近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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佐々木二郎『一革新将校の半生と磯部浅一』より

裁判長若松只一中佐は、
 「大蔵大尉ともあろう者が、先に肯定したものを今に及んで否定するとは、どういうことか」
 ときめつけた。この文句は、それこそ若松中佐ともあろう者の言ではない。このような、人を辱しめるごときいい方は、ことに裁判において、誇り高き武人に対してするものではない。返事のしようもなく、ただただ罪に陥れんがための悪魔の言葉になるのだ。
 「ちょっと待って下さい」
 と、大蔵は考え込んだ。やおら顔をあげた大蔵は、
 「戸山学校時代、校長渋谷中将は(大蔵は手でその恰好を示しながら)世の中はクルッと小さく早く変るものじゃなく、大きくゆっくりと変るものじゃと私にいいました。今度私か東京に護送される途中、京都駅で求めた新聞で満州にいた中将の逝去を知り、感慨無量でした。-どうですかわかりましたか」 「否、さっぱりわからん」
 若松裁判長の答えに判士以下、しばらくは笑いを噛み殺すのに苦労した。しかし大蔵なればこそ、この名答弁ができたのだと、私は笑いながらも思った。

上記は私の好きな一節です。
「世の中はクルッと小さく早く変るものじゃなく、大きくゆっくりと変るもの」
いい言葉です。小学館の『二・二六事件秘録(三)』にこのやりとりが載っているかなと思って、開いてみましたが、どうも省略されているよう。ちなみに第五回の公判で大蔵大尉は、例え話が多く話が冗長であると若松裁判長から注意を受けています(笑)。勿論そんなもの意に介する大蔵大尉ではありませんが。
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朝日新聞大阪版2月27日朝刊より

 相沢中佐は陸軍部内の皇道派の急進派で、事件直前まで広島県福山市の歩兵第四十一連隊に所属。台湾への転出が決まっていたが、赴任前に上京して事件を起こした。
 資料は全15回分の公判記録をとじた230ページのファイルで、東京の憲兵司令部から旧満州国新京市(現・長春市)にあった関東軍憲兵隊司令部に送られた。当時の司令官は後に首相となる東条英機で、決裁欄に「東条」の印が残る。戦後、同司令部の庭に埋められていたのが見つかり、吉林省當案館が保存していた。
 相沢事件の公判は原則公開のもと、36年1月28日から2・26事件前日まで計10回聞かれた。事件後、完全非公開で同年4月22日に再開され、同年5月7日の第15回公判で死刑が言い渡された。
 文書によると、相沢中佐は犯行の動機を、「自分カ決行セハ悪イ者ハ皆悔悟シテ新シキ世ノ中トナル」(2月4日第4回公判)と供述。「官民一体トナリテ大御心(天皇の心)ニ副ヒ奉リナハ昭和維新ハ招来スルモノト思料ス」(2月6日第5回公判)などと説明し、天皇周辺や軍内部から財閥や政党の影響を排除するよう訴えている。
 第10回公判までの弁護は、陸軍大学校教官の満井佐吉中佐や、法曹界で国家主義運動の中心的存在だった鵜沢総明・貴族院議員が担当した。
 2月25日午後、満井中佐の弁論は3時間に及んだ。「今ヤ農村ノ負債ハ60億(円)以上ニ達シ然モ農村一人ノ所得収入ハ年平均百八十円内外(物価指数の比較で現在の11万円程度に相当)」と述べ、多くの兵の出身地である農村の困窮を強調。 「是等兵卒ノ直接教育ニ任シアル青年将校カ農村救済ノ革新的念願ヲ生スルコトハ必然的」としたうえで、「危局ヲ打解スル為メニハコノ行詰リノ『癌』タル大財閥ノ独専支配ヲ廃シ国家全体本位ノ経営ニ入ルヘキナリ」などと論じた。
 中断後初の第11回公判は、2・26事件の青年将校を裁く特設軍法会議の初公判の5日前の36年4月22日だった。相沢中佐は永田軍務局長について 「陸軍大臣補佐ノ責任乏シキコト」「青年将校ノ会合ヲ禁止セルコト」の理由で殺害を決意したなど改めて供述。一方で皇道派の真崎甚三郎大将は
「実ニ尊イ方テ皇軍中今後不世出ノ人格者テアル」と称賛したと記した。
 結審した5月2日の第14回公判。弁護人による弁論の後、裁判長から言いたいことがないかと問われた相沢中佐は「尊皇絶対ノ信念ニハ変リナク益々皇室ノ弥栄ヲ析リマス」と述べ、涙を流しながら手記を朗読したと書かれている。
 当局側の記録としては、36年と38年に作られた内務省警保局の部外秘資料があるが、今回の資料より簡略だった。


他に須崎愼一教授が、(相沢中佐が)意外に冷静だとコメントを寄せている。同教授に関しては、『二・二六事件―青年将校の意識と心理』は大変良かったのだが、藤原書店の『二・二六事件とは何だったのか』は案外な内容でがっかりしたものだ。

  
安藤輝三大尉が鈴木貫太郎大将を訪ねたのは、二・二六事件の2年前の昭和9年1月下旬のことでした。このとき大尉は日頃の所信を大将にぶつけました。その中で当然、農村の疲弊も訴えました。それに対し大将は、次のように答えました。

今陸軍の兵は多く農村から出ているが、農村が疲弊しておって後顧の憂いがある。この後顧の憂いのある兵をもって外国と戦うことは薄弱と思う、それだから農村改革を軍隊の手でやって後顧の憂いのないようにして外敵に対抗しなければならんといわれるが、これは一応もっとものように聞こえる。しかし外国の歴史はそれと反対の事実を語っており、いやしくも国家が外国と戦争するという場合において、後顧の憂いがあるから戦ができないという弱い意志の国民ならその国は滅びても仕方があるまい、しかしながら事実はそうではないのだ、貴君はフランスの革命史を読んだことかおるかと反問したら、それはよく知りませんという、それではそのことの例を引いてお話しましょうと、フランスの帝制が倒れ共和制になったので他の国々は、それがうつっては困るというのでフランスの内政に干渉し軍隊を差し向けた、フランス国民はその時どうしたかといえば、たとえ政体はどうでも祖国を救わなければならないと敵愾心を振るい興こし、常備兵はもとより義務軍まで加わって国境の警備について、非常に強くまた勇敢に列国の侵入軍に対抗した、その時のフランス兵の一人一人について考えてみると、自分の親兄弟は政治上の内訌からギロチンに臨んでいるものもあり、また妻子が飢餓に瀕している者もあった、ナポレオンが太っているのを見て、お前はそうふとっているがお前は私に食を与えよと強要した一婦人もあるくらいでしたが、フランスの国境軍は熱烈に戦闘した、それが祖国に対しての国民の意気であった、そしてついにナポレオンのような英傑が出てフランス国民を率い、あれだけの鴻業を建てた、これはフランスの歴史において誇りとしているところである。
 しかし日本の民族が君がいうように、外国と戦をするのに、後顧の憂いがあって戦えないという民族だろうか、私はそうとは思わない。フランスくらいのことは日本人にできないはずがない。その証拠に日清、日露の戦役当時の日本人をご覧なさい、あの敵愾心の有様を、親兄弟が病床にあっても、また妻子が飢餓に瀕していてもお国のために征くのだから、お国のために身体を捧げて心残りなく奮闘していただきたいといって激励している、これが外国に対する時の国民の敵愾心である。しかるにその後顧の憂いがあるから戦争に負けるなどということは、飛んでもない間違った議論である、私は全然不同意だと。

安藤大尉はこれを聞いて、非常に納得して帰ったといいます。しかし結局のところ、この答えは大尉にとって50点だったのではないでしょうか。勿論彼がこういう聞き方をしたから、貫太郎大将もこう答えたのですが。安藤大尉は、除隊していく兵隊のために、自ら就職先を探してやるような人でした。大尉は、一朝有事の際、召集された彼らが心置きなく戦い、死ねるようにと、そのようなことをしていたのでしょうか。勿論軍人ですからそういった考えも持っていたでしょうが、もっと素朴に、目の前の貧困に対する苦悩もあったのではないでしょうか。貫太郎大将の言葉の正しさは、後に大東亜戦争が証明しました。貧しい家々から召集された兵隊達は、人間の限界を越えた艱難辛苦の中、戦いました。しかし、今現在目の前で苦しむ貧しい家の兵隊達を預かる安藤大尉にとって、それはすべての答えにはなり得なかったのではないかと思います。

「前島、お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある。中隊長殿はいつ蹶起するんです。このままでおいたら、農村は救えませんといってね。農民は救えないな、オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげてくれ。二人の曹長は立派な人間だ、イイか、イイか」



事件当日、鈴木邸を襲撃した安藤大尉は、とどめをさそうとする部下を制し引き上げ、奇跡的に一命を取り止めた鈴木は、後に首相として大東亜戦争の幕を引きます。事実は小説より奇なり。しかしそのあまりの数奇さゆえに、二人の間に過剰なストーリーが出来ているのではないかなと、ふと思い、つらつらと書きました。72年前の午前零時、安藤輝三大尉は第六中隊に非常呼集をかけます。


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教育基本法改正案が可決された。しかし皮袋を新しくしても中に注ぐ酒が古いままではあまり意味はなかろう。教師がどう変わるかが大事だ。まあ変わらなくても良い人も沢山いるだろうが。しかし幸いというか何というか、私などは小中高と通して見ても、それほど狂った教師には巡り合わなかったように思う。のであまり日教組とか言われても実感が無いというのが正直なところ。尤も、いるにはいたが”本業”が忙しくて我々生徒に接する機会があまり無く、気付かなかっただけかもしれないが。

ところで常岡滝雄の『大東亜戦争の敗因と日本の将来』を読んでたら、日教組を日狂蛆と書いてあった。中々手の込んだ当て字だ。昔はよく使われたのかも知れないが、私なんかには新鮮で面白く、ついこのエントリを書く気になった。しかし逆方向に行き過ぎて日本狂いの蛆になっても困るわけで。物事程よいバランスが大事。

さて、常岡滝雄は陸士33期で杉本五郎と同期であった。二人は、常岡が工兵のため原隊は違うが、共に第五師団に勤務していた。郷党が派閥に及ぼす影響は周知のことだが、勤務地がそれに及ぼす影響も無視できない。今ほど通信手段が発達していなかった当時としては、これは当然のことだ。第五師団の青年将校たちというのは、その後二・二六事件を起こした東京などの人々とは犬猿の仲であった。杉本大尉などは、相沢中佐処刑の報を聞いて祝盃をあげたというし(末松太平『私の昭和史』)、「二・二六事件の様なものに、我が第五師団からただの一人でも参加するやうな心を持った者を出したら、五師団の恥だ。皇軍の恥である」というようなことも云っていたらしい。杉本や常岡等の蹶起将校への反感というのは、結局北一輝への反感に拠るところが大きいようだ。彼等は、北を結局は社会主義者であると見てこれを嫌い、若い将校たちがこれに騙されたことを嘆き、北・西田を極刑に処すべしと叫んだ。

ところで杉本五郎といえば勿論『大義』であるが、私が惹きつけられるのは、「天皇は天照大御神と同一身にましまし宇宙最高の唯一神」といった部分よりも、彼が支那事変の陣中で書いた第十七章だ。彼がどういう心境でこれを書いたのか興味深い。以下太字は摘要。旧字は無視した。
大義明白なる戦争発起も、之に従ふ上下、大義不明分ならば、各々自己を執ってその保存に懸命の努力を終始せん。(八十八字略)万端悉く、皇軍の面目(十八字略)現皇軍が皇化第一線の使徒たること(十五字略)
いきなり検閲だらけだが、言いたいことは伝わる。
皇国の戦争は聖戦なり、神戦なり、大慈悲心行なり。即ち皇軍は、神将、神兵ならざるべからず。此の精神だに徹骨徹髄透徹しあらば、忌むべき皇軍汚辱の自己功名保存の利己的戦争とならざるなり。
彼をして改めてこのようなことを書かしめた北支の戦場の様相思うべし。
世界興亡の足跡を仔細に検討せよ。其の滅亡の最大原因は常に飽くなき利己心、停止を知らざる自己保存ならずや。(四十五字略)国を廃頽に導くものは共産輩に非ず、人民戦線に非ず、乃至社会主義にも非ず。此等の主義は日本精神練磨の大砥石なり。
二・二六で処刑された将校の中には、幕僚ファッショを予言したものもいた。北は”当分戦争してはいけません、特に支那とはね”と言い遺した。
亡国は底なき自己保存、飽くなき利己心にあるのみ。戦争は一身乃至世界の修養なり、利己心滅却にあり、自己保存崩壊にあり。我執無きものにして始めて尊皇絶対、外に向かって御稜威を布伝し得るのみ。軍よ、(十六字略)より脱却せよ。戦は先ず心に向かって開始せよ。一身の維新を計りて、真の日本軍人に蘇生せよ。かくして始めて、軍は、皇軍、将は神将、兵は神兵、戦は聖戦なり。
杉本は昭和12年9月14日、山西省で戦死し、中佐に任ぜられた。皇軍は北支を併呑し、上海を落とし、南京へ雪崩れ込んだ。中佐の手帳にあった絶筆は
汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、尊皇精神ある處常に我在り


余談だが、常岡氏のあとがきによれば、彼は戦後間もなく山岡壮八に徳川家康を書いてくれと頼みに行ったそうだ。そのときは色好い返事を得られなかったが、数年後、新聞小説として徳川家康が始まった。山岡によれば、既に常岡に頼まれたときには、家康を書くつもりで準備をしていたそうだ。山岡は最初それを西日本新聞に持ち込んだが、福岡人の最も嫌う家康を連載したら新聞が売れなくなるということで、之を断ったらしい。それにしても福岡人が家康嫌いというのは何故だろう?


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仕事帰りにふらっとよった古書店で、『一青年将校』という本を購入した。著者は高橋太郎少尉の実弟高橋治郎氏。政情がどうとかそういうウネウネとした話はあまり無しで、兄弟しか書き得ないプライヴェイトな話が多い。只管に兄を思う心情が胸に詰まる。高橋少尉といえば蹶起将校の中でも下から数えた方が早い若さで、事件前史にもあまり登場しない。その割によく知られているのは、高橋太郎というシンプルな名前や、目のクリっとしたハンサムな顔立ちもあるだろうが、やはり彼が遺した文章によるところが大きいのではと思う。「姉は・・・」で始まる日誌(の一部)はあまりにも有名だが、それ以外にもかなりの分量の文書が残っており、河野司氏編の『二・二六事件』などで読める。「覚悟ができていて簡明で立派である」と評したのは中野雅夫氏らしいが、確かに出色と思う。
それにしても今、我々のような単なる好事家ですらこれらの文章を読めるのは、心ある看守や刑務所長、更には岩畔豪雄少将のおかげであり、またそれらを丹念に蒐集された仏心会の努力の賜物であるわけだが、岩畔少将などはどちらかといえば、蹶起将校とは逆の立場にあった人。それが立場を越えて、多くの遺書を焼失の危機から救ってくれたわけだから、さすがは陸軍部内にその人ありと聞こえた岩畔豪雄だなあと、お世辞の一つも言いたくなる。しかしよく考えてみたらこの人は、第28軍参謀長として、名将桜井省三を補佐し、イラワジ河越えの地獄行をやり、途中マラリヤで一時錯乱状態にまで陥っている。軍務局長就任を予定して呼び戻され、部隊に先行していたが、それにしてもよくあのタイミングで陸軍省に居たものだ。河野氏ではないが、執念の為せる業か?
黒崎貞明という人も多事多端な星の下に生まれた人だ。既に士官候補生のときに革新運動にのめりこみ、そのせいで隊付をするとき、受け入れ側の歩43の中隊長が皆彼を嫌がった。しかし近衛聯隊から転任してきた野田又雄が「俺の中隊で預かろう」と引き受けてくれ、少尉任官の詮衡会議も、聯隊長辻権作の勇断によって何とかこれをパスすることができた(このコンビ安彦良和ファンならニヤリとするところだ)。こうして何とか任官できたが、二・二六事件で、関東軍憲兵司令官であった東條英機に一網打尽にされ、下獄。不起訴となるが、その後もノモンハンにガダルカナル、そして最後は津野田・牛島の東條暗殺計画と、派手といえば派手な軍人生活であった。

野田又雄は、十月事件で検束された人の中で唯一の非幕僚である。鉄血章やらなんやらの問題で、青年将校たちが次々と離反していく中、彼が橋本欣五郎の側に残った理由はよく判らない。年齢的に云えば、彼は大岸頼好と同期であるから、まあぎりぎりではある。橋本一派と菅波三郎たち若手の間の出来事については、渦中にいた末松太平の『私の昭和史』に詳しい。しかし末松大尉にしても大蔵栄一大尉にしても、橋本らとは袂を別ったが、野田への好意には変わるところがないように見える。大蔵大尉は『二・二六事件への挽歌』のなかで、”快男児 野田又雄”という一節を設け、其の人柄を懐かしんでいる。大蔵によれば、野田はこのころからジョンジュルジャップと付き合いがあったそうだ。昭和12年、満洲国軍附となる。事件の余波を受けた人事といっていいだろうと思う。ノモンハン事件で受傷し、翌年死ぬ。『虹色のトロツキー』という漫画に、この頃の彼が出てくる。
 


気になるといえば、田中弥大尉も気になる。橋本四天王※の一人でありながら、二・二六事件で起訴され、拳銃自決。その経歴といい最期といい、もう少し研究されても良いと思うんだけどなあ。末松大尉の本を読む限り、田中は橋本の郎党ではありながらも、性質的に橋本やとやや合わないところがあったのではないかと思う。嫌疑は叛乱幇助。陸士33期のトップであった。
 ※橋本の手記の写しを受け取った4名を指して、私が今勝手に命名。
  長勇、小原重孝、田中弥、天野勇


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