近衛読書中隊

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半藤一利 秦郁彦 保阪正康 井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞社

半藤、秦、保阪という代表的な現代史の書き手に、富田メモをスクープした日経新聞の井上編集員を加えた4人で、BC級戦犯裁判を語るという本書。取り上げられている事案は次の通り。

泰緬鉄道F軍団事件--イギリス軍シンガポール裁判85号
サンダカン死の行進--オーストラリア軍ラブアン裁判14号
ランソン事件--フランス軍サイゴン裁判39号
カーコニコバル島住民虐殺事件--イギリス軍シンガポール裁判12号
シンガポール華僑粛清事件--イギリス軍シンガポール裁判118号
スマラン慰安所事件---オランダ軍バタビア裁判69号
花岡事件--アメリカ軍横浜裁判230号
武士道裁判--アメリカ軍横浜我利23号
ガスマタ豪軍飛行士介錯事件--オーストラリア軍香港裁判13号
百人斬り競争--中華民国南京裁判21号
海軍生体解剖事件--アメリカ軍グアム裁判17号
父島人肉食事件--アメリカ軍グアム裁判11号
ニューギニア人肉事件--オーストラリア軍ウエワク裁判1号
東海軍司令部B29搭乗員処刑事件--岡田ケース(アメリカ軍横浜裁判261号)
伊藤ケース--アメリカ軍横浜裁判233号

いずれも比較的有名な事件だが、これらについて、事件の内容から裁判の内容までが、かなり詳しく紹介されており、それが一冊にまとまっていると言う点では、なかなか良い本だと思う。4人での座談会部分では、秦先生が、随所に、(シャバでは役に立たない豆知識を織り交ぜながら)キラーぶりを発揮しており面白かった。勿論中には軽口が過ぎると思う場面もあったが。

 秦 大本営の作戦課長だった稲田正純大佐が満州へ赴任して、「満ソ国境突破戦に自信ができた」と発言しているんですよ。毒ガスでやるつもりだったんです。マルタを実験台にして青酸ガスを大規模に北満の荒野で試してみて、効き目があると確信した。青酸ガスというのは、日本軍独自の兵器なんです。
 保阪 サリンなどは、まだ日本ではつくれなかったということですね。
 秦 日本は最後までサリンとかタブンのような神経ガスの開発はだめでした。作ったのはドイツだけです。日本もいろんな試作品を百種ぐらいつくったけれども、いずれも物にならなかった。唯一物になりかけたのが青酸ガスです。これも放射実験をやって、それを手投げ弾式にしたのが「チビ弾」というやつで、これでトーチカとソ連軍の戦車をやっつけようとした。
 何でチビという名前がついたかというと、ノモンハンでBT戦車というのが出てきて日本軍がやられましたね。それで、BT戦車をやっつける方法はないかということで、青酸ガスを小型のガラス球につめてぶっつけようと考えた。BTをひっくり返すと、TBになるのでチビになったという話がある。


 秦 わたしはいろんな戦記を読んできましたが、国際法についてちゃんと発言している例を見たことがないんですよ。わずかに一つだけ例外かなと思うのは、ビルマに派遣された日赤看護婦の和歌山班です。ゲリラに襲撃されて敵中突破するときに「堂々と赤十字の旗を立てて行きましょう」と婦長さんが主張するんですよ。


 秦 あの名誉棄損故判で一番得したのは福井県の女性弁護士です。わたしは一審の判決が出たときに東京地裁行きました。 控室に関係者が集まっていて、通常は弁護士が「皆様のご支援にもかかわらず、力至らず……」とかおわびするんですが、そうじゃないんですよ。
 その女性弁護士が「選挙に出る決意をいたしました」と宣言して、選挙の前祝いみたいになってしまった(笑)。裁判はどこかへ消し飛んじゃった。自民党の保守派にとって「百人斬り裁判で名前が売れているし、ちょうどいい」ということだったんでしょう。敗訴した責任者がこれをジャンプ台にして国政に出るとという妙な展開になった。


 井上 名誉棄損裁判では「日本刀で百人を斬り得るか」ということで論争になりましたね。
 秦 これもトリックなんです。山本七平が雑誌で日本刀の切れ味について延々と書いていたでしょう。刀工の何とかさんはこう言っているということで、日本刀についていろいろ考証して、結論はそんなに斬れないということにしている。しかし、据え物斬りならば何人でも斬れるんです。


 保阪 偕行社版の『南京戦史』では虐殺の死者は二万人でしたかね。
 秦 戦史家の板倉由明氏があの偕行社本の中心です。使っているデータはわたしと同じですが、わたしのほうが被害者が二倍になっている。なぜかというと、向こうは減耗率を掛けているんです。どういう減耗率かというと、勲章をもらうためには戦果を過大に報告するのが慣習で、戦闘詳報で何人と書いてあるのは〇・五を掛けなきゃいかんと。


 秦 「まぼろし=ゼロ」のグループに呼ばれて話をしたことがあるんです。彼らは「とにかく数が多い」と怒るんですよ。「じゃあ、おたくでは何人ぐらいなら満足するんですか」と言ったら、「本当はゼロだけれども、一人か二人だ」と言う(笑)。わたしが「しかし、戦闘詳報に七千人掃討とか数がいろいろ出てくるでしょう。あれはどうなんですか」と聞いたら、「あれは便衣兵だから虐殺のカテゴリーに入らない」と言う。
 半藤 便衣隊を殺しても通常戦闘だから虐殺じゃないというわけなんですね。
 秦 だけど、便衣兵を全部無条件にオミットしたとしても、当然そのそばづえを食った人たちがいるわけでしょう。「難民区の中から引っ張り出してきては便衣兵に見えるという理由で処刑していたが、あの中に無実の人間も入っていたんじゃないですか。それはどうするんですか」と聞いたんです。
 そうしたら、「そんなところに一緒にいたのが悪いんだ」と言う(笑)。わたしはこれはどうにもならんなと思ったんです。百人斬り訴訟もそういう雰囲気ですよ。一人か二人は斬ったかもと陰では言いあうかもしれないが、やっぱり建前はゼロなんでしょうね。
 半藤 そうなんでしょう。数ではなく、事実がないという主張ですから。
 秦 日本刀ではそんなに斬れないなんて、高校生でもおかしいと思うようなトリック論法が横行するんです。いくら言ってもだめ。



追記
ランソン事件について、軍司令官だった土橋勇逸が、あの長大な回顧録で一言も触れていないのは不自然だと、秦先生がおっしゃっておられたが、これは私も同感。明号作戦がいかにうまいこといったかについては、得々と書いているのに。当時はともかく、回顧録を書いたころになっても、事件について知らなかったなどということは、明敏な土橋に限って有り得ないと思うが。


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菅辰次中佐(19期)、広島出身。少佐のときに予備役となり、アメリカに滞在。二度目の召集でボルネオの俘虜収容所長となる。俘虜のなかに『風下の国』の著者アグネス・キース女史とその夫、子供がいた。ボルネオ赴任前にこの本を熟読していた菅は驚き、女史に紙と鉛筆を与え、収容所の出来事や感想を書いてくれるように頼んだ。喜んだ女史は、提出用の他に、収容所の日本人に対する赤裸々な感想を綴った自分用の手記もひそかに書き溜めた。しかしその中でも、菅だけは、典型的な日本武士道にかなった人物として描かれていた。戦局の悪化に伴い、俘虜の処遇についてもいろいろな討議がなされた。軍司令部は収容所にも重機の一挺ぐらい必要だろうといってきたが、菅は受け取りを拒否した。東京に於ける収容所長会議でも「如何なる場合があるとも、俘虜を敵手に委してはならぬ」という当局に対し、彼は「私は、俘虜を殺す相談にきたのではない」と冷然として言い放ったという。

敗戦と同時に菅は戦犯としてラブアン島に護送された。連合軍の計らいで、台湾人の当番兵が付き添っていた。ラブアン島に着いた菅を、原住民の石礫が襲った。携行したトランクで防いだが防ぎきれず、血達磨となった。この惨めな仕打ちを受けて菅は、自決を決意した。しかし身に寸鉄も帯びておらず、辛うじて食事用の丸いナイフがあるのみであった。彼はこのナイフを頚動脈につきたて何とかこれを切ろうとしたが果たさなかった。そこで水筒に砂を詰め、当番兵を呼んで、これで自分を殴るように命じた。菅の人柄を愛し付いて来ていた当番兵は、ためらってなかなか撃てない。菅はこれを大喝して励まし、彼の心中を察した当番兵も意を決して、菅の後頭部に一撃を加えた。しかし菅は一時的に昏倒しただけで、死に切れなかった。息を吹き返した菅は、もう一度ナイフを首に当て、これを水筒で撃つようにいった。当番兵がナイフの柄頭を強く水筒で撃つと、ナイフは深く突き刺さり、ようやく致命傷となった。享年59歳。解放されたキース女史は、この収容所での体験を元に、『三人は帰った』という本を書いた。これは映画化もされ、菅は早川雪洲が演じた。

江本茂夫中佐(23期)、徳島出身。中尉のときに東京外国語学校に依託学生として入学。英語のほかにドイツ語、フランス語もできた。中佐で予備役となると、横浜専門学校の英語主任教授となった。翻訳書にリデル・ハートの『英帝国崩壊の真因』がある。召集されて品川停車場司令官をしていたが、昭和19年3月に函館俘虜収容所長となる。前任の畠山大佐はごく平凡な所長で、俘虜の虐待を奨励するようなこともなかったが、かといって看守らの体罰を積極的に取り締まる風でもなかった。隷下の室蘭第一分所長平手嘉一大尉は大阪外語学校のフランス語科を卒業した人で、英語も堪能であった。彼は俘虜の待遇に気を使い、体罰をやめるように何度も看守たちを集めて訓辞したが、畠山時代の収容所の空気はむしろ平手に不利で、兵の中には「彼は外人の混血児ではないか」というような者さえいた。この時期に起きた俘虜の死亡事件の責任を負って、平手はBC級戦犯として絞首刑となる。この判決には当時の俘虜の間からも、不当に重いものとして助命嘆願の手紙が来たという。

江本は元々日本軍の俘虜の待遇について不満を持っており、収容所長には志願してなったという。着任すると早速彼は、看守のみならず俘虜を使役する工場の従業員に至るまでに、体罰の禁止を申し渡した。また俘虜への給与も改善し、持ち前の英語力で彼等と積極的にコミュニケーションをとった。横浜専門学校時代、日本一の英語教師といわれた人だけに、英国人俘虜の中には、かれのことを「オックスフォードのプロフェッサー」と呼ぶ人もいた。当時の英国人俘虜は皆深く日本を恨んでいる。しかし江本のことを悪く言う人は一人もいないという。昭和41年没。
引き続きサントス殺害事件について。田々宮英太郎氏の『参謀辻政信・伝奇』にも、この事件は出てくる。田々宮氏は一応、和知の証言と並行して、林の主張も前掲の著作から引用して載せている。しかし最終的には、第三者の意見として、門松正一大佐の著作『絞首刑』の一節を引用して、まとめてしまっている。しかし門松の著作に載っている事件の概要が、第三者の意見と言えるかというと、それは無理だろう。田々宮氏の引用部分は次の通りである。

 もともとサントス事件は比島の内政事項であったので、逮捕した川口少将は林軍政部長にひそかに連絡をとり、その処置について指示を仰いでいたが、当時林少将もこれを処刑すべきか、活用すべきかを遅疑逡巡していたのであった。
 そこへ偶然にも飛びこんできて、林を叱咤激励し、とうとう処刑の決心をかためさしたのが、杉山参謀総長の随行参謀で、バタアン作戦を視察中の辻政信大佐であった。
 それにまた因果なもので、林と辻とは刎頚の友であった。林の台湾軍司令部南方調査班長時代に、辻は班付として一緒に勤務し、南洋方面の先鞭者としてお互いに認め合っていた同志だった。
 辻の自我を通さねばやまないあの気勢で林を煽動したから、元来性格が温順である代りに確固たる信念に欠けていた林は、辻の処刑意見についに同意してしまった。
 ここに現在の禍根があった。
 「ある日、俺が参謀部の留守中の仕事をするためにマニラの司令部に戻っていると、林がサントスの処刑命令にサインせよというものだから、よく内容も見ないで盲判を押したわけだ……。そして軍司令官の代印までさせられたのさ……もちろんそれまでの経緯は深く聴きもしなかったが……」
 私は、和知氏の豪放磊落であるその性格をよく知っていたので、同期の林を全面的に信頼して盲判を押した、当時の心状が分かるような気がした。
  一方林は、今日になってその処刑命令の実際の責任者であるにもかかわらず、「あれは軍司令官代理として参謀長が処刑命令を発信したのだから、俺の関知しないことで責任はない」と検事に主張した。

一読して分るとおり、門松の語る事件の概要は、完全に和知・川口サイドのストーリーと一致する。それもそのはずである。門松は確かに事件に直接関わりのないということでは、第三者といえる(事件当時大本営参謀)。しかし戦後、マニラに収監されてから、和知に相談事を持ちかけたり親しくしている。そして和知について次のように書いている。

 和知氏は、比島要人サントス処刑事件や比島側要人戦犯裁判の取り調べのためにここに収容されたが、検事の訊問の際の態度が立派であったので、みんなから尊敬されていた。
 比島側検事の訊問に、 「比島政府要人には罪はないのだ。みんな当時の参謀長だった俺の責任だ。俺が指導したのだから俺を絞首刑にして、要人を釈放してくれ」と堂々いってのけた。
 和知氏のような人は旧将軍徒輩には絶対に見られないことで、私は心ひそかに和知氏を畏敬していた。(門松前掲書)

推測するに、門松は事件の概要を和知自身から聞いたのではないか。この人を「第三者として、醒めた眼でこれを見ることのできた数少ない一人」ということができるだろうか?
林義秀『日本武士道の成れの果て』

これはエライ本である。何がどうエライかと言われると、うまく説明できないが、とにかくエライ本である。林は陸軍中将(26期)であり、フィリピン攻略時の第14軍参謀副長兼軍政部長であった。終戦時はビルマで師団長をしており、本間雅晴の裁判には出廷していない。林に言わせればこれが運の尽きであった。林と同期で14軍の参謀長をしていた和知鷹二が、何もかもの責任を林に擦り付けるように仕向けたという。中でも重要な案件が、ホセ・アバト・サントス殺害事件の責任であった。一般的には、サントス殺害は、辻政信にねじを巻かれた林が立案し、それが何とは無しに通ってしまった結果という感じで書かれることが多い。本書は、和知や川口清健(やはり同期)らの証言記録に対して、林が反駁していくという形式を取っている。勿論林自身の証言や、また彼の日記も収録されているが。少し本文を紹介する。

Q、和知さん昭和十七年四月十八日のホセ・アバト・サントス処刑の命令を見た事を覚えてるか。
A、只サントスと書いてあった。
Q、その命令は何所から貴方の所に来たのか。
A、その命令は林の所で立案されたものです。そして軍政部の関係のある皆の印を捺してあり、軍政部長林の印もあった。
Q、貴方がその命令を見た時林と云う印があったか。
A、ありました。

反駁、馬鹿者、何を吐かす、昭和十七年四月十五日バターンの戦闘司令所で俺が、貴様にセブでサントス云う者を捕えた相だなと云った時、貴様はうんひっつかまえたよ、彼奴はあの方面の反乱軍の首魁だ、それに紙幣を乱発して居ったので、川口に処刑せよと云ってやったよとぬかしたじやないか。自分で発令しておき乍ら今更白ばくれるな、更に仝年五月中旬川口がサントス処刑を本間に誥り且参謀部第一課で命令録を見せて貰った処、はっきり参謀部から発令されて居るのを見たと云ってるじやないか。

Aが和知、反駁が林である。

Q、直接訊問でサントスの処刑命令を見た時、之は単なる草案と見たと云ってるが。
A、途上のもの、軍政部の皆の印があった、私は橋渡しの印を捺いた。軍政部は決裁を経たものです。
Q、つまり第十四軍司令部に関する限り未だ最後的効果を持たぬであろう。
A、そうです
Q、何時効果を発生するか。
A、軍司令官の最後の印を取った後です。
Q、あんたの印は必要はないのか。
A、不賛成乍ら見たと云うだけ、参謀長に命令権なし。
Q、つまり印を捺いたのは見たと云う印か。
A、佐方繁樹が紙片を待って来て人の命を取るとは怪しからぬ、林と本間とが膝つき合わすべきもの、林は予てサントスの取扱を云われてる、印があった方が林が本間の所に行き易いと思うた。

反駁、何をぬかす、人の命を取る重要な命令を軍司令官に黙って出しだのは貴様じゃないのか、軍政部は此の命令には絶対に何も関係しとらん。又佐方はこんなものを持ってバターンに行った事はないぞ。

Q、自分の質問は貴方の印は簡単な言葉で、見たしるしだけで、第十四軍参謀長と云う重い役目の印でないのかと云うのだ。
A、命令権のない者の印です。

反駁、命令権のある重要な印であればこそ之を受けた川口はサントスの死刑を執行してるのだ。

Q、若しも貴方の印を捺いた事が、林、本間の会見を促進するものなら、一番実際的な事は貴方が本間に電話するか、林を呼ぶべきかである。
A、故に林に自ら来いと云うた。佐方お前帰れ、お前の来た事だけは本間に云う、お前では本間に失礼、サントスにも失礼だと。

反駁、ナニ失礼だと、口幅ったい事をほざくな、此の破廉恥漢奴貴様の不法な処刑命令のお陰で本間さんは死刑になり、サントスは軍法会議にもかけられず、恨を呑んで死んで居るのだ、馬鹿垂れが。

大体全編に渡ってこんな感じである。林の主張は一貫して、サントス処刑に関して軍政部は全く無関係であり、それどころか林自身、和知から直接サントスを処刑したことを聞いたというものである。
また次に引用するように、ロハスへの処刑命令についても、通説とはやや違うことを述べている。

Q、ロハス将軍の処刑に貴方は参謀長と云われる者から処刑命令が出たと云われてるが。
A、当時私は上京中、命令には参謀長の職印が押されてあった、参謀長の代理は林。

反駁、参謀部で発令しておき乍らまだうだうだぬかす、当時の実情はこうだ、昭和十七年六月十七日ミンダナオ島の戡定作戦から帰って来た中山源夫作戦課長が、同日私の所に挨拶に来てミンダナオ島の方は御陰で片がつきました、時に反乱軍の首魁のでロハスと云う者を捕えて居るのです。之が処置を明十八日現地部隊に指令してやらねばなりませぬ、参考にし度う御座いますから副長閣下の御意見を聞かして頂き度いと云うので、勿論あんたの方の仕事だが四月四日の杉山さんの御指示がある、之を参考にされては如何かねと答えた、参謀部の方の意見を纏め、和知の承認も軍司令官の決裁も得て十八日処刑の命令を生田部隊に出されたのである、然し生田部隊長はロハスを殺さなんだ。
 和知は此の処刑命令に参謀長の職印が押されて且参謀長の代理は林と云って居るが、真紅な嘘ぞある、処刑の命令の様なものに職印なんか捺す事は絶対にない又参謀長の代理は林と云って居るが、軍司令部が五月中旬バターンからマニラに帰還してからも続いて林は軍政部長専念で、参謀副長の仕事には帰らなんだ、和知の上京中の代理は作戦課長の中山源夫大佐だった。本件は後述の秋山紋次郎大佐の証言でも明である、和知の上京は六月二十二日だ、十八日の発令当時は和知はマニラに居た。
 それから此処に一言し度いのは本間さんの決心変更である、六月二十二日軍政事項報告の為本間さんの部屋に行った処、林君、儂は此の十八日参謀部から出た、ロハスの処刑命令を許可しておいたが、儂はロハスを助けようと思う、之を参謀部に伝えて呉れと云われ、中山に之を伝えた事がある。即ちロハスを助けたのは本間さんである。

ロハス殺害命令が参謀部から出たことは和知も認めている。しかしそれは和知の不在時で、不審に思った生田部隊の神保中佐が機転を利かせて処刑を行わず、東京から帰ってきた和知に確認を取って事なきを得たというのが、通説である。更に言えば、和知の留守中に処刑命令を出したのは、林であるようなことまで、和知は仄めかしている。しかし林に言わせると、処刑命令は、和知がまだフィリピンに居る時に出たもので、之を変更したのは軍司令官の本間自身であるとのことである。

一方最近出た『笹川良一と東京裁判2 「戦犯者」を救え』に、処刑の実行責任者である川口少将の手紙が収録されている。彼や和知がこの事件をどう捉えていたかがよくわかるので以下、紹介する。

(前略)小生は何故6年にもならなけれはならなかったか?それには種々ワケがある。
其一は当時小生に命令を下したH中将か本日になって知らぬ存せぬの一点張りであったこと、(中略)
其の三は貴兄か獄中記で筆を極めて嘲って居られる彼の妻と遊んで許り居た比島元軍司令官K中将がHの為証人台に立ち、実に臆面もない偽証をして小生を罪に陥れんとした。何故Kは斯る破廉恥を敢てせしや。それには二つ理由がある。
一は小生か断った弁ゴ士は偶々Kの弁ゴをもした。此男は仲々のやり手ではあるが、私が断った為に面子を失った。又前記の様に一般の評判は私の方に同情が集った。それでKは小生をやっつける事に依って其の弁ゴ土の御機嫌を取り、自己の再審其他を有利にせんとした。今一はKといふ男位嫉妬心の強い男はない。裁判の初期、私は無罪かも知れんといふ評判が高かった。それが彼にやけてしようがない。何でも川口を罪にし度い。之か彼の念願である。洵に以て情ない将軍ではある。斯くの如き奴か日本軍の上層部に居たから敗戦となったのだ。
尚は和知は小生に与へられた処刑命令の最後の文案に捺印した。之は全く盲判である。何となれば此時はコレヒドル作戦で参謀長たる和知は夢中になって居た。それで何の気なしに判を押した。然し法律上は盲判では通らない。けれども彼はロハス前大統領が矢張りHの独断命令で死刑執行されんとするのを聞き、ロハスを救助した。ロハスは其の恩義に依って和知を不起訴にした。積善の家に余慶ありである。当然なことと思ふ。然るに小生の部下に依って処刑されたサントスといふ比島大官は其の最后か実に立派であった。弁ゴ士か私の発言を抑へんとしたが私は此の美事な行動を是非天下に顕彰し度いといって弁ゴを断ったが、此のサントスは今や比島の新英雄となり、毎年五月十五日を以てサントス日となし、国民精神作興に努めて居る。比島としてはサントスの為和知を不起訴とし、其上に尚ほ私をも不起訴に出来なかったのであろふ。
尚ほ小生か軍に対し三度サントスを助けろと意見具申したに拘らす、H中将は何故に小生の意見を容れさりしや。実は巣鴨に入る迄疑問であった。然るに和知から聞きやっと真相か分った。夫は私か最初にサントスを助けろといふ電報を打った時に大本営から辻〔政信〕参謀か来て居て、H中将に対し直に殺して了ヘと指示したのだ。Hは辻の御蔭で比島軍の軍政部長になって居たので、自分の後輩たる辻に対し頭か上らんのであった。Hといふ男はKと同様実に卑劣な奴で、又オッポチュニストでもある。

文中のH中将というのは林を指す。K中将というのは黒田重徳のことである。黒田の証言は林の本にも収録されており、林に有利な証言をしたということで、彼も感謝を捧げている。非常に饒舌な人物で、第14軍司令官としては、兎角評判のあった人だが、それはおいておく。辻と川口はこの後、ガダルカナル島において、決定的な破局を迎える。辻に対する軍人仲間の評価は、戦後においても、高く評価する人とぼろ糞に言う人に二分されるが、林は前者、和知・川口は後者に含まれる。
南方攻略の三軍(25A、14A、16A)を見ていると、人間関係の悪さと戦争犯罪や不祥事は比例関係にあるということが分る。

オランダは今村岡崎に死刑を求刑したが、結局二人とも無罪となった。第2師団長だった丸山政男も無罪、東海林俊成も死刑を求刑されていたが最後は減刑され、無事復員した。これらはひとえに、大本営から何を言われようが「占領地統治要綱の通りにやっている」の一言で撥ね付けた今村と、其の意をよく汲んだ部下の賜物だろう。

第14軍は、バターンのデスマーチで本間と野戦輸送司令官の2人が処刑された。これに関しては、マニラかバターンかという戦略的な問題がまずあり、責任の殆どは大本営にあるが、そこで独断、バターンへ逃げる米軍を急追できなかった本間及びその幕僚の弱さも指摘できる。今村と本間は同期の親友で、あまり軍人軍人していないところもよく似ているが、こういう局面での強さに差があるように思う。また第14軍の司令部は物理的にマニラとバターンに分断されており、その辺も良くなかった。大本営参謀として乗り込んできた辻政信に好き放題やられたのも、それだけ付け入る隙があったからだろう。ちなみにサントスへの処刑命令に関して、戦後、参謀長だった和知と参謀副長だった林義秀が、責任の擦り付け合いをしているが、林は辻と台湾軍研究部以来の仲だけに、彼のほうがやや分が悪い。この件は神保中佐の機転で事なきを得たが、大本営は温厚な本間の軍政が気に入らず、第16軍に対したのと同様に文句を言っている。軍政担当だった林は、相当ねじをまかれたようだ。しかしそこで、幕僚統帥が行われるかどうかも、第16軍との違いだ。第141聯隊長だった今井武夫は、「捕虜を全員射殺しろ」という出所の怪しい命令(辻からのものらしい)を受け、驚いて逆に捕虜を全員釈放してしまった。また辻には、自動車での移動中、捕虜の隊列と行き会うと、拳銃で銃撃を浴びせたという凄い話もある。

第25軍には、先に触れたパリットスロン事件のような戦闘中の捕虜殺害からシンガポールでの華僑虐殺までいろいろ有る。軍司令官の山下は他で処刑され、参謀長だった鈴木宗作は戦死、辻は逃亡、朝枝はソ連ということで、結局河村参郎他1名の処刑で済んだが、やはりそれでは終われない問題を残した。25軍ほど人間関係がごたごたしているところも珍しい。台風の目は勿論辻で、参謀副長だった馬奈木敬信によれば辻が一目置いていたのは軍司令官だけで、鈴木参謀長に対してこれを面罵することもあったという。ただ先に触れた近衛師団のように、人間関係の悪さは辻絡みだけではない。そもそも軍司令官と参謀長の間からして、やや隙間があったという話だ。しかし2人がそれぞれ第14方面軍司令官、第35軍司令官だった頃を見ると、2人とも私情を仕事に持ち込むようなことは一切していない。

それでは三軍隷下の師団長、参謀長のその後を見てみよう。

  • 近衛師団
    師団長 西村琢磨
    →予備役→司政官
    参謀長 今井亀治郎
    →歩236聯隊長→漢口軍事顧問→関東軍附

  • 第5師団
    師団長 松井太久郎
    →南京最高軍事顧問→支那派遣軍総参謀長→第13軍司令官
    参謀長 河越重定
    →総力戦研究所員→第5軍参謀長

  • 第18師団
    師団長 牟田口廉也
    →第15軍司令官→予備役→予科士官学校長
    参謀長 武田 寿
    →第53歩兵団長→第1野戦根拠地隊司令官→第352師団長

  • 第16師団
    師団長 森岡 皐
    →予備役→華北綜合調査所長
    参謀長 渡辺三郎
    →船舶工兵第4聯隊長→第3船輸スマトラ支部長→第3船舶輸送司令官

  • 第48師団
    師団長 土橋勇逸
    →仏印駐屯軍司令官→第38軍司令官
    参謀長 川越守二
    東部軍附→第1船輸大阪支部長

  • 第2師団
    師団長 丸山政男
    →参本附→予備役
    参謀長 大木良枝
    →関東軍附→南方燃料廠附→スマトラ燃料工廠長

  • 第38師団
    師団長 佐野忠義
    →防衛総参謀長→参本附→第34軍司令官
    参謀長 阿部芳光
    →歩校教官→内地鉄道参謀長→広島地区鉄道司令官

まず丸山中将の予備役入りはガダルカナルの結果だからこれは例外。それ以外で即予備役入りは近衛の西村と16の森岡。森岡はバターン・コレヒドールでの苦戦を責められてのことだろう。第14軍では軍司令官の本間、参謀長の前田正美も予備役にされた。ちなみに森岡中将に関しては、辻から出た捕虜殺害命令を相手にしなかったという話があることを一応書いておく。そうやって見るとやはり近衛師団の西村と今井の冷遇が目を引く。上級司令部との折り合いの悪さ、とくに声の大きい辻政信との諍いが影響したか。この2人はお互い仲が悪かったそうだが、同時に両者とも、辻と険悪な仲であった。

最後に佐々木春隆『華中作戦』から今井に対する人物評を摘要するが、さすが陸大教官をしていただけに、その戦術は華麗で、佐々木大尉もすっかり魅せられたという。ところが戦術のイロハを弁えずに無理押ししてくる支那軍を前にすると、段々逆上しだし、「支那軍は戦術を知らん」などという泣き言まで飛び出した。その後妻の病死という悲報を受けるとすっかり意気消沈し、カイゼル髭を落として念仏ばかり唱えるようになり、そのまま更迭された。戦後はシベリアで病死したという。「英敏の代名詞」のような人であったが、頭が良すぎて戦場には不向きであったのではないかと、佐々木氏は同情している。

判決を受けて、中山弁護士は素早く、再審を請求する書類を提出した。その書類は以前と違い、簡潔で洗練されたものであった。中山弁護士への通信を検閲していたオーストラリア軍は、彼に知恵をつけているのが誰なのか知っていた。その人物こそ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護士であった。弁護側は改めて三人の証人を尋問し、新たな宣誓供述書を作り、それを提出した。それにはゴドウィンのやり口が如実に表されていた。

稲垣  (ゴドウィンによる尋問のやり方の例を示す)
ゴドウィン 西村中将が話したことを聞いたはずだ。
稲垣  聞いた、かもしれない、しかしそれについて覚えていない。
ゴドウィン それをはっきり聞いたはずだ。もう一度考えてみろ。私は十分調査した。彼が話したとあなたが言うとき、西村中将が命令を出したことを証明する調書を私は持っている。
稲垣  そうかもしれないが、私は思い出せない。
ゴドウィン 思い出したほうがいい、よく考えてみろ、こんなに重要なことを忘れているはずがない。
(取調官は非常に興奮した。彼は部屋から出て通訳に何か指示した。その後通訳が私に話しはじめた)
通訳  取調官はこの事件のことをよく知っている。フジタという当時捕虜担当の将校がこの部屋で、命令が出されたときの状況を証言している。
稲垣  そうですか。(私は取調官がいないとほっとして、気楽に彼に話した)。彼は何と言ったのですか。
通訳  西村中将はその場で、捕虜をすべて射殺するよう命じ、彼の副官がそれを伝えたとフジタは言った。

園   私は取り調べについて次のような印象を持った。何人かの証人が私の前に、ゴドウィン大尉によって尋問されていたようだった。彼は明らかに私の供述を、前の証人の話に合わせようと必死になり、私の尋問を急いで終わらせようとしていた。そのため私が思い出せないとか、思い違いの答えをしたり、前の証人の証言と違ったことを言ったりすると、ゴドウィン大尉は非常に興奮し、私の襟をつかみ、突き飛ばし、あるいは罰として立たせ、長い間わめき散らした。「巣鴨プリズン行きだ」とも言った。私が当時オーストラリアの兵舎で仕事をしていたのを彼は知っていたので、彼は「もし協力するなら、今のところで仕事を続けることができる」と言った。

日隈  彼は一九四二年マレーのパリットスロンで起きた事件について質問したが、私はその多くに答えられなかった。なぜなら事件は七年以上も前に起きており、ほとんど詳細は忘れている。にもかかわらずゴドウィン大尉は「それはこうだったのではないか。あなたの前に来ただれだれはそう言った。だからあなたはそこにいて、知らないわけがない」と言った。私が記憶になく答えられずにいると、彼は「あなたがすぐ答えないなら、永久に家に帰れないぞ」と脅した。私がはっきり思い出せないと、このようなことを言われ、私は次第に彼が言った通りなのかもしれないと思うようになり、それで「そうだったのかもしれない」とか、「そうだったのだと思う」というような、あいまいな答えをした。それが私 の署名した宣誓供述書です。

また虐殺を引き起こした近衛歩兵第5聯隊の聯隊長であった岩畔豪雄からも嘆願書が出された。それによれば、逃亡したフジタは、ゴドウィンの取調べを受けた後、岩畔の事務所を訪れ、善後策を相談していた。フジタは、西村師団長から殺害命令を受けたことはないこと、命令は今井参謀長のメッセンジャー役だった稲垣から受けたことを岩畔に訴えたという。同席していた岩畔の同期森本軍蔵も、岩畔の嘆願書を裏書する嘆願書を出した。これらが嘘でないとするならば、殺害は西村と仲の悪かったという今井亀治郎参謀長のラインから出たものと考えるのが妥当だろう。今井は岩畔と同期で、近衛師団参謀長の後、第236聯隊長を経て最後は関東軍司令部附であった。頭の鋭い人で、辻政信などともガンガンやりあったらしいが、戦後どうなったのかは分らない。ソ連に連れて行かれたのか?ちなみに236聯隊というのは、支那戦線に関する著作がある佐々木春隆元大尉のいた聯隊なので、彼の著作を読めば、多少はその人となりが分るかもしれないが、残念ながら私が持っているのは今井の前任の亀川大佐時代の『長沙作戦』のみなので、すぐには確認できない。

オーストラリア軍はこれらすべてを無視し、刑を執行した。西村は子供への最後の手紙で、「自分は責任を取る。おまえもそういう番がまわってきたとき、責任を回避してはいけない」という趣旨のことを書いた。彼は、「無実の罪で死ぬことはできない」と訴えていたが、一方で、誰かが処刑されねばならないとすれば、それは自分であるべきだという気持ちも持っていたように思える。西村はあまり家に居ないひとであったが、長男は、彼の車が道路に転がっていた少女のボールをひいてしまい、翌日その少女の家の前に新しいボールを置いてきたこと、ニュース映画で山下将軍が誇らしげに捕虜や鹵獲した兵器を視察しているのを見て「捕虜の前であのような威張った態度をとってはいけない」と怒ったことを覚えている。

辞世は

 責めに生き 責めに死するは 長たらむ 人の途なり 憾みやはする

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