近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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こんなに間が開けておいて閑話休題もないものだが、前のエントリで後宮大将について書いていて思い出した。若林東一にこういうエピソードがある。

若林は捕虜の英軍大尉を弾丸から護ってやるため、壕の中に退避させようとした。これを見て第一線にあったある将官が、「捕虜は退避させる必要は無い」と彼をたしなめるように言った。これを聞いた若林は「私には弾丸が当っても良いが、捕虜はそうはいきません」と、英軍大尉をかばうように壕の中へ退避させた。その将官は一言も無かったという。

この将官というのは支那派遣軍総参謀長だった後宮のことらしい。尤もその場に居たのではなく、後から若林の話を聞いて「捕虜を優遇するなどけしからん」と怒ったという説もあり、どっちが正しいのかは知らない。ちなみに同じ話を聞いた竹田宮殿下は「いい話だね」と喜ばれたそうだ。
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石射猪太郎の文章は、どうも東亜同文書院特有の嫌らしさが感じられて、好きではない。まあそれはともかく、あの本で一番面白いのは、中国側が日本の要人の印象を書いたメモを、彼が手に入れたときの話。石射自身好意的評価を受けていてご機嫌なんだけど、それより渡兄弟に対する評価が、”兄弟揃ってアゴが長い。特に弟の方が長い。”というもので、石射もこれはうけたらしく、特に日記に書き写している。

兄の渡久雄は、北支事変発生時、参謀本部第二部長の要職にあったが、病気のためなすところなく本間雅晴と交代した。彼は陸軍内英米通の代表格であったため、ずっと後輩の杉田一次も、彼の早い死を惜しんでいる。東條英機と同期で、彼に意見できる存在であったというのも、その理由の一つだが、こればっかりは果たしてどんなものか。

兄・渡久雄


弟・渡左近


意味なし

http://www.kadokura-ken.com/index.html
経歴
林弥三吉は石川県出身の陸士8期卒業(優等)。同期同郷の林銑十郎大将は陸相、首相になったが、あちらの林は銑(鉄)だがこちらの林は鋼(鉄)だという評価もあった。参本欧米課長や陸軍省軍事課長といった要職を歴任。宇垣一成の腹心として終生その交友は変わらなかった。警察予備隊の初代総監、初代統幕議長の林敬三は息子である。

信条
軍人は政治に干与してはならない。またその行動は大命によらねばならない。政治に干与する場合は丸腰にならねばならない。といった考えの持ち主であり、またそういった内容の著述もある。

組閣参謀
宇垣に大命が下ると、林はその組閣参謀となった。他に集まった陸海軍人は和田亀治、原口初太郎、上原平太郎(以上陸)、山路一善(海)といった何れも予備役の将軍たちであった。また憲兵情報では松井石根も宇垣支持であり、憲兵司令官の中島今朝吾と電話で喧嘩をしたそうだ。この年の暮れの南京攻略時の二人の確執を思うと興味深い。宇垣に対しては石原莞爾、片倉衷ら中堅幕僚の強力な反対があり、湯浅内府に宇垣についての陸軍の心象を尋ねられて「もういい時分だと思われます」などと暢気に答えた陸相の寺内寿一もなすところなしであった。次官の梅津美治郎は公私に渡って宇垣とは縁が有り、内心では石原片倉の越規行為に腹を立てていた節もあるが、表向きは何もしなかった。

梅津氏は昭和十二年余の組閣妨害の張本責任者として追究せられありと。気毒の至りなり。大義に戻り私情を無視し権勢に阿附したりし当然の帰結なりとも謂い得る!
(『宇垣一成日記』昭和二十二年九月十八日)


声明文
宇垣が大命拝辞のため参内した其の日、林はマスコミを集めて声明文を発表した。これは宇垣にも相談無しの行動であった。渡邊行男『宇垣一成』に載っているのは原文かどうか分からないが、他に見当たらないのでこれを引用する。

私は頼まれて宇垣閣下のお手伝いに上った者であります。私はこの重大時局は、宇垣閣下に非ずんば断じて救い得ぬという信念をもっております。

これより、昨二十八日、河合操大将〔枢密顧問官〕とお会いしたときの事情をお話し致します。まず宇垣閣下の御挨拶として、
「軍の現状および世論は御覧のとおりで、権力の地位にある者数名が中心となり、当局を強要して軍の総意なりと言いふらし、それが大勢なりというごとく装うています。軍は陛下の軍であるが、過般来の行動は、陛下の軍の総意なりや、問わずして明らかであります。三長官の陸相後任選定のごときも、形式的のやり方だけあって、著しく誠意に欠けています。
現役将官個人のうちには、この際進んで難局に当るを辞せずとの意気を有する人もいるが、その進出が梗塞されており、もはや残されたところは、変通の手段を有するのみであります。世上伝えられる優諚を奏請するごときは考えたこともありません。自分の大命拝辞後の軍の成行きおよび君国の前途は、痛心にたえざるものがあります。私はいまは、ファッショか、日本固有の憲政かの分岐点に立っていると信じます。
軍を今日のごとく政治団体的状態に至らしめたことは、私もまた微力その一部の責を負うべきであるが、聖明に対してただ恐懼に堪えません。いまや御採納になるかどうかは拝察の限りではありませんが、最後の軍に対する手段として、陸軍大将の官を辞する決意を固めました。
もし私の所見に同意ならば、一臂の力を垂れられるの余地なきや、お伺いいたしたい。多年の愛顧を蒙り、軍の長老であられる閣下に対して、軍と訣別する前において、愚見を申し述べて御諒承を得たいと存じます」
と申し上げました。

河合大将はこのとき泣かれて言われました。
「辞表がなおお手許を離れていないならば、この際切に思い止まられんことを望みます。自分の見るところでは、決して軍の総意で閣下を排斥しているのではないと信ずる。しかしながら三長官の決議とあるが故に私は今まで躊躇していたわけである。この時局は宇垣閣下に非ずんば断じて救い得ないと思うから、最後の御努力を祈る次第である」

そこで私〔林中将〕は三長官の決議について十分御検討をお願いしておきました。

次に林中将は自己の所信を述べた。

首相は文官であります。文官たる首相が軍の統制に何の関係がありましょうか。軍の統制は軍の首脳がしっかりしていればよいのであります。故に宇垣閣下が首相となられても、軍の統制になんらの影響なしと信じます。然るに、その統制を保ち得ぬとは何たるブザマでありますか。そもそも組閣行為は純然たる政治行為である、これに向って軍をひっさげて反対するとは違勅ではありませんか。軍の発表では、軍の総意とあるが、陸相は果して陛下の御裁可を経て発表されたものであるか。まさか陛下はこんな政治進出をお許しにはなりますまい。

陸軍は「内容が穏当を欠く」としてこの文を新聞掲載禁止とした。林は同じ趣旨の文をビラにして撒いたため、陸軍内部では林逮捕を求める声が上がった。中島今朝吾は部下憲兵を置いてきぼりにして独走する癖が有り、このときも即座に林の逮捕を東京憲兵隊長の坂本俊馬に命じた。しかし坂本の下にいた上砂直七中佐や林秀澄少佐はこれに面従腹背の態度を取った。


お奨め



<宇垣の知遇を得る>
香月が陸軍省が示した宇垣内閣の陸相候補の一人であったことは既に書いたが、実は宇垣陣営の意中の人も香月であった。宇垣の腹心である林弥三吉は宇垣に次のような手紙を送っている。

小生の考にては香月中将を以て唯一の候補者と存居り候。同中将とは「現役軍人政治に干与すへからす」との意見に於て預てより一致致居り、過般の拙著に対しても絶賛し居り候。特に現提出予算の厖大極まるものなることに就ても全然同感に有之候。・・・若し杉山又は板垣の如きものを出せば純然たる軍人フアツシヨの世となり・・・・(昭和12年1月24日)

林は大楠公の研究者として知られた人物だが、軍人の政治不干与にも一家言あり、昭和11年には『文武権の限界と其の運用』という本を出している。文中の”拙著”というのはそれを指しているのだろう。彼が宇垣大命拝辞の当日に、重大声明を読み上げ陸軍を痛烈に攻撃したことは既に書いた。当の香月は当時演習で千葉にいた。後に彼は宇垣に対し、自分は一切(陸相就任の)打診を受けていないと申し開きをしている(渡邊行男の本にも載っている話だが、原典が思い出せない)。今井田清徳(宇垣の組閣参謀)が千葉まで会いに行ったという話もあるので、鵜呑みにも出来ないんだが。第一軍司令官を解任され帰国した香月は、宇垣に挨拶に行っている。二人の閲歴を見ると、同じ職場にいたことは殆ど無いが、そこそこの知り合いではあったようだ。


<宇垣の幕下に入る>
予備役となった香月は本格的に宇垣陣営の人になった。彼の役目は東京に於ける宇垣の情報係といったところか。宇垣を擁立する動きは、あの流産以降も続いていた。いやむしろ香月のような新たな宇垣ファンが増えていた。かつて六郷橋で宇垣の車を止めた中島今朝吾も、泣いて自己の不明を詫びたという(泣いたというのは田中隆吉が書いていることなので事実かどうかは知らない)。真崎甚三郎ですらも「此時世を救うものは宇垣閣下以外になし」と言っている。さて平沼内閣の後継争いは阿部信行(かつての宇垣の次官)を推す陸軍の勝利となったが、このときも吉田茂を中心に林中将や山路一善海軍中将らが、宇垣擁立運動を激しく展開していた。恐らく香月もこれに加わっていたはずで、阿部に決まった後には宇垣に対し、次のような手紙を出している。

軍部之飽なき反抗工作と無気力なる元老之糊塗策に禍ひせられて、遂にまた今回之如き情なき落着と相成り候事は現情国家之為誠に寒心に不堪る処に御座候。・・・・小生また御指示に従つて最善之努力を尽し犬馬之労に可報候。(昭和14年8月29日)

その阿部内閣が倒れると再び宇垣陣営は、次期首班を目指して工作を開始した。香月はまず侍従長の百武三郎海軍大将を訪ね、宇垣に対する好感触を得ている。そして次のような手紙を書いた。

先には御下命により百武閣下に情報を持参種々御話を承り候処、此方面は殆んど御懸念を要せざる段之良況に有之様に被察申候。・・・・是非共今回は全日本の第一流之猛者を傘下に集められ、前人未到之強力猛勇之内閣を御準備被下度・・・(昭和15年1月6日)

更に陸軍大臣畑俊六を訪ね、協力を求めている。畑の兄はかつて宇垣が自分の後継者にと考えていた人物だけに、宇垣陣営では、宇垣内閣の陸相には畑を据えるつもりであったようだ。しかし畑は陸軍の反宇垣感情の強さを訴え、

自分とし(て)は心外に思うが何とも致し方なし。(昭和15年1月10日)

と言うのみであった。このとき陸軍の意中の人は近衛文麿であったが、武藤章の政治参謀であった矢次一夫だけは、杉山元を首班とし武藤を現役のまま書記官長とする軍部内閣を夢見て策動しており、武藤を困らせていた。結局このときは米内に大命が下った。香月は

さて今回も遂に御期待に遠かり残念此事に御座候。・・・・遠からさる裡に陸海軍政党等之間に三ツ巴の騒動を引起す事は必然かと愚考罷在候。此上て遂に遂に閣下の前に叩頭し来る日も決して遠からさる事と確信罷在候。・・・(昭和15年1月15日)

との手紙を送っている。また昭和16年11月21日には東條への大命降下の内情や開戦準備について相当詳しい情報を送っている。中々良い情報源を持っていたようだ。


<終戦工作>
香月は引き続き宇垣幕下として近衛らの終戦工作にも関わっている。細川日記にはちらほら彼の名前で出てくる。

車中公は「昨夜荒木、小畑、吉田等に会ったが、香月は駄目だと云っていた。酒井は頭が断然よいし、香月の上だ。而し酒井は柳川が亡くなったから、宇垣に行くだろうと皆見ていた」と。柳川中将は吉浜にて狭心症にて急逝された由。(昭和20年1月24日)

公というのは近衛のことである。酒井は酒井鎬次。『戦うクレマンソー内閣』を日本語訳したりと学究肌の軍人で、近衛らの信頼も厚かった。日本最初の機械化兵団独立混成第一旅団の初代旅団長であったが、そのとき関東軍参謀長であった東條英機と作戦を巡って諍いになった。柳川平助と親しかったのは間違いないが、荒木や小畑らとはそれほどでもなかったのか。話は恐らくは陸相候補の事だと思う。更に酒井の提出した内閣案について細川が富田健治と話し合っているときにも香月の名前は出てくる。

従来此戦争に従事したる軍部にては収拾の力なきを以て、是に代る軍部たる真崎・小畑、宇垣・香月、石原の三派の中の何れか、又は三者の連合を以て事に処せざるを得ず。然るに石原は天才なれど一面信じ難く、宇垣、香月は酒井氏が推薦するも、或は事に臨んで断乎実行するや否や、一点疑問を存す。又真崎は人物に於て信用なし。然らば狭量のそしりありと雖も小畑を陸相となし、香月、石原を夫々適所に起用しては如何。(昭和20年3月2日)

いつのまにか、宇垣陣営において”真崎に対する小畑”のような立場にまでなっていることが分かる。しかし近衛陣営はやはり小畑に対する評価が高い。そして細川の鑑識眼は中々面白い。

以上で香月については終わります。無名の軍人とはいえ探せば結構いろいろなエピソードがあるものですね。これからもうちはこういうニッチ産業で行きますw





<香月中将軍司令官更迭事情異聞>
矢次一夫は『昭和動乱私史』の中で香月についていくつかのエピソードを記している。
一、香月は天津に赴任する前宇垣を挨拶をしに訪ねた。そのとき宇垣は不拡大方針を強く説き、香月も同感と答えたが、後に「状勢貴意に副い兼ねるやも知れず、ご容赦を乞う」という電報が送られてきたという。これは宇垣の直話だそうだが、宇垣の日記には香月が訪ねてきた記述は無い。

二、これは当時軍務課長であった柴山兼四郎の直話だそうだが、柴山が北支に出張し、不拡大方針を堅持するよう香月に伝えたところ、貴様軍務課長の分際で統帥権干犯の言をなすは許せぬ。始末書を書けと怒られたという。柴山は、書けというなら書きますと言って始末書を書いた。香月は彼が書き終わるのを待ち、不拡大というなら何故三個師団動員したのかと一喝。これには柴山も一言も無く、すぐにやめるように電報を打ちますといって部屋を出ると、下から上がってきた池田純久が、柴山さん、ここから打ったら(和知ら強硬派参謀に)すぐに洩れて大騒ぎになりますよという。已む無く柴山は大連に飛び、そこから打ったが、これを受けた東京では、電信係の某少尉が握りつぶしてしまい、陸軍省には届かなかったという。握りつぶしたというのは、後年当人が矢次に手紙をくれたのでわかったとか。

そして更に矢次は次のように書いている。

ところで奇怪なことは、香月軍司令官が満鉄から機密費五万円を貰ったという秘話があり、これが中央に洩れて、香月は後に予備に編入されたというのだ。これはまことに驚くべきことで、この頃の五万円は、今の五、六千万円にあたるだろう。この話を私に秘語してくれたのは池田中佐である。私は事実としても、香月が五万円を満鉄から貰ったのは、恐らく事変の機密費に使ったもので、一人占めしたわけではあるまいと思っていたら、池田の後任となった堀毛一磨中佐によると、私宅新築の事実があるというから、呆れた話であり、軽率のそしりは免れ得まい。

池田というのは既述の池田純久のことである。家云々の話は、東條の豪邸新築のような例もあるため、軽々しい決め付けは良くないと思う。私としては裏付けの取れないこの話を鵜呑みにはできない。まあとにかくこうして香月の名は戦史上からも完全に消えるわけだが、物語はまだ続く。


<補足:中島今朝吾の考察>
中島は香月の更迭について次のような考察を巡らせている。

 香月が金銭に清廉なことは予は今尚之を信じておるが、然し彼は世間に疎いので世の中の複雑なる関係を余り単純に看過した処に其の失策があると見るの外無し。
 興中公司からの慰問金十万と聞き、さてはと考えさせられる。次に石原の言というのも又聞きにしたが、其者が香月は金に清い人だというた時石原曰く、否や中々そうではりませんよ、人は見かけにもよらぬものだからと云うたとのこと、是に於いて其程度まで読める処がある。

石原嫌いの中島は、香月が石原にはめられたと推理している。中島自身後に美術品を京都の偕行社に送ったとかの廉でやがて予備役に編入されるのだから皮肉なものだ。中島も決して私するつもりでやったわけではなかったが、不用意という以外に無い。もっともこの中島の件も、真犯人は別にいるとの説がある。


<余談:鈴木率道の更迭>
ついでなので、もう一人金銭絡みで更迭された有名軍人を挙げておく。第二航空軍司令官だった鈴木率道が突然更迭されたのは昭和18年5月であった。鈴木は石原を抑えて陸大を首席で卒業したような人物で、作戦畑一筋、偏狭な難しい人物だったが、航空軍司令官としての評価は高かった。彼の更迭事情に関して、荒木貞夫は次のように語っている。

太平洋戦争中航空機の物資が非常に不足したので、そういうものを集めろといわれ、周到な男だから計画的にたくさん集めた。そこで表向きはどうか知らないが、三井かどこかあの辺が、こんなこともやった、あんなこともやったと素っ破抜いたらしい。三井は自分の手でやれば儲かるが軍でやったからいじめたのだ。

荒木は鈴木について、下村定によく似ているが、頭が特殊であった。だから敵も多く、(小畑以外は)誰も使えないと評している。

以上三人に共通するのは、鼻っ柱が強く、自分で考えて行動するタイプで、メインストリームからはやや外れたところにいたところだろう。特に鈴木と時の首相東條英機の仲の悪さは語り草となっている。であるからして、私としてもどうしてもこれらの人事の裏に、きな臭いものを感じてしまう。はっきりいって、彼らがやった事くらいなら、それ以上にあくどいことをしていた輩は相当いると思う。



<第一軍司令官を更迭さる>
北支那方面軍参謀長岡部直三郎の日記には、腰の定まらない参謀本部と積極果敢に進出したがる隷下軍の間に挟まって苦心している様がよく出ている。特に第一軍と方面軍司令部の間はしっくりいっていなかった。(ここで北支那方面軍にチェックを入れ、日付を1937年の9月以降にして”GO”してみてください。戦闘序列が見れます)

第一軍は方面軍が第一軍司令官の権限を犯し、細部に干渉し過ぎると悪感を抱きあり(十一月八日)

第一軍は兵団使用について方面軍が口を出してくることを非常に嫌った。岡部はこれに対し、心得違いも甚だしい、困ったものだと嘆いている。そして、司令部に呼びつけて啓蒙しても良いのだが、香月軍司令官の性格上、容易に己の意思を翻さざるべく、自分との間で論争になって事態が余計に悪化する可能性があるので、暫く放置すると決定している。

第一軍は十二月上旬第百八師団を観城附近に進むべく、発令せりという。第一軍の事情はさることながら、確かに方面軍命令違反なり。(十一月二十五日)

これに関して岡部は悩んだ末、第一軍の新企図は、一時的前進にして、目的を達せば、原位置に復帰するものにして、必ずしも命令違反なりとやかましくいう必要なきものとの結論に達し、黙認することとした。

匪賊討伐のために第一軍から兵力を差し出すよう命令したところ、

第一軍は、折返し討伐用兵力の差出しに応ずる気配なし。・・・・花谷参謀が第一軍第一課に於いて感知せし処によれば、根源は軍司令官にあるが如し(二月十四日)

さすがにこれは黙認できない。しかし参謀長以下にはなるべく汚点をつけたくないとの配慮から、参謀長を呼びつけて謝罪をさせることにした。
しかし、

第一軍参謀長飯田少将と会談。約二時間半会談せるも飯田少将は、自己の非を認めず。(三月二十二日)

以下、長々と飯田祥二郎の主張とそれに対する岡部自身の反駁が綴られている。頑固に非を認めない飯田に手を焼いた岡部は、彼を方面軍司令官の寺内寿一大将の前に連れて行った。しかし飯田は寺内の前でも一向に態度を変えない。連れて行った岡部の方が、軍司令官の怒りが爆発するのを恐れて、寺内に退出を願う始末であった。(ちなみに飯田は長州出身の飯田俊助中将の息で寺内とは同郷になる)

そうこうしているうちに

香月中将高血圧のため眼底充血の結果、神経高ぶるを以て更迭を申出であり。(五月二十一日)

前線を視察に行った寺内に対し、香月より上記の申し出があった。渡りに船ということで、五月三十日を以て香月は参謀本部附となり、後任は梅津美治郎となった。

しかし彼の更迭事情には別の話もある。




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