近衛読書中隊

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銀時計の特攻―陸軍大尉若杉是俊の幼年学校魂 (文春新書 644)

以前このブログで触れたことのある若杉是俊少尉に関する本が出ていた。まったく驚いたが、勿論すぐ購入して読み終えた。村上兵衛さんの本に出てくる話も多いが、遺書は初出だろう。私にとっては期待以上の内容だった。また広島の幼年学校で若杉の生徒監だった益田中佐についても一章割かれており、そちらもよかった。
殉義隊 若杉是俊少尉

さて本筋からはずれるが、益田中佐が尊敬して止まなかった先輩に松谷磐という人がいた。あまり知る人はいない名前だろうし、私もただ一点、この人が、樋口季一郎橋本欣五郎が神楽坂の料亭で喧嘩別れしたとき(このとき酔った橋欣は樋口にビール瓶を投げつけた)、樋口に付き添っていたということしか知らない。本書によればこの松谷中佐は、非常に熱心な法華信者で、軍隊内でも戦場でも太鼓を叩きながらお題目を唱えて歩くことで、「太鼓の松谷」として知られていたそうだ。これを読んで私はちょっとありゃっと思った。というのもやはり以前ここで書いたことの有る棚橋信元の『神がかり参謀』という本に次のような一節があるからだ。

「現役中、何遍注意をうけても、静岡の街の中をタイコを叩いて歩き、遂に予備役となった、日蓮宗狂信の大隊長がおられる筈ですが、その方の戦闘振りは如何ですか?」
と、興味をもって尋ねたところ、連隊長は、顔の前で右手を左右に振り、首でイヤイヤしながら
「テンデ、問題になりませんなあ・・・・これに反して、陸軍戸山学校で、剣道教官をしたことのある大隊長は、流石に立派です。計画といい、実行といい大したもので、何時も大きな戦果を収め、模範大隊長ですよ」

上の会話は、棚橋が漢口攻略戦の後に第15師団を大本営参謀として訪れた時のものである。松谷さんも樋口によれば静岡の聯隊にいたそうであり、漢口攻略などに大隊長として参加している。勿論別人の可能性もあるが、しかし私は、支那事変の性質から言っても日本軍の体質から言っても、この聯隊長の酷評は下された本人にとって何等恥ずべきものではないと考える。実際松谷中佐は部下に対し、「軍人だからといって、たくさん人を殺して勝つのは仏様のお心に背く。」と言っていたそうだ。
先月読んだ本の書評。済ませごとみたいであれだけど。

『レイテの名将 片岡董』細田 昌
レイテの第一師団長片岡董中将の評伝。彼の実家は城崎の旅館、三木屋
志賀直哉は片岡の実家に逗留して『城崎にて』を書いたそうだ。
戦後、レイテで彼の師団と相対した米国軍人が、わざわざ訪ねてきたが、その名前をフルベッキといった。彼の祖父はあのフルベッキ

『町尻量基追悼録』
インドシナ駐屯軍司令官町尻量基中将の追悼録。中将は壬生家の三男で、大正3年に町尻家を継いだ。実父は七卿落ちの壬生基修。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mibu_mo.html
長女は天覧試合優勝の野間恒に嫁いだが、野間は夭折した。
http://episode.kingendaikeizu.net/26.htm
小学生のとき京都から、学習院に転校してきた。学習院そばの石光真臣(真清の弟)の家にピンポンダッシュをして遊んでいたら、ある日門内で待ち伏せされて、みんな捕まったということがあった。
温厚で頭脳明晰な君子人のため、少し難しい役職に、火消し的に使われることがまま
あった。同期の石原莞爾とは大変仲が良かった。頬のコブが命取りとなり、終戦後まもなく逝去。

『荒木将軍の実像』橘川学
荒木貞夫の評伝。高宮太平の『昭和の将帥』に、林銑十郎が陸軍大臣を辞める辞めないで騒ぎになったとき、偶々彼(高宮)が真崎邸で、真崎甚三郎と荒木の電話を盗み聞きしたときの話が出てくる。しかし、この本の著者は、あれは高宮が最初からそのつもりで、酔った振りをして真崎邸の押入れで狸寝入りを決め込み、他の記者が帰るのを待っていたと書いている。まあどっちでもよい話だが。
ちなみに荒木家は無茶苦茶貧乏だったが、彼が醤油屋の丁稚をしていたというのは嘘との事。

『8月17日、ソ連軍上陸す』大野芳
まだ精読はしていない。
題名の通り占守島の戦いの話だが、それだけではなくアッツの玉砕など、あの方面の戦いは一通り触れられている。占守島の戦いは当ブログでも何度か触れてきたが、改めて、なかなか難しいなと思った。遺された方々の間には、記憶にも感情にも行き違いがあるようだ。





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『追想 陸軍少将 谷川一男』
昭和29年に55歳の若さで逝去された谷川一男少将の追悼録。発行者は御子息。追悼文を寄せている旧陸軍軍人の面子がなかなか豪華。

少将は元来文学や哲学を愛好する人であったが、家計の関係から官費の陸士に進んだというのは、小倉中学の同窓、吉田敬太郎氏(若松市長など)の言葉。この話は、谷川が2年間仕えた第八方面軍司令官今村均大将とも共通する。今村もまた、父の死で二高を諦め、陸士へ進んだ。


少将は陸軍航空の開拓者として、特に部隊運用に関して非常に大きな足跡を残した。そのため人は彼を、陸軍大学校の基礎を作ったヤコブ・メッケルなぞらえ、谷川メッケルと呼んだ。

二・二六事件では、判士として被告を裁く一方、彼らのために弁明書を書くなどしていたそうだ。

「あんなに愛国に志した若者をむざむざ処刑する羽目になって」

という言葉を、ソ連で一緒だった森正蔵夫人が覚えている。

次の「星夜雑感」という文は開戦当初、南方軍参謀であった時に書かれたものである。

 南国の星夜宿舎の屋上に坐して想念遥かなり。北極星地平に近く南十字星光燦たり。此の作戦も幸に極めて順調なる進展を見たるが、残るはただバタンとビルマのみ、バタンは時機の問題たるべくビルマは如何にしてマンダレー殲滅戦を鮮かに手際よく指導するかに顧慮あるのみ。
 帝国将来の経綸は如何。次で来るべき戦争指導の方案は如何。
 濠州、印度、ハワイの攻略の要否能否、北方ソ連に対する見解、支那事変の今日における意義と其解決の方途如何。
 地図を凝視すれば本作戦を契機とし僅か三ケ月に時勢一転し舞台改まり、三千年の歴史を通し情勢未曽有の変転を果せるに、自ら深き驚異を感ずるものあり。而かも一脈沈痛なる気持の我が胸を圧するものあり。万有は流転す。世に常住あるなし。栄ゆる者必ず衰うるは歴史の示す不滅の鉄則なりとすれば、流転の中に拠て以て立つ不変の真理は何ぞや。伸展せし国力を歴史の教ふる運命の流れに抗して、永遠不朽に生々発展向上せしむる事可能なりや。帝国のみ歴史の例外たり得べきや。可能なりとすれば其方途如何。我子孫の何れかの時機に、今日の国力の進展が圧迫退縮せしめらるる時ありとすれば之果して忍び得べき事なりや。或は謂ふ、永遠に発展するの途は「道義」立国にありと。帝国の拠て以て立つ道義とは何ぞや。深思省察真に思を砕くべき事項なりとす。
 人或は帝国の「神秘性」を謂ふ。或は然らん。世に奇蹟なしとは断じ得ざればなり。然れども万有流転の不滅の鉄則は、厳として我が心を圧するものあり。
 不滅とは何ぞや、永遠とは何ぞや、沈痛切なるものあり。
 順調の秋必ず逆境を思ふことを忘るべからず。敗戦の味を知らざる将帥は、断じて名将に非ず。

原四郎中佐の追悼文より抜粋



ラバウルで田中耕二は、

「この戦争は残念乍ら負けるだろう。然し誰が総理であったとしても、恐らく日本はこの戦争に突入したであろう」

という少将の言葉を聞いている。昭和20年に大本営参謀に転補されると、聨合艦隊参謀副長も兼任した。



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半藤一利、保阪正康両氏の対談をまとめた『昭和の名将と愚将』という本が出ていた。取り上げられているのはいつもの面子なので、立ち読みで済ませた。

しかし文句ばっかり言っていてもあれなので、自分でも私的(わたくしてき)昭和の名将をリスティングしてみる。名将といいながら、将官に拘っているわけではなさそうなので、遠慮なく尉官からも選ぶ。

どう見ても好みで選んでます。本当にありがとうございました。


先のエントリで突然、昭和13年1月15日の大本営政府連絡会議の模様を取り上げましたが、別に深い意味があったわけではありません。ただ外交というのは難しいなあというだけです。十分現在でも参考になる話ではあると思いますが。

で、三つ前のエントリでは棚橋茂雄と、彼がやっていた(と称する)対米工作についても書きました。(棚橋曰く)これを最も妨害したのが岩畔豪雄であったということも。しかし運命というか、その岩畔も昭和16年に対米交渉の最前線に立つことになります。この、井川忠雄と彼の工作は、棚橋のそれよりずっと有名なので、御存知の方も多いと思いますが。

というわけで今日の一冊はこれ。

著者は岩畔少将の親戚だそうです。ですので3分の1ぐらいは少将の伝記のようになっています。肝腎の日米交渉についても良く纏まっていると思います。武藤章こそ、陸軍内で数少ない彼らの後援者であったと著者は書いておられますが、この点は私もその可能性が高いと思います。ちなみに私は、武藤と岩畔は、性格の違いはともかく、その閲歴からその蹉跌に至るまで、共通点の多い二人だと、以前から思っていました。二人の良さというのは、思い切った方向転換ができる点にあると思います。陸軍が続いていれば、いずれも陸相になったでしょう。大事な時期に、二人ともが東京から遠く離れた場所に居たのは、残念です。ついでにいうと、武藤の近衛師団長転出も、岩畔と同じく、一種の左遷風味の人事であるとする人もいます。



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工藤美代子『昭和維新の朝 二・二六事件と軍師斎藤瀏』日本経済新聞社
二週前くらいに購入し、一週前には読み終わっていたのですが、感想が遅くなりました。斎藤瀏とその娘の斎藤史の著述を中心に構成されていますが、所々挿入される著者の歴史観がやや気になるという人は居るでしょう。全体としては、毒にも薬にもならないという感じです。無理矢理新機軸を打ち出そうとして、結果として人の心をぐちゃぐちゃにするような人もいますので、これは褒め言葉ですよ。でも理想はやはり斎藤親子の残した本を直接読むことです。これを期に再販とかになれば嬉しいのですが。

まだ今回のお召しを受けるかどうか迷っていたとき、岡野史彦が史に説得の電話を掛けてきた。前年の夏である。
「陛下はその後も勉強しておられるご様子です。例の事件のことを」

「あの歌は、どこでどういう気持ちで作られたのですか」
「いつもの歌作りと同じに、平常心で詠ったつもりでございます」
「お父上は瀏さん、でしたね・・・・・・」

陛下というのは今上陛下を指しますが、恐らく勉強ということなら、先帝陛下もされていたと思います。


ところで最後に、この本にも出てきますが、「秩父宮万歳」を叫んだ将校について。安藤輝三大尉であるというのが通説ですが、保阪正康氏が秩父宮と昭和天皇で、「いや実は栗原安秀中尉だ」という処刑に立ち会った某少佐の証言を引き出していますね。私は正直どちらでも良いと思うのですが、ただ
「安藤がそんな宮様に迷惑のかかるようなことを言うはずがない」
  ↓
「いや実は栗原でした」
みたいな流れが凄く嫌ですね。森田大尉の安藤大尉を思う気持ちも分かりますが、私は安藤大尉が言ったとしてもおかしいとは思いませんし、又それが大尉の遺徳を傷つけるとも思いません。安藤大尉は憤死したのですよ。