は出来ないが努力しよう、と御返事になったということであった。私は感激したが、昭和十年春の陸軍異動で、退職させられてしまった。この退職と、私のしたこととの間に関係があったかどうか、その時はわからなかった。するとその年の七月になって真崎大将は勇退され、同年八月には永田軍務局長が相沢中佐に殺され、その軍事裁判が翌十一年二月二十五日に行われ、真崎大将が証人として法廷に立った。更に翌二十六日未明には、二・二六事件が勃発し、渡辺大将はその兇刃に倒れてしまった。私の蒔いた、打倒真崎の種は、妙なかたちで芽を出し、思わぬところで花が咲き、少しは自分がお役に立ったのだ、と私はそのとき思った。(中略)
気の弱い林陸軍大臣が、屈指の論客である、人一倍向う気の強い、荒木、真崎両将軍を向うヘまわしよくも堂々と渡り合い、最後まで強硬の態度をかえなかったのは、全く意外の感にうたれる。立野信之氏によれば、後援者として著名な顕官要人の名を列挙しているが、私は、同期生であり多年の盟友であった渡辺大将の力強いバックがあったからだと思っている。渡辺大将が私に、死を賭して陸軍のために最善の努力を傾けると明言された決意から、その裏を想像すると、閑院宮殿下が真崎大将の物々しい抗議に対し、静かに、それは軍の総意であるとして総監辞任を要望されたお言葉を吟味すると、私かかつて賀陽宮殿下を通じて参謀総長の宮殿下に意見を具申した内容と酷似していて、特に軍の総意という文句は、偶然かもしれないが、そのままそこで流用されていたので、私は心を打たれた。私の投じた一石は、必ずしも水泡に帰したのではないと感じられ、すくなからず責任を自覚した。これが想像でない理由は、私が宮様に言上したことは極秘の筈であったが、そのことがいつの間にか真崎教育総監の耳にはいり、教育総監部の某将軍は、真崎大将が激怒し『△△(この稿の筆者)はけしからん奴だ。若い宮殿下をそそのかして私を退職させようとした獅子身中の虫である。直ちにくびだ』と云ったそうである。次いで宇垣大将組閣の頃、最後まで孤軍奮闘された林弥三郎(※)中将から私は『君の退職の理由は聞いた。同情に堪えない』という話があった。私の真崎打倒の運動は数週の後には、関係者の間で知らない者がなくなったのである。しかし私は私の上司排撃の行為は、何と云っても軍紀上その罪は軽くない。私の退職は、当然であったと思う。
二・二六事件の朝、私は背広で、連絡に機関銃を据えている反乱軍の中を通過し、品川の北白川宮邸に伺候し、大妃殿下に拝謁御見舞を申しあげると共に、反乱軍の思想背景を御説明申し上げげ、若宮殿下の御行動には、この事件に関しては決してふるることなく一意軍務に御精励あらんことを祈願した。真崎、荒木等皇道派の巨頭も、この事件に責任ありと述べると、傍らの石川中将(※2)は極力その関係は皆無であると、私の意見の反駁に出たが、私は私の意見をまげなかった。大妃殿下は私の話を聴取されると、直ちに陛下の御見舞に参上された。これと前後して、鈴木侍従長夫人も参上されたようであった。夫人は、大将が襲撃を受けた現場の目撃者である。このお二人の言上された内容は勿論想 像を許さないが、青年将校たちを同情すべき蹶起部隊であるとは奏上されなかったことは確かである。
私は真崎将軍教育総監退職が、彼等青年将校達の不穏行動を阻止する最大の要素だと考え蔭ながら懸命に努力したつもりであったが、結果は逆効果になり、彼等の行動に火をつけた意外な結果になった。大地の覆える時、一木のよくささえ得るの難きことを痛感した。当時を回想すると、悪夢のような心地がする。
本書では敢えて名前は伏せてあるが、この将軍は15期の服部兵次郎少将。満洲事変では旅団長として名を馳せた人だが、必ずしも一介の武弁ではなかったようで、このような政治的立ち回りを見せていたとしてもおかしくは無い。彼には支那の軍閥がらみで何か逸話があったと思うが、思い出せない。また捜しときます。
さて手記の内容は、有馬氏も書いている通り、やや我田引水のきらいが強いが、これはしょうがない。勿論彼一人が真崎教育総監罷免の立役者ではないが、こういう動きが当時あったという例証に丁度良い。しかし林大将と渡辺大将が多年の盟友というのはどうだろうか。少なくとも事件の数年前までは、林は真崎、荒木の盟友であった人なわけだけど。ちなみに渡辺はかつて陸大校長を1年にも満たずに解任されているが、これは彼の”新思想”を、日露戦争を引きずる鈴木壮六総長、金谷範三次長(いずれも日露の第二軍参謀)が嫌ったせいであるという説がある(ただ渡辺は極端なドイツかぶれで、第七師団長時代も部下が随分困ったという話があるので、解任理由もそう単純なものではあるまいが)。このとき渡辺の後任に来たのが、日露戦争では一戸兵衛の副官であった林である。学生から見た林校長はかなり貧相で影が薄かったそうだが、本人も自覚があったようで、随分謙遜な態度であったそうだ。この林の後任校長が荒木で、就任の挨拶でただ一言「実行」と叫んで降壇したという話が残っている。
ついでに言うと、服部将軍の予備役入りは、本人は真崎総監解任運動のためと思いたがっているようだが、微妙なところだ。最終的なトリガーになった可能性は高いが、爆発的に将官のポストが増えた支那事変以降はともかく、この頃なら、これぐらいの経歴で、少将で予備となる例は無いことは無い。
※これは林弥三吉の間違い
※2これは北白川宮別当の石川漣平中将(10期)
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