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近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

秋山真之が大本教の信者であるという噂は、生前からあった。彼の伝記作者は、彼が大本信者であることは否定しているが、関わりがあったことは認めている。それによれば要するに秋山将軍は宗教研究家であり、その観点から大本に接近したという。伝記作者も、大本と関わりがあるということは、威望を傷つける過失であると考えており、何とかその辺を落としどころにしたいようだ。真之と親しかった山本英輔は次のように話している。

「宗教とか心霊とかいった方面に対する興味は、秋山将軍の先天的の性格の中にあったのかも知れない。海軍大学時代も生徒の中で催眠術の心得のある者があったので将軍も催眠術に興味を持たれ熱心に研究していられたようだった。
だが、将軍は宗教に入り切るには、余りに理性があり過ぎる。宗教に没入してしまいたいにしても、最後の一分という所で入りきれずに悩んでいたのではないかと思う。」


宗教に熱心な軍人は以外に多い。石原莞爾が熱心な法華経信者で宮沢賢治と同宗であったことはあまりに有名だ。まもなく映画が公開される岡田資中将も熱烈な法華経信者で、巣鴨でも最後まで同囚の人々を勧誘してまわっていた。教誨師の花山信勝(西本願寺)とはもうひとつ折り合いが悪かったという(田島隆純師とは良かった)。熱心な法華経信者で、静岡の町を太鼓を叩いて歩き回り予備役に入れられた大隊長もいたそうだ(後述する棚橋信元『神がかり参謀』より)。

キリスト教はというと、反ユダヤで有名な四王天延孝中将は中尉時代に入信している。彼の通っていた教会には安部磯雄や片山潜も顔を出していた。彼は後年、大日本回教協会の会長を務めたが、勿論本式のムスリムではない。馮玉祥の顧問を長く務めた松室孝良少将も回教通で大日本回教教会の総務部長であったが、信者ではないだろう。戦後になって改宗した人は多い。以前触れた佐藤裕雄大佐もそうだし、支那派遣軍総司令官も務めた西尾寿造も戦後カトリックに改宗したらしい。岡田によれば西部軍司令官で種種の事件の責任で収監されていた横山勇中将もキリストにすがり、来世は蝶々になりたいと言って獄死した。今村均大将は聖書の研究に熱心な人だが信者ではない。

遠藤三郎中将によれば、河辺正三大将は戦後軍備に反対していたそうだ。そこで一緒に選挙に出ようと誘ったところ、

「宗教家としては軍備に反対ですが、元軍人として表に立って軍備反対はできない」

と断られのだそうだ。多分仏教徒だと思うがよくは分からない。

新興宗教に目を転じると、宮城事件を処理し、その後自決した田中静壹大将は生長の家だそうだ。大岸頼好が戦後けったいな宗教に入信したことは、それに付き合わされた盟友の末松太平の本に詳しい。末松はぼやかしているが、大蔵栄一はそれがちどり会だと書いている。大岸をその道に引き込んだのは、「兵に告ぐ」を書いた、因縁の大久保少佐であった。47期の小林友一は幼年学校時代、二人の先輩に誘われて、現神教会という神道の新興宗派に、同期の林八郎(二・二六事件で刑死)と共に入っていた。二人はまもなく抜けたが、教会の後継問題で、彼を誘ったうちの一人が割腹自決をしている。

さて色々書いたが真打は自分が教祖になった棚橋茂雄だろう。彼については稿を改めて書く。


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『陸海軍人物史論』ですが、あまりいいまとめが思い浮かばないので、厨二病臭いですがコーエー風にいきます。あまり真面目にとらないで下さいね。突っ込みは大歓迎。役職は日露戦争当時のものです。名前にはってあるリンクをクリックすると写真と経歴が見れます。能力値はあくまで日本軍内の相対値ですのでそこんとこよろしく。ではどうぞ↓


今年はどういうわけかカレンダーの集まりが悪く、自分の部屋の分が足りない状態になってしまいました。かといって金出して買う気にもならないし。ということで自分で作ってみました。下がスクリーンショット。
























今回は舞暦 -Maica-というフリーソフトを使わせて貰いましたが、これはかなりの優れもの。印刷するときは同じく舞プリンを使用。予定欄に陸軍軍人の誕生日を入れてみました。何人かはスペースの関係で割愛させて貰いましたが、ご容赦を。欲しいという奇特な方は、まず上記の舞暦をインストールしてください。次にここからデータファイルを落として解凍し、Seal\Maica\Data\Files1の下に放り込んでください。データが上書きされると思います。DLKeywordは「cal」です。その後、舞暦を起動すればOKだと思います。

軍人を語る上で大事なのは陸士の期であって、年齢などあまり気にしたことなど無かった。ましてや誕生日などは、です。あの人とあの人は同じ日に生まれてた!とか結構あって、作ってて面白かったです。私のと同じ誕生日のこの人誰?とか思ったら、うちのサイトの下の方のサイト内検索を使ってみてください。経歴くらいは出てくるかも。まあ、ここで直接聞いてくださっても良いですが。私の場合は、えー、えー、殴る騎手は捕まりましたが(謎)



1月10日追記
文藝春秋の2月号に『散るぞ悲しき』の著者である梯久美子氏が「検証 栗林中将衝撃の最期」っつう記事を書いておられました。朝、新聞の下の広告欄を見て気になってたので、帰りに本屋で立ち読みしました。立ち読みなので細かいことは書きませんが、まず、例の降伏しようとして参謀に斬られたという異説について、この人が”知らなかった”と書いてるのには驚きましたw
ま、それはそれで良いとして、検証の中身ですが、肝心要の小田証言に余り触れずに、堀江参謀や小元副官の証言の食い違いやら何やらについて突っ込んでるあたり、率直に言って論点をずらして誤魔化そうとしてるようしかに思えませんでした。私自身相当バイアスがかかってるのは認めますが、この話の核は小田曹長の証言でしょう。堀江、小元両氏は硫黄島に居なかった上、それぞれの立場もあります。彼等の話が食い違ったりあやふやなのは、当たり前で、そんなところ、ぐちゃぐちゃ突っ込んだって大した意味は無いですよ。小田曹長が亡くなってるとしたら、せめて彼に電話で話を聞いている大野氏に取材くらいすべきでは?彼は生きておられますよ。最近も近衛秀麿の本を上梓されておられた。事情は一切知らない私の勝手な言い草なので、その辺はごめんなさいですけど。好きな人物であっても贔屓の引き倒しにせず検証する姿勢は素晴らしいですけど、掻痒感は拭えないですね。
以上この2ヶ月くらいはすっかり硫黄島三昧で楽しかったですが、これで通常業務(!?)に戻りますわ。

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美少年、のっぽ、奇人変人、自殺者といったくくりで、陸軍軍人のエピソードを集めた本。面白い人には面白い。ただ題名の「陸大」は内容とあまり関係ない。
第1章 美少年伝説で著者が挙げているのは小坂千尋、榊原忠誠、竹下平作、土橋勇逸、西村敏雄、斉藤弘夫、細川直知、山崎重三郎、山口立、古賀秀正。
以下、上記のメンバーに加えて、私の独断と偏見で男前と思われる陸軍軍人の写真を集めてみた。


児玉源太郎
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言わずと知れた日露戦争の満洲軍総参謀長。背は低かったが中々の造りだと思うが・・・

小坂千尋
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日本陸軍最初で最後の”参謀大尉”。若死にして山縣を嘆かせた。

柴五郎
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北清事変の英雄。会津初の大将となった。

佐久間武志(左)小堤辰治郎(右)
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永沼挺進隊から二勇士。佐久間は下田歌子と文通をしてたとか。米内光政とは盛岡中学の同窓で大佐で予備役。
右は、重傷を負いながらも不屈の闘志と愛国心で責任を果たし、そして死んでいった小堤少尉。

梅津美治郎
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最後の参謀総長。早くに夫人を亡くしたが後添えは貰わなかった。参本勤務時代、彼が使う三宅坂のバス停で女学生が騒いでたとか。

土橋勇逸
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中佐時代、陸軍省の小使いに中尉と間違えられた人。写真は中将時代だが、確かに若々しい。自伝でみずから、私は美少年だったと書いてる。

樋口季一郎
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第五方面軍司令官として北の守りを任されていた将軍。写真は任官間もない頃。

服部卓四郎
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参本第二課長として事実上大東亜戦争の作戦責任者。剛直な美丈夫(by有末精三)。

西村敏雄
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地方幼年学校、中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校の4つをすべて首席で卒業した陸軍屈指の秀才。この四冠王は彼の他には藤室良輔、高島辰彦、原四郎しかいない。

西竹一
nishi143.jpg nishi144.jpg

ロサンゼルスオリンピック金メダリスト。派手なプレイボーイ。硫黄島で戦死した。

島田豊作
shimada003.jpg

スリムの殲滅戦を演出したサムライ戦車隊長。戦後は母校の教師になった。