近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

大山柏『金星の追憶』

当時陸大兵学教官で最も口の悪い工兵出身の高○中佐(十七期)がいた。この人は頭が余りにも鋭ど過ぎて剃刀の様で、常に辛辣な批判をするので往々誤解を受け、為に有為の材を持ちながら陸軍生活も短命に終った人であり、「口は禍の元」を地でいった人である。しかし不思議なことには私とは別懇の間柄で、今以て(昭和三十八年)尚音信を通じ、同氏の居所を十七期会に通報したのも私なのである。
 さて私が殿下に御供しているときは、よく金武官と並んで歩く。すると例の高○中佐、何んでこれを見逃そう。私共が行遇った途端に大声で私に向い「銀武官!」ときた。並みいる連中ドット笑う。なる程にわか分限の御附きだから、本職の金武官に対し銀武官は誠に当意即妙。いや皆んなが悦ぶのなんの。それからは皆んなで私を銀武官と渾名してしまった。だが殿下だけは全く御存知なかった。

今その場所をハッキリ記憶していない。恐らく富山近所だったかと思う。在郷軍人会の面々が殿下に御手植の御願にきた。担任教官(香月中佐と記憶する)と交渉、これは私がした結果、某月某日昼食休憩時に行われることになった。その日がきた。私が丁度折悪く殿下の御側にいた時だった。在郷軍人分会長の中尉殿、直立不動の姿勢も厳格且つ大声に「銀武官殿! 御手植の準備が完了しました」ときた。これには殿下御自身が余程驚かれたらしく、私が未だ嘗て聞いたことがない怒声を以て「ここにおられる方は銀武官ではありません。大山大尉です」で、気の毒したのは分会長、目を白黒している。彼氏は私を銀と堅く信じ、何んの疑もなかったのだ。

著者は大山元帥の跡取りで母は山川捨松。文中の殿下は王世子李垠殿下のことであり、金武官というのが、宇都宮太郎に育まれた金吾こと金応善である。というわけで、ぼつぼつ宇都宮日記第三巻に取り掛かりたい。
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辻政信の『潜行三千里』が毎日ワンズというところから再販されているそうだ。元々毎日新聞社から出ていた本だけに、その系列なのだろう。辻は戦後多くの著作を出している。出版順ではなく中身の時系列で並べると

『亜細亜の共感』・・・彼が従軍した上海事変に始まり、支那総軍参謀時代の東亜連盟運動やら蒋介石の母親の葬式の話やら。

『ノモンハン』・・・これは関東軍参謀として臨んだノモンハン事件の話。

『シンガポール』・・・大東亜戦争緒戦、マレーからシンガポールまで、第二十五軍参謀時代の話。

『ガダルカナル』・・・大本営作戦班長として現地に赴いたガダルカナルでの話。

『十五対一』・・・インパール作戦後のビルマ、第三十三軍参謀として遂行した断作戦の話。拉孟、騰越は玉砕した。

『潜行三千里』・・・終戦と同時にタイから中国に逐電したときの話。

戦後の話は『これでよいのか』ほか数冊。

現代では総じて評判の悪い辻だが、かつては彼を高く評価する人は結構いた。元上官の磯谷廉介は、辻の悪口を聞くと機嫌が悪くなったというし、新聞記者でも高宮太平、田村真作(以上朝日)、中所豊(大阪)といった人々は、戦後に出した軍閥暴露モノの中で辻を褒めている。
小磯の自伝をぱらぱらと読み返した。獄中で書かれた900ページを越える大著だ。装丁や外箱まで自分でやるなど芸が細かい。

日韓トンネル議連とかいうのがあるらしいが、日韓トンネルといえば小磯である。彼は少佐のときに、対馬海峡隧道案というのを書いている。

陸士12期の同期生である杉山二宮の三人とは若いころ非常に仲が良かった。よく4人で小磯の家に集まり、宴会をしていたため、小磯家の小さい娘が、杉山の真似をして、床の間に上がって金盥を叩いて踊るので、困ったという。一番早く予備役に入れられた二宮は、最後まで小磯と行を共にしたが、残りの2人は元帥となり、小磯たちとは、やや袂を分かつこととなる。

小磯の人生で最も大きなトピックは、勿論首相就任であろう。彼の内閣時代には捷一号作戦や繆斌工作があった。どちらも彼が力を注いだものだが、前者は特に無残な結果となった。

三月事件も大きい。一連の革新運動の口火である。宇垣は、小磯こそがこの事件の責任者であると考えており、この事件によって苦境に立たされている今(組閣時のこと)、小磯は当然自分に協力すべきだと考えていた。しかし前エントリの通り、小磯はこれを断った。宇垣の日記にはこれに対する怒りが綴られている。

小磯の台頭が炎となり小磯の軽挙が招来したる三月事件が其の口実に利用せらるるなどは、奇しき因縁と謂つべきなり。彼の今後の運命は風前の燈火の有様なり。彼自体夫れを承知して居る筈なれば彼の捨身的奮起を促し見たりしが、彼も凡庸儕輩と等しく明哲保身以外に立ち得ざりしは可憐なり矣。(一月二十七日)

『宇垣一成日記 2』



大尉時代には内蒙に潜入して、宗社党への工作を行っている。これは宇都宮太郎の後任の参本第二部長福田雅太郎の方策であったが、結局中途で中止となり、小磯は梯子を外されたような状態となった。

最後に面白い話をひとつ。大正9年、師団対抗演習の準備のため、大竹沢治大佐、小磯少佐、阿南惟幾大尉の三人が東北を回った。酒田駅についたとき、年少の阿南大尉が明日の切符を買っている間に、二人は宿屋を探した。よさそうな宿屋を見付けたので、小磯が交渉のため入ろうとすると、大竹大佐が、

「おい小磯、待て待て、貴公の顔じゃ宿屋が上げないよ」

と言う。小磯は内心、

「あなたより物騒じゃありませんよ」

と思ったが、さすがにそれを口に出すのは憚られたので、

「戯談をいっちゃいけませんよ」

とだけいって宿屋に入った。結果は果たして大竹の言ったとおりで、宿屋は、満室だといって小磯のたちの宿泊を断った。憮然として戻ってきた小磯を見て大竹は、

「小磯、それ見ろ、いはんこっちやないじゃないか」

と嬉しそうに笑う。そこへ阿南大尉が追いついてきて

「どうしたんです」

と聞くので、

「此の宿は一杯で泊められないといふんだよ」

と答えた。それを聞いた阿南は、宿屋の帳場に行って、

「他に良い宿屋があったら教へて下さい」

と頼んだ。小磯とは打って変わって、若く眉目秀麗な大尉に、宿屋も好意を抱いたが、小磯に対し満室ですと言った手前、今更彼らを泊めるわけにもいかず、結局他の宿屋に案内してくれた。こうして一行は、其の晩、無事に宿泊することが出来た。その後一切の投宿交渉は、阿南大尉に一任された。大竹沢治は新潟出身で、非常な逸材といわれ、この後参本第一部長まで務めるが、少将のとき病没した。


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『二・二六事件秘話 同期の雪 林 八郎少尉の青春』小林友一
『小林友一追悼録』刊行会(編纂委員長 山口 立)

二日早いが関西でも雪が降った。

小林友一少佐の同期(陸士47期)からは数名が事件に参加したが、特に刑死する林八郎とは格別の間柄であった。そのため記述はどうしても林寄りになる。そうすると割を食うのは栗原中尉だ(またか!)。まあそれは良い。事件当日、彼が安藤大尉と交わした会話は中々興味深い。

「安藤さん。これからどうなるのですか。どうするつもりですか」

「それは山下奉文少将に委せてある。山下閣下が出て来て、われわれの希望する方向に後始末をしてくれるはずだ」

「独自の計画は持っていないのですか」

「何も持っていない」




幼年学校時代の生徒監は千田貞季大尉(後に少将)であった。この人は後に硫黄島で戦死するが、教育者として大変立派な人物であったようで、悪く書かれているのを見たことがない。小林も彼の薫陶を受けた。同期の常盤稔は当時体が弱く、よく医務室で寝ていたが、小林は必ず何かをジャンクして見舞いに来てくれたという。以前少し書いたが、小林(と林)には心酔する二人の先輩がいた。一人は自決してしまうが、もう一人の山本春一氏は、空挺部隊の部隊長として南方で終戦を迎えた。この人には凄い逸話がある。

 彼が南支の独立混成旅団の歩兵大隊長の時である。討伐作戦から帰還して、その報告のため旅団長のところへ出頭した。旅団長加藤少将は、彼の大隊の損害(戦死傷)の少なかったことを詰問した。
 損害の多いほど、その部隊は勇戦奮闘したものと考えるような上司が、時にはいたのである。大切な天皇の赤子を、なるべく損なわずに戦果をあげることこそ真の指揮官である。
 山本支隊長は怒り心頭に達した。やにわに旅団長を腰車でぶん投げた。そして、「かくの如き馬鹿者、少将の資格なし」と、少将の階徽章をちきりとって投げ捨てた。

ちなみにこの加藤少将は陸士22期であったが、無天ということもあり、少将のままで終戦を迎えた。

上海事変では林の父、大八が戦死した。

林の父上第七聯隊長、上海の戦闘に於て戦死せらる。なんとも言えざる押付けられし感情に打たる。賽は既に投げられ、ルビコンは既に渡られたるに増兵を遅疑して、徒らに有為の士を殺す。彼林果して如何なる感慨ぞ。

この後、事変で活躍した辻政信の講演に感激し、林と共に辻の家を訪ね、更に丸め込まれ感激を新たにし、辻の後継者たるべしと心に誓っている。後年、小林は辻を次のように評している。

「Tさんは確かに日本一の歩兵中隊長だった。しかし聯隊長、師団長、軍司令官となると然らず」

しかし陸士で辻の薫陶を受けた人の中には、戦後も彼を神様の如く尊崇している人が少なくない。戦後、逃亡から帰ってきた辻政信は、次々と本を書いたが、その本を出版した亜東書房というのは、小林が設立したそうだ。後に二人はこの事業をめぐって大喧嘩した。

事件当時、近衛の聯隊長であった田中久一は小林の事件への関与を疑い、大隊副官に任命して、一種の軟禁状態においた。小林はそれが不満であったが、後年、再び田中に仕えることとなり、その真の人柄に触れ、深くこれに感動し、陸軍省人事局にいた先輩に宛て

「田中久一こそ、絶対に大将にすべき将軍である」

と私信を送った。

小林は陸士47期のトップで恩賜の銀時計を賜った。その後、当然陸大に入学したが、そこでは恩賜を逃した。ここに椿事がある。陸大には二つだけ銅像があった。一つは開祖のメッケル、もう一つは名教官といわれた石田保政。卒業を間近にひかえたある日、小林はメッケルの銅像に上って放尿をした。いくら操行点の無い陸大でも、これは問題になり、幹事の四出井綱正の取り成しで放校は免れたが、当然恩賜は無理であった。小林が敢えてこういう行為に出たのは、旧態依然とした陸大の教育内容に対する怒りがあったからだと、彼を知る人は考えているようだ。これをメッケル銅像事件という。

昭和26年の警察予備隊設立前後、次のようなことがあった。

 某日、二人の先輩がそろって訪ねて来られた。大本営作戦課、陸軍省軍務課と中枢で活躍された、軍内で著名な中佐である。
「警察予備隊には旧軍人は一人も入るなという運動を、お前すぐにでも開始しろ」
「どうして私にやれというのですか」
「お前は全国の状況にも通じているし、若い連中には一番顔が広いからだ」
「お断りします。やるならばお二人でやりなさい」
 私は即座にお断りした。
「現在の予備隊は、皇軍建軍の理想から見れば、それは遥かに遠いものでしょう。しかしながら、現在の国際情勢、日本の国情、世相を考えれば、お二人のいう理想論はまさしく夢物語りに過ぎません。漸を追うて前進すべきでしょう。
 現在、旧軍人が世間でどういう状況にあると思いますか。本当に食うや食わずの窮状にある人がたくさんおります。その人達が、妻子のため食わんがために予備隊へ入りたいというのを、何の権限があってやめさすことが出来ますか」
 ただこれは、先輩に対する私の詭弁の一種であって、実際に予備隊へ入隊した人達は、軍再建の理想に燃え、国家奉仕の熱情に根ざした純粋な気持ちであったことを付記する。

この二人は所謂服部グループの誰かであろう。こうは言ったが、彼自身は自衛隊に入ることは無かった。

靖国神社の看板や説明の英語化は、堀江芳孝が小林に半ば命ぜられてやったものだが、そのとき関わった人々の間で次のような雑談があったそうだ。

早速、松平宮司が、小林、杉田、大井と私の四名を昼食に招待され、四方山の話が出た。
大井「西郷さんは祭られていますか」
宮司「賊軍の大将ということで祭られていません」大井さんは「鶴岡藩の恩人なのに」と言って泣き出した。
杉田「東条さんは」
宮司「祭られています」……

大井とは海軍の大井篤少佐のことである。

「百歳まで生きて、貴様らの面倒を見てやる」が小林の口癖であったが、人並み外れた酒量のせいもあってか、これだけは果たされず、昭和59年永眠。



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棚橋信元『神がかり参謀ー神々は生きているー』
最初に断っておきますが棚橋信元と棚橋茂雄は同一人物です。

参謀本部部員時代以来、神がかりといえば、アイツだ、神様のことならアイツの所へ行け、というわけであった。私自身は、あたりまえのつもりでやっていたが、他から見ると、少々イカレタへんな野郎に見えたらしい。最近も、陸士時代の同期生から「貴公はソ満の国境築城をつくる時『神様の命令だ!この線にトウチカを作れ』と、手をひろげて、指示したそうじゃないか?」と、質問されてアキレた。(自序より)


棚橋の父は特務曹長であった。術科がまったく駄目で「こんにゃく特サ」などというありがたくないあだ名を頂戴していたが、非常に頭が良く、書記として重宝されていた。しかし大正元年に予備役となる。元来体が弱かったこともあったが、妻が大隊長婦人のところに「にほいがけ」行き、大隊長の心証を害したことも原因の一つであった。棚橋の母は熱心な天理教信者で、家のものは何から何まで寄進する人であった。日露戦争中、父は俸給を家に送っていたが、帰ってきたら貯金は一銭もなかったという。紋付を作ると、いつの間にかそれを天理教の先生が着ている。子供のお年玉まで取り上げる、で、棚橋も随分母親に歯向かって喧嘩をしたが、父は半ば諦めてお供えに協力していた。天理教というと私は芹沢光治良の『人間の運命』くらいしか知らないが、昔の天理教というのは確かにこういうところがあったらしい。

大正10年、大垣中学の2年から、父の勧めで幼年学校に進んだ。幼年学校3年のとき、延期してきた二人の生徒が同窓となった。一人はこのブログで散々取り上げている宇都宮太郎の長男の徳馬。無精髭を伸ばし、両手をポケットに突っ込んで、右肩を上げ背伸びしながら歩いていた。誰も彼を名前では呼ばず、徳馬をなまって「トンマ」と呼んでいた。彼はその後左傾化して退学処分を受ける。もう一人は鶴見少将の息子で、体はどこも悪くないのだが、逆立ちの練習ばかりして勉強を全然しないので、落第したという。彼は陸士に進んでからも逆立ちばかりしており、遂には逆立ちで階段を上り下りしたり、生徒舎の天辺で逆立ちができるようになった。

陸士に進み席を並べた高橋という男は、軟文学の愛好者で、変な小説を持ち込み、こっそりそれを読んでさっぱり勉強しない。区隊長から指導するように依頼された棚橋が注意すると「俺は趣味を完成してから勉強する」と答えて、好きな通りにやり通した。彼は自他共に認めるオカマのオーソリティーで、都城の歩兵連隊での隊附時代に、特務曹長のオカマをホッタという評判が高かった。いつも同期や下級生の美少年の尻を品定めし「アイツはいいとか悪いとか・・・アイツはやられているとかいないとか」と説明し、逆に棚橋に悪い教育を施そうとしてたようだ。後年、彼と逆立ち名人が揃って幼年学校の生徒監になったので、「貴様達が生徒監とは、恐れ入ったよ」と冷やかすと、「俺たちは悪事の裏の裏まで知っていいるから、抜け穴ふさぎがうまく、却って立派な教育ができる」と盛んにほらをふいていた。

中尉のとき、哲理姓名学の先生に出会い、すぐに自ら改名に及ぶとともに、月俸の半分を差し出して弟子入りした。後に中隊長に着任すると、早々に中隊の幹部全員を改名させた。彼によれば改名した名前を熱心に使っていた人々は重傷を負っても命は助かったが、「こんな古くさい名前はいやです」といって使用しなかった曹長は戦死したという。

陸大受験の前に同期生が集まって勉強会をしたが、同期のトップだった竹嶌継夫だけは出てこなかった。合否発表後、東幼出身者だけが当時の生徒監の家に集まったが、その席で棚橋(合格)は竹嶌(不合格)と言い争いになり、「表に出ろ」と腕をまくったところで一同に仲裁された。棚橋は同じく合格した豊橋教導学校の区隊長桃井義一に、「貴様、豊橋に帰ったらあいつを説得してくれ。このままではとんでもない人間になってしまう」と頼んだ。桃井も引き受けて帰ったが、翌1月、陸大で顔を合わせると、「あいつは鼻息が荒くて、俺の言うことなどてんで聞きやしない。折角貴様に頼まれたのに目的を果たせず申し訳ない」と謝られた。この一月後の二・二六事件で竹嶌は刑死した。棚橋は陸大を4番で卒業し恩賜の軍刀を頂いた。

類は友を呼ぶというのか、棚橋の中隊には、体が「ブルブルッ」と震えるとなんでも分かるという深尾という少尉がいた。「戦争に役に立つか」と聞くと、随分役に立ったというので、早速彼は少尉の師匠にあたる山本という先生に弟子入りし、その神占について学んだ。支那事変で第三師団にも動員が下令されたとき、二人はビールを飲んで話し合っていた。早速神占を頼むと、
  1. 部隊は応急動員となる
  2. 上海附近に敵前上陸する
  3. 敵前上陸は完全に成功する
  4. 戦地では風邪をひくくらいでたいしたことはない
  5. 三ヶ月で内地へ転勤となる
聯隊に帰ると本動員だという。「あれ、神様はうそをついたかな」と思っていると、師団参謀長がやってきて第二大隊だけ応急動員となると伝えた。彼の中隊は先遣隊として呉淞に上陸し、上海の激戦を戦い抜き、棚橋自身は途中聯隊副官に転任し、11月に参謀本部附となって帰国する。以下100ページに渡り、前線に出てこないにも関わらず無謀な突撃命令ばかり出す師団参謀に苦しめられながらの苦闘の様が描かれている。勿論途中、霊感の強い一等兵の神占によって敵の十五榴の位置を割り出し、これを破壊したというような話も出てくるが、そういうのを差し引いても中々貴重な記録だと思う。

参謀本部に着任した棚橋は、戦訓の講演で師団参謀に悪態をつきまくったため、彼を参本からほうり出してやると息巻く人もいた。昭和14年1月、服部卓四郎と共に視察で徳安へ向かったとき、パイロットが三度にわたって間違えて敵の飛行場に着陸しようとする椿事があったが、いつもは寝ている棚橋が、このときに限って起きて地図を見ていたので、パイロットをどやしつけてことなきを得た。

昭和13年の夏に、「日米はいずれ戦争になり、日本は負ける」との天啓を受けた棚橋は、居ても立っても居られなくなり、合気道の師匠の植芝盛平に訴えた。植芝に「しっかりやってください」と激励された棚橋は、対米工作を開始する。この工作は、途中棚橋の訪独(山下軍事視察団)を挟んで開戦まで続いた。工作の内容は、日米合資の貿易会社をつくり、日本は約20億ドルの物資を米国から輸入、また米国が希望する日本占領地下の物資を輸出するというもの。これによって日米間の感情を融和し、一方で蒋介石に回す物資を日本が買ってしまうことで、蒋の抗戦意識をくじき、これと和平するという算段。民間でこれに協力して金を出したのは西川末吉という人物であった。西川はかつて、田中義一に政治資金を貸したことで有名な神戸の高利貸し乾新兵衛の側近だった。他、この工作に関わったのは

民間側
 交渉の全責任者(米国との交渉主任)
  西川末吉(昭和二十年死亡)
 日本政府との交渉主任
  大川周明(昭和三十二年死亡)
 西川の米国派遣交渉員
  小島儀太郎(死亡)
 西川秘書
  水口浩太郎(一時米国へ派遣)
  満所信太郎(小島実弟)
 西川の金融関係支援者
  広瀬安太郎(野村信託専務)
  岸本 勇(野村信託監査役)
 陸軍大臣板垣大将との連絡者
  瀬川弥右ェ門(貴族院議員)
 西川に協力した主な民間人
  八田嘉明(元鉄道大臣)
  宮田光雄(貴族院議員、元警視総監)
  実川時次郎(政治浪人)
参謀本部
 主として工作に任じた者(上司諒解)
  棚橋茂雄大尉
 私の直属上官である歴代の第三課長
  綾部橘樹大佐(後中将)
  那須義雄大佐(後兵務局長)
  美山要蔵大佐
 第八課長(謀略課)
  臼井茂樹大佐(後飛行隊長として、ビルマで戦死)
 総務部長(第二部長を兼ね、第八課長の直属上官)
  神田正種中将
 参謀総長
  閑院元帥宮
  杉山 元大将
 米国駐在大使館附武官
  山内正文中将
 米国駐在大使館附武官補佐官
  山本林吾中佐
陸軍省側
 兵務課長(後局長、陸軍大臣の密名を受けていた)
  田中隆吉大佐
米国側支援者
 ロスアンゼルス・タイムズ社長
  ハリー・チャンドラー

工作は当然ながら各方面から反対を受けた。特に軍事課長であった岩畔豪雄は徹底的に反対して、妨害してきたという。欧米課の本流にいた杉田一次は戦後、この工作はFBIの謀略ではなかったかと書いている。

第三軍参謀時代、たまたま野戦築城隊に師匠の甥の山本兵長がいるのを見付け、彼を当番兵にして官舎に住まわせ、戦況を占っては関東軍や大本営に申し送っていた。その後、第十四方面軍参謀としてレイテに派遣される直前に病気となり、レイテ行きは中止となる。病が癒えると第二十三軍参謀として田中久一将軍に仕えた。棚橋によれば、田中は至誠の将軍で人格は高潔、軍紀に厳しく戦犯に問われるいわれはなかったが、桂林作戦でやられた張発奎の私怨により処刑されたという。

終戦の直後、大本営で、ビルマから帰ってきたばかりの岩畔と偶々顔を合わせた棚橋は、

「岩畔さん!どうです!私の判断が的中し、私が勝ったでしょう。今だから申しますが、私の信仰する神様が、この敗戦を、霊感で、私に直接御示し下さったから、あの工作に、あんなに、熱中したのですよ!」
と、申したところ
「ほんとに、君が勝ったなあ・・・・・。」

と岩畔は嘆声を発した。

戦後、棚橋は少し商売をやったがすぐに失敗したため、神道の布教を始め、昭和28年「独立せよ」の神示を受けて平和教を開教。昭和34年にこの本を書いたという次第。


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南部麒次郎中将の自叙伝である。筆者が最終的に筆をおいたのは昭和17年、出版は28年。出身地は佐賀。陸士は2期。兵科は砲兵。2期の砲兵は卒業者19名だが、南部の卒業席次は11番。ちなみに一つ上の10番が鈴木孝雄で、砲兵科首席は小野寺重太郎。二人とも南部の親友で、関宿の鈴木の実家を小野寺と二人で尋ねたとき、たまたま鈴木の兄の貫太郎も里帰りしており、一緒にご飯を食べたそうだ。

彼の主な発明考案は三八式歩(騎)兵銃、三年式機関銃、十一年式軽機関銃、南部式自動拳銃、南部式空包機関銃、九四式将校用拳銃、九六式軽機関銃etc

南部中将に関しては、兵頭氏が面白い考察をしておられますが、私はこの自伝を読んだだけでは、こんなこと全然読み取れませんでした。ただ人の良さそうなおっさんだなあとか、親父さんも出来た人だなあとかぐらいです。

小銃製造所時代、雷管突破の原因について島川文八郎と言い争いになり、実験結果を示して、彼をへこましたことがあるそうな。

欧州の軍需工場視察の報告で、技術者を倍加し、将来民間工場に兵器を製作せしめることが目下の急務であると述べたところ、軍事課長の津野大佐
「南部大佐の話は外国に行かなくても話せることだから、他の事に就いて報告してください」
と言われたそうだ。頭にきた南部は、
「今回欧州に出張して一番感じたことを話した次第で我が国でもこれさえ実行するば他の百の報告をし、そして実行しないことよりも勝っていると思ふ。津野課長の言云はれるように内地にいてもこれを知るなら、何故実行せられぬのか」
と反駁したが、津野大佐は何も応えず、そのまま別の話に以降したという。

まあ端的に言えば、比較的幸せな技術軍人人生だったのではないでしょうか。恵まれなかった日野熊蔵などと較べれば。