近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

昭和6年の十月事件で橋本欣五郎たちが想定していた内閣というのは次の通り。
首相兼陸相 荒木中将
内務大臣  橋本欣五郎中佐
外務大臣  建川美次
大蔵大臣  大川周明博士
警視総監  長少佐
海軍大臣  小林少将(省三郎)
殆どの本は上記の通りになっていると思う。というのも田中清の「所謂十月事件に関する手記」がそうであるから。但し中野雅夫氏は陸相は建川の兼任とし、さらに加えて
法務大臣  北一輝
拓務大臣  藤田勇
と書いている。中野氏は藤田と親しく、十月事件の情報も藤田から得ていたので、或いはそういう話もあったのかもしれないが、手前味噌かもしれない。中野氏は藤田を大物フィクサーとして描くが、里見甫の伝記などでは、里見とは比較にならない小物とされている(阿片商人としてだが)。中野氏の本は徹頭徹尾橋本サイドから書かれているため、読んで憤慨する人もいるだろう。事件前の料亭(末松太平氏によれば梅林)での顛末についても、鉄血章のことはおざなりにされ、青年将校たちは血判するのが怖くて脱退したというような書き方をしている。さすがに小原重孝に気絶させられた中尉の名前はふせてあるが、そんなもの誰が見ても菅波三郎であること丸わかりだ。ところがそんな中野氏も、橋欣を敬愛すること人後に落ちない田々宮英太郎氏には批判されている。中野氏が某女史から手に入れ出版した『橋本大佐の手記』の解説が事実を歪曲しているというのである。

歪曲といえばついでに、田中の手記について。あの手記は石丸少将から憲兵隊(持永少将)、村中孝次と渡り、「粛軍に関する意見書」に添付されて世に出たものだが、その過程で相当の改竄がなされていることは知られている。その中で特にケッタイなのは三月事件に関する記述の中の以下の箇所である。

此情勢に於て某中将(此の氏名は最後まで秘匿せられ今日に至るも明らかならず一説には真崎中将と云ひあり)は小磯、建川少将の何れか一名以下数名の将校を率ひ議場に入り(中略)総辞職を決行せしむ

田中もはっきり書いているが、この某中将というのは原文では某少将であり、それは建川を指している。真崎は三月事件に関してはクリーンである。であるにも関わらずわざわざこのような改竄をしたのは、どういう意図があってのものなのか、ちょっとわかりにくい。何故なら石丸も持永もガチガチの真崎派であり、村中にしてもこの時点ではまだ真崎サイドであったから。

さてもう一つは東條打倒に燃えた中野正剛の組閣案。彼の腹心三田村武夫代議士から押収した閣員名簿によれば
総理大臣  宇垣一成
内務大臣  中野正剛
内閣書記官長 天野辰夫
外務大臣  廣田弘毅
情報局総裁 緒方竹虎
商工相兼企画院総裁 梶井剛
陸軍大臣  小畑敏四郎もしくは大迫通貞
海軍大臣  豊田副武
天野辰夫は神兵隊事件で逮捕されたこともある弁護士。これはいずれ書くかもしれないが、一部の右翼と大政翼賛会は相性が悪いらしい。梶井という人は全然知らないが、松前重義の推薦だそうだ。さて私なんかが目がいくのはやはり陸相候補。小畑に関しては何の違和感もないが、もう一人の大迫通貞というのはどこをどう回って出てきた名前なのか気になる。確かに彼はこの昭和18年、師団長として内地にいたがそれでもこのメンバーに入るような人かな?場違いというと失礼かもしれないが、まさかサイコロ振って決めたわけでもあるまいし、どういうコネクションなのだろうか。大迫は陸士23期。この期からは多くの軍司令官が出たが、彼は第47師団長を最後に予備役となり、終戦時は召集されて故郷鹿児島の地区区司令官をしていた。その経歴的には所謂支那通。土肥原賢二の下で竹工作(呉佩孚引っ張り出し工作)をやっていた。


    
正確に言えば逆で、軍部大臣現役武官制廃止の効能ですか。

広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活し、その直後に宇垣一成が組閣の大命を拝しながら、陸軍大臣を得ることができずに、泣く泣く大命拝辞するという事件が起こりました。この件については以前
香月清司中将について(1)
林弥三吉中将重大声明
で軽く触れましたが、それではこのとき、軍部大臣現役武官制が復活していなければ、宇垣は無事組閣出来たでしょうか?確かに彼に協力する予備役の大将、中将は数名いましたが、しかし、大臣も出さないというくらい(陸軍に)反感を抱かれている内閣に入閣するぐらいの意気の有る人は、いたかどうか(この話は本来、『昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像』を読んだ上でやるべきなのでしょうが、残念ながら私はまだ読めていません)。

宇垣から電話で依頼を受けた小磯国昭は、三長官の推薦が無いなら、仮に自分が受けたとしても、朝鮮海峡を渡っている間に(彼は当時、朝鮮軍司令官)、電報一本で予備役に編入され駄目になると答えたそうですが、仮に現役武官制が無ければ、彼は予備役編入覚悟で宇垣と心中したでしょうか?後述するように、彼はかなり現役に執着していましたので、どうもその可能性は薄そうな気がします。

「新聞で大体は承知してゐました。一体どうした訳なんですか?」
「困った。陸軍大臣を受けるものがないといふのだ。君一つ受けて呉れ」
「さうですか、それは御察しします。然し三長官からの推薦も受けないのに、閣下からの直接交渉に対し私一存で諾否は申せませんな」
「さうか、困ったな」
「閣下、寺内君にもつと強硬に交渉したらどうです。大命が降下したんですからね。何とかならうぢやありませんか」
「うゝ、寺内に言うても駄目なんだ。まあ一応電話を切らう」

小磯国昭『葛山鴻爪』より抜粋

尤も小磯自身は、別段宇垣に出馬に反対というわけでもなく、彼のことも、最近は余程大物になったと評価していました。小磯は本来、二・二六事件後の粛軍で予備役になるはずだったところでしたが、建川美次が、小磯はもう少しだけ現役で置いておいてくれと頼んでくれたおかげもあり、少しだけ現役生命が延び、その間に大将にも親任されました。しかし知らぬが仏、昭和13年7月に参本附となったときも、彼はこの人事に大不満で、閑院総長宮の前で

小磯は本日、着任致しました。参謀本部附として最後の御奉公を殿下の麾下に勤め得ますことは小磯の光栄とする所であります。唯、今回近く待命になる趣でありますが、其の真の理由に就いては何も承知して居りませず、又強いて承らうとも思つて居りません。然し坊間評判する所に依りますと、三月事件の関係者であつたが為であるとか、統制派の一人であるが為とか・・・・・・

小磯国昭『葛山鴻爪』

と、侍立する多田駿参謀次長がそんなこと言うなという顔をしているのを尻目に、くだくだと喋くりました。しかしそれに対する殿下のお言葉は

種々と御苦労だつた。尚、毎日出勤には及ばない

の一言でした。その後も、なかなか予備役願を出さなかったので、人事局課員は随分困ったそうです(慣例として、体が悪いので現役に堪えないという文書を出す)。この態度に、阿南惟幾人事局長は、大将だからとて特別扱いする必要は無いので、予備役に入れてしまえと怒ったそうです(額田坦『陸軍省人事局長の回想』)。


では一方陸軍は、この軍部大臣現役武官制にどう向き合っていたのかというと、松村秀逸の『三宅坂』に”陸大にも文官陸相論”という話が載っています。彼が陸大三学年のとき、軍事課長と兼任で陸大教官もやっていた梅津美治郎が、「陸軍大臣は文官がよいか、武官がよいか」という質問をしました。若い方から順次答えていきましたが、10人目で文官が8人、武官が2人だったので、梅津教官はこの質問を打ち切りました。10人目がちょうど松村だったそうですので、残りの9人のうちには、松村知勝田中弥が含まれていたと見て間違いなさそうです。もう少し進めば、片倉衷桜井徳太郎長勇といった人々まで回っていました。勿論これが陸軍を代表する意見というわけではありませんが、若手のホープの中に、予備役将官どころか非軍人の陸相をも容認する意見があったというのは、中々面白いではありませんか。休み時間の雑談では「犬養あたりにやらせるが、一番よいよ」というような意見も出たそうです。案外、軍部大臣に非現役武官も認めるという制度に、馴染み始めていたのかもしれません。この翌年、満洲事変が勃発し、総ては転回します。


最後に広田弘毅氏について。矢次一夫の『昭和動乱私史』に興味深い話が載っています。昭和19年7月、大命を受け、宮中から退出しようとする小磯を、広田は「小磯君、大事な話がある」と呼び止めました。そして次のように言ったといいます。

「後任大臣を決めるのは、三長官会議のすいせんを受けなくともいいのだよ。これは、僕の内閣時代、軍部大臣を現役制に決めたとき、代りの条件として、取り交わしたものだ。どうか大事の問題だから忘れないように、とくに注意しておくよ」

矢次一夫『昭和動乱私史』下巻

ようするに、従来次の陸軍大臣は、三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の詮衡によるという”慣例”でしたが、現役武官制を復活させるのとバーターで、首相は必ずしも三長官の推薦を受けた人を陸相にしなくても、自分で選べるようにしたと言うのです。これを湯沢三千男から聞いた矢次は、色々調べたそうですが、結局裏付けはとれませんでした。後世史家の調査に期待したいと書いていますが、果たして調べている人はいるのでしょか?


  
話題になっているのは、速記とかではなくメモなので、それだけ読むと、松岡と白鳥には気の毒すぎるように思うが、親英米派の昭和天皇らしい発言だと思う。

君臨すれど統治せずが建前の天皇であるが、それでも何度か政治介入しているし、軍人の人事にまで口を出したこともある。2.26事件や終戦時の御前会議は言わずもがなだが、山下奉文石原莞爾の親補職への就任をご裁可されなかったことは夙に知られる。石原は板垣の、山下は同期の阿南沢田の計らいで、何とか2度目のトライでご裁可を得ているが。

昭和天皇の人物の好みの一つとして、何でも細かく嘘をつかずに報告(上奏)してくる人物が挙げられる。故に東條英機は寵愛されたし、松岡などは嫌われただろう。

ここに一つ、一般的にはあまり知られていないが、私個人としては非常に重視している昭和天皇の人事への介入例がある。阿部信行内閣の陸相人事である。次期陸相というのは通常、陸軍三長官の会議で決まる。もっともそこには人事局長なども出ることがあり、厳密に三人だけで決めるというわけではないが。阿部内閣の陸相には、この三長官会議の結果、四人の候補の中から阿部と同じ兵科で、人物に偏りの少ない多田駿が選ばれ、人事局長が牡丹江目指して出発した。

ところが参内した阿部は、天皇から、”陸相には梅津を。それ以外の者は認めない”という思わぬお言葉を聞いて仰天する。梅津は石橋を叩いても渡らないといわれた慎重居士であり、畑もまあ似たようなタイプ。梅津は関東軍司令官になったばかりということで、結局侍従武官長の畑を下げ渡し願い、なんとか組閣した。

しかしなぜ天皇はこのようなことを言い出したのか。独白録でもこのことは触れられているが、理由までは書かれていない。多田よりもう一人の候補だった磯谷を忌避したような感じもするが、それにしてもである。ただいろいろ諸事情を総合すると、やはり君側に入れ知恵した人間がいた可能性が高いと思う。

天皇のお声掛りで陸相となった畑は、就任直後の陸軍省で痛烈に従来の陸軍を批判する演説を行ったが、結局余り為すところ無く、最後は統帥部の圧力に負けて、米内内閣を潰してしまう。

一方寸前で陸相の座を逃した多田は、その後北支方面軍司令官を最後に予備役となった。彼は元々事変初期に参謀次長として、事変の不拡大に注力した所謂不拡大派の親玉であった。しかし、”平和主義者”とされる天皇に彼は忌避された。或いは参謀次長として身近に接し、不拡大を唱えながらもずるずると引きずられていった多田の姿に、頼りなさを感じていたのだろうか。

私がこの人事を重視するのは、下世話な論点だが、多田の人間関係による。彼は当時陸軍において、最も石原莞爾と親しい人間の一人であり、また最も東條英機と仲の悪い人間の一人であった。戦後最も人口に膾炙したIFの一つ、”石原の進出と東條の失脚”は、実は多田の陸相就任によって実現した可能性があるのだ。勿論その結果がどうなったかは分からない。もしかしたら東條の代わりに石原が十三階段を上がっただけかもしれない。まあ、それにしても興味をそそられるIFである。



もっとも今回のメモ、偽者もしくは勘違いの可能性もあるかも?しかし天皇の側近というのは、昔から余り人物がいない。
それと立ってるものは親でも使うマスコミの態度は、みっともない。恥と言う感覚は無いのかねえ?