近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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「用心もせず、恐れもせず、あんなにはっきりあの政権を拒否した人を、私はほとんど知らない」

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正堂会編『落合豊三郎と孫子の兵法 正々堂々と生きた男の記録』

正堂会とは落合の孫で構成された団体である。本書が出た時の代表は嫡孫の落合秀正氏であり、執筆者は岡崎清氏である。落合秀正氏といえば陸士56期で、高木俊朗の『ルソン戦記』の実質的主人公であるから、ご存知の方も多いだろう。ちなみに山崎豊子の『二つの祖国』でケンジとタダシがフィリピンの戦場で合間見えるシーンがあるが、あれは、秀正氏の部下の緒方明軍曹と日系二世ハリー福原氏への取材で完成したものである。あの本でタダシの中隊長(?)が落野という大尉だったと思うが、これはおそらく”落合”から来ていると思われる。岡崎清氏は落合豊三郎の三女の息であり、父は岡崎清三郎中将である。この母上は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んで憤慨して入院してしまったそうである。『坂の上の雲』に関しては、秀正氏が一族を代表して、落合の著書『孫子例解』を持って司馬氏を訪れ、抗議ではなく、どのような根拠で書かれたのか尋ねた。その結果、司馬氏は「首山堡と落合」という短文を書き、彼への評価を改めた。ついでに書くと、秀正氏の母の父は高柳保太郎中将である。この人は、ロシア畑を歩んだが、芸者に恩賜のタバコをあげたことが新聞沙汰になり、待命になった。なんでもこの芸者がロシア情報を齎したことへの謝礼であったらしい。

落合は14歳で幼年学校に入り、18歳で工兵少尉に任官した。士官生徒時代、工兵の同期は9人いたが、トップは上原勇作、落合は最下位であった。しかし落合は最年少、上原は5歳上の最年長であったのだから、いたし方ないという、本書の言い分も肯ける。

上原が生涯のライバルなら、生涯の親友は榊原昇造であった。二人は晩年まで交流があり、榊原はしばしば落合家にやってきて門前で「頼もう、頼もう」と大声を出していた。榊原の残した人物評がのっている。

鳥尾は自分の学問、自分の言論を持っていた。三浦は長州人の中の一人の英雄であったが、俗吏ではなかった。だから長州人だからといって贔屓することはなかった。当時最も有名で人が見れば誰でもお辞儀をするのが谷干城さん。曽我さんは口は巧くないが、性質は非常によい人であった。
長岡は口も八丁、手も八丁という男で、口も汚いし書くことも汚い。人の嫌がることを造作なくやる男だった。浅田は空論ばかりで威張るのが得意であった。とにかく言うことは汚いが、身振りが巧かった。早川も相当に威張っている男であった。



落合は工兵であったが、馬術に優れていた。曽田孝一郎は

朝の七時にいつも背広を着た変な田舎親父が馬に乗っていた。近づいてみると落合将軍(参本第五部長であった)であった。

と言っている。また落合は酒も同期の秋山好古に伍する程強かった。日露戦争戦勝記念に伏見の酒造家から銘酒の名づけを頼まれ月桂冠とつけた。

曽田中将の落合評。

メッケルに学んだ学生で群を抜いていたのは落合と榊原忠誠。メッケルは両大尉は日本陸軍の至宝であると褒め称えた。
落合は寡黙な人であった。寡黙といっても普通の寡黙ではなく、度が過ぎる程寡黙であった。最後に東京要塞司令官に発令されたときに断固として出仕せず、何人かの友人が慰留に訪れたときも、ほとんど口を利かず、囲碁を囲むだけであった。



韓国駐剳軍参謀長時代、軍司令官の長谷川好道の夜の素行を注意して逆恨みされたという。長谷川には東條英教との間にも同じような話があったと思うが、これらが本当なら、よほど素行が悪かったのだろう。しかしこういう人間が元帥になるのが”長の陸軍”であった。

落合の娘婿岡崎清三郎は、秩父宮殿下の渡英に御付武官として従った。第一候補林銑十郎は年寄りだから、第二候補の今村均はイギリス帰りで知ったかぶりをするからと嫌がられ、岡崎になったらしい。今村と岡崎は大東亜戦争のジャワ攻略軍でコンビを組むことになる。

また岡崎は上原勇作の副官も務めたことがあったが(ちなみに今村も上原の副官だったことがある)、そのとき上原は何度か、「落合豊三郎は俺を恨んでいるか?」と岡崎に聞いたらしい。
中島欣也『銀河の道 ”社会主義中尉”松下芳男の生涯』恒文社

芳男の父は下士官上がりの将校であった。新発田の彼の家の側には、第15歩兵旅団副官だった大杉東大尉の家もあった。日露戦争で鬼少佐と謳われる人物であった。大杉が宮城に詰めていた時、何かの際に馬から振り落とされてお濠に落ちた。明治天皇が泥まみれであがってきた大杉をごらんになって、『猿じゃ猿じゃ』と笑い興ぜられたそうである。芳男はその家の次男と仲が良かったが、長男とはその当時はあまり接点がなかった。「栄さん」何かの折に芳男が声をかけると、「おお松下」栄は振り返って無愛想に応えるだけだった。

芳男は仙台の地方幼年学校に進学した。そこには終生の友人となる田中新一もいた。晩年、芳男は仙幼の校史の編纂を手がけている。中央幼年学校を卒業後、田中と二人確実に一緒に行けるところということで、志望者の少ない弘前の歩兵第52聯隊を志望した。二人は志望通り弘前の聯隊で隊付をすることになった。他に加藤鑰平なども一緒だった。

陸士に入学し25期生となった芳男だが、その頃既に軍人社会に絶望し、悶々とした日々を送っていた。大久保に、幼なじみの兄、大杉栄が住んでいることを知り、尋ねている。大杉は、床の間に飾ってあった二本の白鞘の日本刀を示し、「どっちでもいい。一本あげようか」と言った。貰っておけば良かったと、後年芳男は言っている。帰った芳男は、仙幼以来の同期生藤縄作太郎と那須弓雄に、大杉に会ったことをしゃべった。二人も目を輝かせて、今度一緒に連れて行けとせがんだ。藤縄は騎兵科のトップを争う秀才であったそうだが、大杉と会ったことで、みるみる思想的に変化し、区隊長を椅子で殴って陸士を退学、東大哲学科に進んだが、松島湾で投身自殺したそうだ。那須は後にガダルカナルで戦死した。

どうにか陸士を卒業した芳男は、弘前に帰り見習士官となった。すでに札付きであった彼を預かることをいやがる中隊長が多い中、吉岡文蔵という大尉だけが進んでこれを引き受けた。吉岡の人格的統御力によって落ち着いたかに見えた芳男であったが、吉岡の転任でまた元に戻った。あるとき後備の兵隊の教育を任された。その中に非常に優秀な二等卒がいた。下士官であってもおかしくないのに何故二等卒のままなのか。芳男はそのTという人物を呼んで話を聞いた。それによるとTは殺人の刑余者であった。話によれば、彼は現役時代、中隊長に信頼されて酒保の助手として現金を任されていた。しかしふとした出来心からこの金に手をつけ酒食を覚え、あげくに馴染みの芸妓を殺してしまった。Tは終身刑となり、中隊長も名誉進級で少佐となって予備役に編入された。しかしその中隊長は自分の不遇を嘆くこともなく、下獄するTを呼んで「たとえ終身刑であっても、人間どこにいても、命ある限りは、人は人たるの道を踏んでゆかねばならないのだ」と諭した。また獄中への毎月の手紙も欠かすことはなかった。Tはそれを拝んで過ごした。恩赦で出獄すると、大阪に住んでいた元中隊長を訪ね、以後大阪に落ち着き更正の道を歩んでいるという。

「そうか。よくわかった。してその中隊長は、もしや松下亀蔵といわなかったか」
「ハイ、そのとおりであります。ですが中尉殿が、どうしてそのお名前をー」

亀蔵は父であった。芳男は胸が熱くなった。

こんなことがあっても、彼の煩悶は深まるばかりであった。ある日彼は、友愛会の鈴木文治に手紙を書き、自分は社会主義思想を有し、ノルマン・エンゼルに傾倒していることを告白し、友愛会に入り、仙台支部を樹立したいと告げた。ところがこの手紙が東京日日新聞の社会面に大きく掲載された。そういう時代であった。

「社会主義に共鳴し
        将校が軍隊を嫌忌す」
これが主見出しで、わき見出しは、
「歩兵第五十二聯隊の松下中尉
    大杉・堺の諸氏と交はり深く
    友愛会に入会の希望を有す」

新聞を見た時の陸相田中義一は激怒したらしい。芳男は停職になり、そのまま予備役に編入された。

東京に出た芳男は、日大に通い、33歳で卒業した。また片山哲や星島二郎の「中央法律新報」の手伝いもしていた。この時代の吉野作造、穂積重遠、末弘厳太郎らとの出会いが、後に彼が東大で法博となったときにもものを言った。特に尾佐竹猛との出会いは、芳男の進路に大きな影響を与えた。後年彼は、教育総監部の仕事で陸軍教育史などを手がけるが、それには尾佐竹の強いプッシュがあった。勿論親友であり当時陸軍の中枢にいた田中の後押しもあったに違いないが。この仕事は新聞でも大きく取り上げられたが、何故左翼かぶれにやらせるのかという批判も当然多くあった。しかし当時教総の庶務課長だった富永信政が理解ある人物であったため、芳男は救われた。

大杉栄とは親しくしていたが、思想的にはあまりしっくり言っていなかった。堀保子に同情して、彼女に金を貸したりもしていた。貸した金は返ってこなかったが、堀は死ぬ前にタンスと平民新聞一揃えを芳男に贈った。関東大震災のとき、芳男は大杉を見舞っている。彼が訪れた三日後、大杉と伊藤野枝は憲兵隊に連行され、殺害された。子供が一緒に殺されたと知り、先日訪ねたときにはしゃいでいたの娘の魔子ではないかと心を痛めたが、殺されたのは甥の橘宗一であった。

社会主義陣営に身を置きながらも、どこか必ずしもそこに溶け込めないでいた芳男の前に、遂に生涯の師が現れる。水野廣徳であった。戦後間もなく、水野が不遇のうちに病死すると、芳男はその伝記を書いた。そしてその印税をつぎ込み松山に水野の歌碑を、殆ど独力で建てた。

世にこびず 人におもねらず 我はわが
      正しと思ふ道を歩まむ

この歌を選んだのは未亡人と芳男であった。彼はこの歌を終生支えとし、軸にして死ぬまで側に置いた。

去年だったか、マツノ書店から秋山好古、秋山真之の伝記が復刻された。これらの刊行責任者は桜井眞清少将となっているが、実質的な著者は水野であり、また芳男もこれを手伝っている。このことはマツノさんからのパンフレットで、國學院大學の長南政義氏も触れておられる。この二冊が、戦前の軍人の伝記の中でも格段に読みやすいのは、こういったことも影響しているのだ。



随分前に読んだ本だが、時節柄。
著者は仲乗匠。サブタイは二・二六事件秘話「宮城 坂下門内の変」

 その時であった。いつの間にか長身の将校外套の男が一団をすりぬけて中橋の前に出た。その襟章は「1」、赤坂第一聯隊の将校である。
「お帰り―」男は一言、それだけ言うと黙したまま、中橋と握手をし、互いに見合っている。近歩三の将校は、この男二人の奇妙な応対に気圧されていた。ややあってその間隙をぬうように、中橋が告げた。
「申しわけありません。隊にはのちほどうかがいますので、一足先に始めておいてください」
 そして二人は、まるで余人は眼中にないかのように、返事も待たずに出口の方へ歩き出していた。

本書は刑死した中橋基明中尉に関して、弟氏の思いを中心に描いている。中橋は埼玉青年挺身隊事件に関わったせいで近歩三から豊橋の一八聯隊に異動となった。この未遂事件の首謀者は、中橋の中学以来の親友栗原安秀中尉。中橋が聯隊の見習士官に話したところによると、首相には柳川平助、陸相には小畑敏四郎を据えるという計画であったそうだ。柳川は栗原にとって同郷の大先輩であり、父勇大佐の同期であった。上はその中橋が、歩一八から原隊である近歩三に復帰することとなり、日本に帰ってきたときの描写である。聯隊の将校を差し置いて中橋をさらったのは勿論栗原。二人は中学の同窓であり、おなじように高級軍人を父に持ち、端麗な容姿と多彩な趣味、共に下戸であるところまで良く似ていた。栗原もまた中橋に先立ち原隊である歩一に千葉の戦車聯隊から復帰していた。これらの人事を為したのは、荒木派と目された補任課長小藤恵大佐であった。小藤大佐が池田俊彦少尉に語ったところによると、栗原に関しては、戦車を持ち出して暴れられては困るということで、どこかへやるということであったが、どこも受け入れる聯隊が無いので、自分が次の聯隊長になると内定している歩一にやったとのことであった。著者は、外の小藤人事の例として、武力発動に否定的であった菅波三郎、大蔵栄一、大岸頼好を遠隔地に逐ったと書いているが、この表現には疑問が残る。

似たもの同士の中橋栗原であったが、事件後の両者の父親の態度には差があった。栗原勇大佐は、遺族の世話人のような役を務めた。在郷とはいえ陸軍大佐であるから、他の遺族は心強かったのではないだろうか?一方中橋の実父垂井明平少将は、少なくとも表面上は中橋を突き放した。陸大にも進まず、ダンスやスケートに明け暮れ、あの”フロリダ”にまで出入りしていた息子に失望していたのだろうか。末弟の武明氏はそのような父の態度に飽き足らなかった。ただ、氏も「兄は国家革新なんてガラじゃなかった」と考えていたようだ。こういう人は他にもいる。高橋太郎少尉の弟治郎氏もそのようなことを書いておられたと思うし、事例は違うが田中静壹大将の奥様は、宮城事件のとき大将が蹶起将校を大喝したというのが信じられないと言っておられたそうだ。しかし軍人は大声を挙げるのが仕事だ。例え家でどれほど穏やかな人であろうとも。西郷さんの奥さんは上野の銅像を見て、「主人はあんな格好で外出しない」と従道さんに言ったそうだが、これはちょっと違うか。ともかく家庭での姿はその人の重要な一面であっても総てではない。

性陰険にして明朗を欠き、口舌巧にして外容の華美を好むこと甚だしく、性行浮薄にして自尊心強く、何事も自己一人の功績の如く他人に誇る傾ありき。


こんな酷いことを書かれている人は他にいない。処刑のときも中橋だけ三発の銃弾をくらっている。それについても何かあるんじゃないかと勘ぐりたくなるほど、酷い扱いだ。それほど中橋という人は陸軍村では浮いてしまっていた。しかし残された文章などを仔細に読むに、決して彼は格好だけの惰弱な人間ではない。国家革新への情熱の炎は確かに彼の中にはっきり燃えていたと思われる。


銀時計の特攻―陸軍大尉若杉是俊の幼年学校魂 (文春新書 644)

以前このブログで触れたことのある若杉是俊少尉に関する本が出ていた。まったく驚いたが、勿論すぐ購入して読み終えた。村上兵衛さんの本に出てくる話も多いが、遺書は初出だろう。私にとっては期待以上の内容だった。また広島の幼年学校で若杉の生徒監だった益田中佐についても一章割かれており、そちらもよかった。
殉義隊 若杉是俊少尉

さて本筋からはずれるが、益田中佐が尊敬して止まなかった先輩に松谷磐という人がいた。あまり知る人はいない名前だろうし、私もただ一点、この人が、樋口季一郎橋本欣五郎が神楽坂の料亭で喧嘩別れしたとき(このとき酔った橋欣は樋口にビール瓶を投げつけた)、樋口に付き添っていたということしか知らない。本書によればこの松谷中佐は、非常に熱心な法華信者で、軍隊内でも戦場でも太鼓を叩きながらお題目を唱えて歩くことで、「太鼓の松谷」として知られていたそうだ。これを読んで私はちょっとありゃっと思った。というのもやはり以前ここで書いたことの有る棚橋信元の『神がかり参謀』という本に次のような一節があるからだ。

「現役中、何遍注意をうけても、静岡の街の中をタイコを叩いて歩き、遂に予備役となった、日蓮宗狂信の大隊長がおられる筈ですが、その方の戦闘振りは如何ですか?」
と、興味をもって尋ねたところ、連隊長は、顔の前で右手を左右に振り、首でイヤイヤしながら
「テンデ、問題になりませんなあ・・・・これに反して、陸軍戸山学校で、剣道教官をしたことのある大隊長は、流石に立派です。計画といい、実行といい大したもので、何時も大きな戦果を収め、模範大隊長ですよ」

上の会話は、棚橋が漢口攻略戦の後に第15師団を大本営参謀として訪れた時のものである。松谷さんも樋口によれば静岡の聯隊にいたそうであり、漢口攻略などに大隊長として参加している。勿論別人の可能性もあるが、しかし私は(これが仮に松谷を指しているとして)、支那事変の性質から言っても日本軍の体質から言っても、この聯隊長の酷評は、下された本人にとって何等恥ずべきものではないと考える。実際松谷中佐は部下に対し、「軍人だからといって、たくさん人を殺して勝つのは仏様のお心に背く。」と言っていたそうだ。こんなことを言う人が、聯隊長の覚え目出度かった訳も無し。
先月読んだ本の書評。済ませごとみたいであれだけど。

『レイテの名将 片岡董』細田 昌
レイテの第一師団長片岡董中将の評伝。彼の実家は城崎の旅館、三木屋
志賀直哉は片岡の実家に逗留して『城崎にて』を書いたそうだ。
戦後、レイテで彼の師団と相対した米国軍人が、わざわざ訪ねてきたが、その名前をフルベッキといった。彼の祖父はあのフルベッキ

『町尻量基追悼録』
インドシナ駐屯軍司令官町尻量基中将の追悼録。中将は壬生家の三男で、大正3年に町尻家を継いだ。実父は七卿落ちの壬生基修。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mibu_mo.html
長女は天覧試合優勝の野間恒に嫁いだが、野間は夭折した。
http://episode.kingendaikeizu.net/26.htm
小学生のとき京都から、学習院に転校してきた。学習院そばの石光真臣(真清の弟)の家にピンポンダッシュをして遊んでいたら、ある日門内で待ち伏せされて、みんな捕まったということがあった。
温厚で頭脳明晰な君子人のため、少し難しい役職に、火消し的に使われることがまま
あった。同期の石原莞爾とは大変仲が良かった。頬のコブが命取りとなり、終戦後まもなく逝去。

『荒木将軍の実像』橘川学
荒木貞夫の評伝。高宮太平の『昭和の将帥』に、林銑十郎が陸軍大臣を辞める辞めないで騒ぎになったとき、偶々彼(高宮)が真崎邸で、真崎甚三郎と荒木の電話を盗み聞きしたときの話が出てくる。しかし、この本の著者は、あれは高宮が最初からそのつもりで、酔った振りをして真崎邸の押入れで狸寝入りを決め込み、他の記者が帰るのを待っていたと書いている。まあどっちでもよい話だが。
ちなみに荒木家は無茶苦茶貧乏だったが、彼が醤油屋の丁稚をしていたというのは嘘との事。

『8月17日、ソ連軍上陸す』大野芳
まだ精読はしていない。
題名の通り占守島の戦いの話だが、それだけではなくアッツの玉砕など、あの方面の戦いは一通り触れられている。占守島の戦いは当ブログでも何度か触れてきたが、改めて、なかなか難しいなと思った。遺された方々の間には、記憶にも感情にも行き違いがあるようだ。





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