近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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2月26日。といっても今年も特に何もしないんですが、末松太平元大尉の『私の昭和史』が中公文庫より出版されました。

とにかく軍人の回想録は数多あります。私も相当数所蔵していますが、この本はその中でも五指いや三指に入ると思っています。まだ読んでいない方はこの機会に是非ご購入ください。

私の昭和史(上) - 二・二六事件異聞 (中公文庫)
末松 太平
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岡崎清編著『岡崎清三郎抄伝 ある陸軍軍人の生涯』

岡崎は秩父宮殿下の英国御外遊に付き従った。殿下はご自分で自動車を運転するのがお好きだった。北白川宮殿下の事故もあったので、岡崎は何度もやめていただくよう進言したが、殿下は「英国では皇太子を始め誰でもドライブをしている。構わないよ」と取り合われない。そこで林権助に頼んで、彼からも進言してもらったが、「岡崎君、殿下に申し上げたが駄目だよ」と言ってきた。そこでドラモンド夫人に頼んだが、これも駄目。最後の手段として、日本に帰っていた松平慶民に頼んで、皇后陛下から止めてもらおうとしたが、松平から次のような手紙が来た。「皇后様に申し上げたが、秩父宮はよう考えているから、心配せんで宜しいとの言葉だ。親馬鹿というのは仕方がない」

しかし実際、殿下の運転は結構荒いもので、アクセルとブレーキを踏み間違えたり、おばあさん轢きかけたり、岡崎はいろんな人から怒られて、「ソーリー」と謝ることがよくあったという。
原田統吉『風と雲と最後の諜報将校』自由国民社

陸軍中野学校二期生の手記である。二期は社会人として世間の飯を食ってきた人間が多かったので、主に予備士官学校から集められた学校出立ての一期生より冷めたところがあったそうだ。当時中野には伊藤佐又という大変な精神主義者の教官がいた。この男は「女房に乗るときも、天皇陛下のお役に立つ子どもができるように念じろ」とかいうような、ナントカと紙一重な人物であった。一期生は結構彼に心服していたそうだが、原田らはそうでもなかったらしい。この伊藤が教え子を使って神戸の英国領事館を焼き討ちしようとしたとき、たまたまその場に居合わせてしまったために、巻き添えになった二期生がいた。彼らは計画に反対であり、なんとか神戸の旅館から脱走しようとしていたが、その矢先に憲兵に踏み込まれて一網打尽にあった。これは、伊藤が憲兵隊にいた同期に、計画を打ち明け協力を求めたという、嘘のような話が原因であった。伊藤は勿論これで予備役となった。当時の憲兵司令官だった平林中将は、高嶋辰彦が裏で糸を引いているという噂が、当時あったことを記している。この事件は一時的に後方勤務要員養成所(翌年陸軍中野学校となる)の存廃を左右した。所長の秋草中佐は、剛腹な人で、秘密戦の重要性は上層部に認識させるために、学生に陸軍省から重要書類を盗ませたりすることもあったが、さすがにこの一件は応えたようだ。ちなみに大野芳の『革命』によれば伊藤は岸信介と縁続きだとか。

秋草俊大佐は数カ国語に通じ、若い頃から背広での特殊勤務が長い対ソ諜報の第一人者であった。彼の軍人離れした柔軟な姿勢は、中野学校に強い影響を与えた。しかし家では飯を食う時以外は、軍歌を歌っているか、ところかまわず横になり大いびきをかくだけだったので、新婚の奥さんが、この人はどうかしているのではないかと心配して、新聞の身上相談に手紙をだしたこともあったそうだ。終戦時は関東軍にいたが、「ソ連が来たら、一番にやられることはまちがいない。いまのうちに逃げるように」という人に「俺が逃げれば、代わりにだれかがやられる」といって、断固動かなかった。ソ連軍に収容された彼は、果たして二度と日本の土を踏むことはなかった。

閑話休題。さて原田らを可愛がってくれた教官にNという陸大出の大尉がいた。卒業して新京へ旅立つ彼らを柱の蔭から見送ってくれたそうだ。このNはのちにソ連駐在武官として、ソ連の不敗を冷徹に分析したという。原田自身、後にこのNと同じ役回りを演じることになる。このNとは恐らく野原博起であろう。彼もまたシベリアで死んだ。

原田は卒業以来一貫して対ソ諜報にあたった。そのうちの奉天時代には、小畑信良少将とも関わりがあった。この頃の小畑は、ちょうどインパール作戦に反対して、第15軍参謀長から関東軍に転任させられた後であった。この時代の彼についての描写がある本は珍しい。ちなみに彼もまたソ連に抑留され、牟田口よりだいぶ遅くに復員した。

原田の最後の任地はチタの領事館であった。ここの領事は久松と名乗っていたが、これは偽名で本名は松平定尭という軍人であった。彼には磯村武亮少将という義弟がおり、この人は終戦間際に飛行機が墜落して亡くなった。どういう訳かは知らないが、後に二人の息子は、共にNHKのアナウンサーになった。

また話がそれたが、領事館の任務は勿論対ソ諜報であった。しかし原田の着任当時は、シベリア鉄道を行くクリエールの世話に忙殺され、本業が疎かになっていた。その中でも原田たちを顰蹙させたのは、昭和20年4月30日に旅だった二人で、あまりにも露わな軍隊的上下関係から、その正体が何であるかは、見る人が見れば容易にわかった。彼らは勿論偽名を使っていたが、その正体は大本営の通信参謀金子中佐と航空将校の柴田少佐であった。二人はシベリア鉄道内でソ連将校から酒盛りに誘われ、金子はその直後に死亡、柴田は縛り上げられ、手持ちの書類はすべて写真に撮られた。

原田たちは領事館の天井裏に双眼鏡を据え、僅かに見えるシベリヤ鉄道を観察し、

「七、八月の候、ソ連の進攻の公算最も大なり」

という結論に達し、6月10日頃、関東軍と大本営に打電した。



丸山豊『月白の道』創言社

初版は昭和45年であるが、私が落手したのは62年に出た増補版である。水上源蔵少将を巡る一連の有名な電報は、この本がそのみなもとだろう。著者(軍医中尉)は、水上少将の側に仕えていた人物だった。

副官に案内されて、かつては英国の領事館であったという司令部の庭園をS宇のかたちによぎってゆくと、バラの木のむこうにまえかがみした初老のひとがいる。そのやわらかそうなたなごころにおさまっているのは、うみおとされたばかりと見えるつややかな卵である。泥と糞をきれいにふきとったその卵に、日付けを書きこんでおられる。まなざしが柔和で物腰はおだやかで、どう見ても人のよいお百姓、それが閣下であった。部隊復帰の申告をすると、
「ゆっくりくつろぎなさい。軍隊というものは、軍医さんがあくびをしているかぎり安泰です」


着任早々、占拠地区の各部隊を、分哨のひとつひとつにいたるまでつぶさに巡視されたことは、まず全将兵の感動を呼んだ。実戦と演習を問わず、あやうく落伍しそうになった最後の一兵が陣営にかえりつくまで、営門のかげに長時間たちつくしたあとで、やっと御じぶんの武装を解かれるという人情に、心打たれぬものはなかった。
 「兵隊には、うまいものを食べさせてくださいよ」
 と、経理の将校に涙をながさんばかりにお願いなさるありがたさが、全部隊に波のようにひろがった。
 私は予備役の軍医なので、いくらか話題がゆたかということもあって、堀江屋副官のかわりに閣下のともをして、トウエツ郊外を遠乗りすることが多かった。なにかめずらしいものがあればそこで馬をとどめ、閣下が私に問われたり、私が閣下に尋ねtたりするのだが、草木虫魚の類から農事や習俗に及ぶ知識は、すべて閣下が私の先生であった。農家の庭の葉がくれの青い実を「あれが豆柿だ」と教えてくださったのも、廟の前の一対のコマ犬のオスとメスの区別法を教えてくださったのも閣下であった。


夜襲のたびにみごとな戦果をあげた龍の中隊長が、ある夜、雨をおかして状況の報告にきた。つまり、戦死の日がいよいよ迫ったのを覚悟して、閣下に最後のわかれを告げにきたのである。中隊長が壕の入り口へ着くと、閣下は腰をあげて、一度壕の外にでて、濡れるのをいとわずに公式の報告をきいたうえで、「さあさあ、壕に入りたまえ」とみすがら手をとってじぶんの部屋へ案内される。それからとっておきの清酒で、別れのさかずきをかわされるのだ。これで思いのこすことはないといったさわやかさで、中隊長は、雨のなかをまた火線へもどってゆく。そのうしろ姿を見送った閣下が、
「惜しいなあ、死なせたくないなあ」
と長大息なさる。こうした挿話なら、教限りない。しかし、学生にやさしい教師が、かならずしもりっぱな教師ではないように、閣下のあたたかい人情だけで善徳の人とは呼びたくない。そのころ、閣下の徳性は、ミイトキーナ守備の全軍につたわっていた。菊の将兵で閣下に一目お目にかかってから死にたいと、わざわさあいさつにくるものがくびすを継いだ。なぜ、みんなが心服したのか。私にはわかっているのだが、どうも表現がむずかしい。要するに、見せかけの徳のにおいがしないのである。誠という言葉がある。部下たちと、素裸の人間としてかかわり合おうとされる誠実が、声となり、まなざしになり、仕草になり、それこそ戦場の閣での何ものにもまさる光であることを、兵隊ひとりひとりの死を目前にした清澄な心がはっきり感じとるのである。閣下は、裸の精神を統べるりっぱな統率者であった。魂の司令官であった。


昭和19年の7月10日、第33軍司令官の本多中将から電報が届いた。

  一、軍ハ主カヲモッテ龍陵正面二攻勢ヲ企図シアリ。
  二、バーモ・ナンカン地区ノ防備未完ナリ。
  三、水上少将ハミイトキーナヲ死守スベシ

水上は次のように返電した。

  一、軍ノ命ヲ謹ンデ受領ス。
  二、守備隊ハ死力ヲツクシテミイトキーナヲ確保ス。

しかし側近には、このことはまだ極秘にしておくように言った。
軍から改めてだめ押しの電報がきた。それには「貴官ハミイトキーナ付近ニアリテ……死守スベシ」とあった。前回は「ミイトキーナ」であったものが、こんどはなぜ「ミイトキーナ付近」と変わっていたのであろうか。水上も首をかしげて「付近だな、まちがいないな」と、念をおした。
この頃の彼の心情は、側近の人々への言葉から推し量るしかない。

 ぽつんと漏らされた言葉、「勝つことのみを知って、負けるを知らぬ軍隊はきけんだよ。孫子も言ってるようにね」
 執行主計と私とふたりだけに、さりげない調子で申された言葉、「執行大尉と丸山中尉、私がいるかぎり決してふたりを死なせはしませんよ」
「なにをおっしゃるのですか」と私たちが反問したときには、もうそっぽをむいて、聞こえぬふりをしておられた。
 司令部付の五、六名の将校と当番兵がいるときに、「みんなの体は、それぞれがご両親のいつくしみをうけて育ちあがった貴重なもの、これを大切にとりあつかわぬ国はほろびます」


そして、これも今やよく知られた電報が来る。

  貴官ヲニ階級特進セシム。
 水上大将という栄光のうしろにある、さむざむとしたものを閣下は見ぬいておられた。閣下の心の底で、ある決断のオノがふり下された。「妙な香典がとどきましたね」と、にっこりされた。二日後に、また電報がとどいた。
  貴官ヲ以後車神ト称セシム。
 軍神の成立の手のうちが見えるというものである。閣下はこんども微苦笑された、 「へんな弔辞がとどきましたね」。名誉ですとか武人の本懐ですとかいう、しらじらしい言葉はなかった。私たちが信じてきたとおりの閣下であった。この閣下となら、おなじ場所、おなじ時刻に悔いなく死んでゆけると思った。なるべくかるい気持で死のうと思った。


8月3日、水上は拳銃で自決した。軍刀は傍らの樹木にさかさに立てかけられており、正面には図嚢が置かれ、その上に作戦命令を書く起案用紙が風で飛ばないように小石を文鎮がわりにして、広げられていた。

用紙には鉛筆がきで命令がしたためられ、書判をおしておられた。
  ミイトキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方へ転進ヲ命ズ。


実は一連の”死守”電報を出していたのは辻政信であった。辻は人に、ノモンハンのときに大量の退却兵が出て困った。だがこのような電報を打っておけば、謹厳な水上少将なら、軍の真意を察して十分目的を達せられるだろうと語っている。辻は全員玉砕して欲しかったのだろう。しかし水上はこの電報を逆手に取り、自分の命を棄てて700余の兵隊を退却させた。辻は戦後、山梨を訪れた時、水上の母校であった日川高校の前で「閣下は私が殺したようなものです。実に申し訳ない」と頭を下げ、水上の生まれ故郷を指して深く頭を垂れ合掌していたという。しかし水上の遺骨を持って軍司令部までたどり着いた副官の堀江屋中尉には冷酷であった。中尉は辻から、何故水上閣下と共に死ななかったのかと罵られ、暴行さえ受けた。そして行けば必ず死ぬとわかっている戦場へ派遣され、戦死した。


松川敏胤の大正年間の日誌を読むと、将軍たちが次々予備役に入れられる様が、これでもかと記されている。

工兵監だった落合豊三郎は、浅田信興教育総監によって師団長が約束されていた。しかし奥保鞏元帥と長谷川好道の反対にあい、東京湾要塞司令官という閑職に回されてしまった。落合は日露戦争で奥の参謀長をしていたが、得利寺の戦いで彼の不興を買っていた。また長谷川とはやはり日露戦争中、朝鮮で衝突していた。というのも、落合は第二軍参謀長を更迭され、韓国駐剳軍の参謀長に就いたが、その軍司令官が、近衛師団長から”栄転”してきた長谷川だった。また浅田の後任総監の上原勇作は、落合と同期同兵科だったが、工兵繰典の改正時に落合と意見が合わないことがあったので、敢えてこの人事に反対しなかった。怒った落合は、早々に辞表を提出し、それでそのまま待命にされてしまった。

大谷喜久蔵はかつて長谷川好道に台湾総督を約束されていたが、大浦兼武の反対で駄目になった。あっさり約束を反故にした長谷川を「参謀総長の価値なし」と松川は断じている。また彼は、「これで大谷は青島に葬られた」と書いたが、しかし大谷はその後、シベリア出兵で再び軍司令官となり、教育総監にもなった。ちなみに大谷の代わりに台湾総督になったのは、温厚な人柄の安東貞美だった。

さて青島の軍司令官を、大谷に奪われたのが神尾光臣だ。この人は女癖が悪かったらしく、青島守備軍司令官を解かれたのもそのせいらしい。松川は彼と仲が良かったそうだが、彼のスキャンダルの詳細をわざわざ日誌に書き留めている。ちなみに彼の娘は有島武郎に嫁いでいたが、有島が心中したときには、もう亡くなっていたようだ。

本郷房太郎仁田原重行の予備役入りは、心中ではなく相討ちであった。仁田原によれば、かつて彼自身の人事を巡って、本郷、井口(省吾)と行き違いになり、上原勇作参謀総長一戸兵衛教育総監田中義一陸軍大臣を交えた6人で、葡萄酒をかたむけ手打ちを行ったが、それが再燃したのだという。本郷の所へは、同期の上原が訪ねて、辞表を出すように言ったが、本郷は言を左右してこれを出さず。しかし陸相が、「辞表を出さないなら、陸相の権限で処置する」と言うに至り、遂に辞表をだした。最後の挨拶は相当未練がましかったらしい。

そして松川自身も、大正11年待命になる。待命の日々を送る彼の目に、大庭二郎が教育総監に、河合操が参謀総長にというニュースが飛び込む。「河合果たして如何なる戦略戦術の持ち主ぞ」「大庭は旅順攻撃の参謀副長として如何なる功績をあげたか」長閥の専横、いよいよ甚だしいが、彼にはどうすることもできない。
というものが去年出版されていた。私は全然知らなかったのだが、昨年末、仕事の本を買う時に、レジに行く途中で全く偶然目にして、発作的に確保した。しかし、年末年始、新型インフルエンザで寝込んでいたので、まだ殆ど読めてはいない。畑俊六というと、既にみすず書房などから日記が刊行されており、そこら辺との兼ね合いが気になるところだと思うが、面倒なので下の写メを見て頂きたい。現代史資料や巣鴨日記とは被っていない。尤も、回顧録の、父母兄妹を振り返った部分は、現代史資料に収録されているものと殆ど同じだと思うが。


さていつもの癖で、索引から多田駿の載っている部分だけ先に読んだのだが、一カ所だけ目新しい表現があった。

尤も当時板垣が陸相とし東條が次官として、一方参謀本部側には多田が次長として石原などが之を取巻き東條と多田がいがみ合ひ、板垣が困却の果喧嘩両成敗として、多田を満洲の東正面軍司令官(第三軍)に追ひやり東條は創立せられたる航空総監に任ぜられていはゞ栄転の形となりたれば、多田はいたく板垣の遣口に憤慨し板垣に公私共に絶交とまで申し入れたるも其後いつしか解けたるものなりと板垣より聞きぬ。(P154)

絶交って・・・
もう一つ、これは多田と関係ないが、

例のオツチヨコの有末精三

という記述がある。これも日記にはなかった表現だ(と思う・・・)。

過去記事より畑俊六日誌



ところでこのブログも6年目である。私は今年はおめでとうは言えないが。去年は30年生きてきて一番悲しい年だった。果たして今年はどんな年になるか・・・
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