近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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皆さん、マツノ書店さんから復刻された秋山兄弟の伝記は購入されましたか?安いものではないですが、パンフレットにも書いてあるとおり、二冊とも昔の本にしては文体も軟らかく、現代人にも読みやすい部類だと思います。この機会に是非どうぞ。
私はここのところ、兄上の面白ネタで、出典が思い出せないのが一つあって、ずっと苦しんでます。本棚を睨み付けても、何に載ってたか思い出せない。この伝記じゃないことは確かなんだけど。白川の伝記にも兄上ネタは多いのだけれど、それにも載っていないし。校長時代の話なんですけど、ここまで見つけられないとなると、ぼちぼち自分の記憶も疑わねばならぬ。やっぱり面白いと思ったらとっとと書くべしだなあ。
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明治40年11月31日に行われた、ハワイより来日したセントルイス野球団と慶応義塾大学野球部の試合は、日本で始めての有料試合となった。チケットは大いに売れ、皇族から庶民まで1万人の観衆が球場に詰め掛けた。そんな中毎試合、ネット裏より観戦している目付きの悪い鋭い一人の海軍軍人がいた。その人物こそ、先年の日本海海戦で「舷々相摩す」の名文句で日本国民の血を湧かせた秋山真之将軍その人であった。将軍は試合に先立ち、慶応野球部に対し、「褌論」という文章を与えて之を激励している。曰く「とにかく緊褌一番をお試し被成候得ば必ず多少の効能は可有之。五十間飛ぶ球が六十間飛び五秒掛かる所を四秒に走り三度の過失が二度で済む位の事は確かに有之候」
将軍の激励を受けた慶応野球部は見事にセントルイス野球団から勝利を挙げた。将軍の論文(?)は大正14年に日本橋白木屋呉服店で行われた時事新報主催の早慶野球戦復活記念展覧会に出品された。



さて彼が早稲田でなく慶応を応援したのは慶応好きの兄好古の影響でせうか?まあそれはどうだか分かりませんが、野球好きの方は間違いなく”のぼさん”の影響です。上の褌論の中でも、大学予備門時代は随分野球にはまっていたことを告白しています。この真之の褌論に共鳴した山下亀三郎は、褌を大量に持って渡欧しましたが、さっぱり売れなかったそうです。

ちなみに岡村寧次大将もまた野球好きでしたが、こちらは早稲田中学に通っていた関係から早稲田びいきでした。また岡村のポン友の河本大作もかなりの野球ファンであったらしく、満鉄クラブの後援会長など務めています。このクラブには名投手浜崎真二がいました。
今発売中の野球小僧によれば、よっさん(吉田義男)は阪急に入団寸前だったそうです。ところが時の阪急二軍監督の浜崎が、自分のことを棚に上げ、「こんな小さいのはだめだ」と言ったことから、阪神が獲得することができたそうです(ちなみにWikiによれば浜崎は身長150cmちょい!)。逆に350勝の米田哲也は阪急が阪神から奪いました。ついでに言うと、317勝の草じゃなくて鈴木啓示は、ドラフトで何故か阪神がスルーしたため、近鉄に行きました。もしこの二人を阪神が取っていれば、小山、村山、米田、鈴木、江夏という凄まじい投手陣が形成されて、プロ野球の歴史も変わったでしょうね。

1月18日追記
タイムリーにもNHKの「坂の上の雲」の出演者が決まったそうだ。
http://www3.nhk.or.jp/news/2007/01/18/d20070118000144.html
全13回で3年って一回何時間?2時間やってくれるの?

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先月は随分散財した。師走はほっていても物入りだし、自粛の方向で行きたいが、古本ってのは見敵必殺の世界だしなあ。悩ましいところだ。

秋山真之会編『秋山真之』
兄貴だけでは片手落ちなのでこれも購入。結構エクスペンシブでございました。米国留学中の真之がイギリスの佐藤鐡太郎を訪ねたとき。一緒に街を歩くのに、真之が洋服のポケットに忍ばせた煎り豆をポリポリやるのが、佐藤は恥ずかしくてしょうがなかったそうだ。また真之は兄譲りの医者嫌いで、食い過ぎで腹が膨れると、風呂敷とナイフをもって氷屋に行くのが常であったそうだ。風呂敷は途中で買う桃を包むためのもので、氷屋の店頭で桃をむいて食べ、その後氷を流し込むと、必ず腹が下って、膨れた腹が小さくなるのだとか。たかが食い過ぎくらいで無茶しすぎ。
目つき悪すぎ



森田靖郎『上海モダンの伝説』
晴気慶胤の『謀略の上海』が中々手に入らないので代わりにと購入。で、載ってたのが下の画像。

CAPTIONには李士群(左)と丁黙邨(右)とある。普通に読めば左のでこっぱちが、後に日本軍に毒殺された李士群であり、右が鄭蘋如とのスキャンダルで笑いものになった丁黙邨であるはずだが、左を丁としているサイトもあり、よく判らん。が、どちらにしても犬養健が書くほどの畸形には見えない>丁黙邨 ちなみにトニー・レオンが丁を演じる映画が撮られるそうだ。↓
http://nancix.seesaa.net/category/1890066-1.html
余談だが、晴気慶胤の弟は終戦時自決した晴気誠
蛇足ついでに若き日の汪兆銘。俳優みたいね。


斎藤瀏『二・二六』
やっと手に入れた。著者は済南事変に旅団長として出征した陸軍少将であり、佐々木信綱門下の歌人でもあった。栗原中尉とは家族ぐるみの付き合い。斎藤家が栗原中尉のことを”クリコ”と呼んでいたことは夙に知られる。樋口季一郎をして「女にしてもよいような美青年」と言わしめた栗原だけに、”クリコ”は”栗子”かと思いきやさにあらず。

「栗公らはやりましたか」
「やった」
家族も私も栗原安秀を栗公(クリコ)と呼んでいた。
「行きますか」
「行く」

斎藤少将といえば『獄中の記』も折角買ったのに積読状態となっているので、これを期に読む。佐々木信綱の言葉が泣ける。娘の斎藤史さんも歌人で先年お亡くなりになった。斎藤といえば、茂吉の長男斎藤茂太さんも亡くなってしまった。北杜夫さんにはまだまだ長生きしていただきたい。
しかしね、おじさん・・・

引き続き、秋山好古大将伝記刊行会編纂『秋山好古』より。

(タイトルは講演活動に精を出す弟に送った訓戒)

兄弟愛
長兄の則久は俊才の呼び声高かったが、上京して脳を病んだ。次兄は養子に出ていた為、家督は三男の好古が継いだ。則久は人に接するのを好まず、また入浴と理髪も嫌った。入浴の方はお熊婆さんが宥めすかして入れたが、理髪の方は好古が自分で近所の理髪店に連れて行った。途中煎り豆の袋を買うと、一緒に齧りながら順番を待った。
或るとき、理髪師が家に来たことがあった。則久は俄かに裏口から逃げ出し、夜になっても行方が判らなかった。遂に警察に捜索願いを出すと、夜半過ぎ、保護したとの連絡があり、好古が直々に、人力車を雇って、迎えにいった。二人は車に相乗りして帰ってきたが、好古は帽子も履物も則久に与え、裸足であった。
好古が遅れて食事を取る時など、則久は好古の食膳の前に来て、美味そうなものをつまんで食うことがある。風呂嫌いで爪は伸び垢で黒くなっていたが、好古は嫌な顔一つせず、「どうかな」と言うばかりで、好きにさせた。則久は61歳で亡くなったが、好古は最後までその面倒を見た。

兄弟愛(2)
真之が、母貞子が東京は寒いだろうと送ってきた綿入りの足袋を履いていると、好古は「贅沢」といって脱がしてしまった。
真之のあまりの身汚さに兄の道一が縮緬の帯をくれた。真之がそれを締めているのを見た好古は、「そんなものを締めるな」と叱りつけた。真之はその後、その帯を締めることは無かった。
或る雪の朝、真之が切れた下駄の緒を直していると、好古に「跣で行け」と怒鳴られた。
真之が英国出張を命ぜられたとき。出立の前日、好古が帰宅すると、真之は自室で出張の準備をしていた。しかし好古はいつもどおりで、特に何を話すわけでもなかった。翌朝、いつものように好古は出勤した。出掛けに交わした会話、
好古「淳、行って来い」
真之「うん」
これが兄弟の訣別の言葉であった。後でそれを聞いた母は、「いくら男とはいえ、弟が初めて洋行するというのだから、もう少し言い方もあるだろうに」と嘆いたという。
真之は来客が来ても床の間を譲らない人間だったが、好古が来たときだけは、自ら末席に付いた。そして海軍中将となり、妻子7人の大家族を持つに至っても最後まで、好古の戸籍に付属し、分家することはなかった。
真之が危篤となったとき、好古は検閲のため白河にいた。好古は「東京を出るときから今日あることを予期して、別れをすませてきた」として「行かぬ、宜しく頼む」という電報を打たせた。真之逝去の悲電が入っても帰ろうとしない好古に困った副官は、人事局長の白川義則に頼んだ。白川は「検閲は一時高級属員に代理せしめて帰京するように。これは大臣の命である」との電報を打ち、漸く好古を帰京させることが出来た。

結納
次女が結婚するとき、媒酌人が結納について相談に来た。
三輪田「結納ですが、百貨店の目録で如何でしょう」
好古「それで結構じゃが、出来れば俺に一つ頼みがあるんじゃが」
三輪田「それはどういうことでしょう」
好古「うん、外でもないが、あの角樽というのがあるじゃろう?俺はあれが欲しいんじゃがの、酒を一杯詰めてね」
三輪田「あれですか、お安いことと思いますが、一応先方にも申し入れた上で・・・」
好古「外の物はどうでも好いが、あれだけは是非欲しいの」
先方でも快く承諾したので、媒酌人が三越に注文すると、流石の三越にも角樽の出来合い品はない。そこで特別注文で造らせた上、酒を詰めて秋山家の送らせた。

買い物
長女が結婚するとき、真之が多美子夫人を助けて、柄や模様の見立てをした。それを聞いた好古は、「そのくらいのことなら俺でも出来る」と言い、実際次女の結婚のときには、自ら呉服屋に出向いて選定した。夫人は好古の目の高いのに驚いたが、後で届いた請求書が高いのにも驚いた。好古は価格に頓着せず、気に入ったものを注文していたのである。こうして好古の買い物は一回で落第となった。

服の趣味
夫人は云う。「秋山はあれで中々着物の趣味があったらしいのですよ。気に入ったものを着せるとニコニコしていますが、粗末なものを着せると矢張り機嫌が良くなかったようです。その癖少しも御構いが無いですから、着物だけには弱らされました。ひどく襟垢の付いた着物で、久松様の御邸に平気で出掛けるのですから、油断ができないのです」
松山での校長時代を知る人はいう。「松山できちんと和服を着られていたのは、女中さんが気を付けていたからです。加井夫人が「之を着なさい」と言えば「うむ」、「あれを着なさい」と言えば「うむ」で、要するに他から着せられていたので、放っておけば寝衣のまま何所へでも行くという無頓着さでした」

趣味
好古は浄瑠璃が好きであった。興が乗るとしなをつくて真似をしたりした。又相撲も好きで、特に常陸山のファンであった。常陸山が黒瀬川に初顔合わせで負けたときなど、家に帰ってきても「黒瀬は憎いほど強い奴じゃ」と云うので、家族は笑ったという。
陸軍特別大演習で福岡に来たとき。竹内副官を連れて食後の散歩をしていた好古は、突然活動写真の前で立ち止まった。
好古「竹内入ろうか」
竹内副官は怪訝な顔で「何処へでありますか?」
好古「活動によ」
竹内は驚いて「イヤ、お止めになった方がよろしう御座いましょう」
好古「でも、沢山人が入っとるじゃないか。入ろう、入ろう」

筆不精
白川義則が陸軍次官に就任したとき、教育総監をしていた好古は、人事に関する希望を葉書に墨で大書して送ってきて、白川を驚かせた。
白川「人事は秘密を要しますから、葉書ではなく親展書でお願いします」
好古「それじゃ、電話で言おうか」
白川「電話では後に書類が残りませんので、やはり書き物で頂きたいので・・・」


全国の騎兵将校から記念品として、銀の大花瓶が送られた。
好古「この花瓶は百圓もするかな」
武川大佐「いいえ、その数倍も致しました」
好古「そうか、それは大変な物を貰ったが、そんな高い物何故呉れた!!」
武川「ハッ」
大佐はまるで怒られたようであった。


住宅に関心の無い好古は一生借家で過ごした。その家も随分古い家で、雨が漏ることもあったが、一回も家主に修繕を要求したことはなかった。家主の未亡人曰く、
「秋山さんであればこそ、我慢して、あんなぼろ家に入って下さるのです」

禁酒
好古「清岡、お前ともう一度戦争に行きたいの」
清岡「余り強い酒さえお召し上がりにならなければ、是非御伴したいものです」
好古「此次は酒は飲まぬよ」
清岡「その御言葉だけは信用出来ません」

単身赴任
北予中学校長時代、古い友人が帰松した機会に訪ねて来た。丁度食事時となったので、友人が食事はどうするかと聞くと、何処からか貰った菓子折りを出して、「ここにええ物がある」とカステラの食い残しを食った。友人はそれを見て驚くと共に、単身赴任生活の不自由さに同情したという。




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鼻垂れ
子供の頃の好古は非常に弱い子供であった。母親の貞子は「この子は一人前の人間になれるだろうか」といつも心配していた。秋山家に50年仕えた女中のお熊婆さんは「いつも鼻汁を垂らしてよく泣く坊さん御座いました」と述懐している。いつも鼻を垂らしているので仲間からは「信公の鼻垂れ」だの「鼻信」だの呼ばれた。

兄を救う
好古の少年期はまだ男色の蛮風が残っており、御若手連という連中が横行していた。好古の次兄寛二郎は有名な美少年であったが、或る日御若手連に養成舎の一室に連れ込まれたことがあった。それを聞いた好古は兄の一大事とばかりに、多くの年長者を恐れずに養成舎に到り、兄を救い出した。

寝床
若い頃の好古は宴会などで如何に遅くなっても外泊しなかった。そして冬の寒い晩などは、隣室に寝ている村上正(騎兵将校)を「オイ正、起きい」と起こし、自分は温まった村上の寝床にもぐり込み、自分の冷たい床に村上を寝かせた。

虱退治
日清戦争では出征から8ヶ月間一度も入浴しなかったばかりでなく、顔もめったに洗わなかった。従って天気の良い日は、常に日向ぼっこしながら虱退治をしていた。それを見た兵隊は「そらまた大隊長の虱退治が始まった」と笑ったものだが、好古は「俺には特別虱が多いのじゃよ」と笑って応えた。

目録
中国から帰任した好古を迎えた家人は、荷物の中に目録は沢山あるが実物が一つも見当たらないので不審に思い「品物はどうされました」と尋ねたところ、好古は「皆やってきた。折角じゃから目録だけは貰うてきたんじゃ」

副官
中屋副官が病気で一時旅団司令部を離れて、療養していたことがあった。快癒した中屋がようやく司令部に追いつくと、好古は「馬鹿ッ!困ったぞ!困ったぞ!待ちかねとった。戦争で病気する奴があるか!」中屋はその言葉に部下に対する言い知れぬ信頼と慈愛を感じ、涙を禁じえなかった。


乃木大将が旅団司令部を訪れた。「酒を一升ほど買ってもらおうかな」という大将に、中屋副官が「いえ、酒は買わんでも、司令部に御座います」と応えた。大将は「うむ、そうか、それならわしが美味いものを御馳走しよう」と、伝令にスッポンを持参せしめ、「炊事場は何処かえ」と自身でスッポンを料理し、「よしよしこれで出来た。秋山もまだ戦地では、スッポンを食べたことはなかろう」と、自ら皿に盛って出した。

入浴
日露戦争中、好古は、副官や従卒が如何に勧めても「戦場に湯に入りに来たんじゃない」といって如何しても湯に入ろうとしなかった。好古が日露戦争中に入浴したのは、上陸後約十日目くらいの曲家店に於いてと、母長逝の知らせを受けた二牛所口に於いて、そして平和克復後の遼陽に於いての三回だけであった。そのため暇があれば、背を柱に擦り付けていた。奉天で福島安正と再会したときの挨拶。「やあ暫く。虱はまだわくかね」「うむ。まだわくよ」と応えた福島に、「そんならええが、人間虱がわかなくなると、もう駄目だよ」

蝿入りビール
極めつけがこれである。尋ねてきた外国武官と、卓を囲んでビールを飲みながら会談をしていたとき。ビールのコップには常に蝿がたかるので、皆それを払いながら飲んでいたが、好古のみは蝿を追おうともせず、蝿が浮いているビールをそのまま飲み、指で一つ一つ蝿を口から取り出しては捨てた。外国武官は皆、愕然として目を見張り、驚嘆して帰った。

会話
好古は出征中、およそ寒暖晴雨に対するグチを一言も漏らさなかった。中屋副官が「今朝は寒う御座います」と言えば「うむ、寒い」と応える。「今日は暑くなりました」と言えば「うむ、暑い」。「雨が降って困ります」と言えば「困る」。およそこんな感じであった。

居眠り
万国平和会議に陸軍代表として行った時。ブラジル全権が機雷沈設可否について大演説を為し、満場がこれに聞き入っているとき、好古は例によって誰憚ることなく鼾をかき始めた。都築全権がしきりに睨むが、もとよりそんなことで起きるはずは無い。三時間余り続いた演説がようやく終わり、皆が立ち上がると、その音で目覚めた好古は、「大議論でしたなあ」と立ち上りながら大欠伸。都築全権がやや怒気を含んで「貴方は眠っていたじゃないですか」というと「いや、要領だけは判りましたよ」

騎兵の襲撃
ホテルのサロンで安楽椅子を揺らして遊んでいた好古は、勢い余ってひっくり返り、足で卓を跳ね上げた。その物音に一同驚いて立ち上がり、英国のオットレー氏が「エクスプロージョン オブ マイン」と冗談を言ったところ、好古はゆっくりと立ち上がり応えた。「ノン ラタック ド キャバルリ」一同その諧謔にドッとわいた。

ホテルの部屋
海軍代表の島村速雄が風呂上りに好古の部屋を訪ねたところ、「君は何処で風呂にはいったんじゃ」と聞かれた。島村が「自室の風呂じゃよ」と応えると、「そうか、俺の部屋には風呂が無いんじゃ」という。「いや、そんな筈はない」「確かに無い」と押し問答の結果、二人で部屋を探すと、隣に立派なバスルームが付いていた。大笑いした後、島村が「では、君はまだ風呂にはいったことないのか」と尋ねると、「うむ、まだはいらんよ」とのこと。「そら汚いなあ」とあきれる島村に「なあに、風呂へはいらんでも死にやせんよ。俺は満洲出征中は風呂など滅多に入らなかったのじゃ」

手土産
第13師団長時代、好古の乗る列車が大雪で立ち往生したことがあった。列車内では菓子類で飢えを凌いでいた。将軍立ち往生を聞いた在郷軍人が次々と見舞いに来たが、何れも酒徳利持参で、飯を持ってきた者は一人もいなかった。

刺身
群馬県に出張したとき、宿屋の夕食に出た刺身が舌を刺すような味がした。副官が好古の部屋へ行き、不注意を陳謝すると、好古は既に刺身を平らげた後だった。好古は笑いながら「田舎に来て贅沢言うな。土地の人間は味の変わった刺身を当たり前と思っているのじゃ。勢いの良い刺身などこの辺の土地の者は食べたことないのじゃ。その辺によく気をつけるものじゃ」

校長
北予校長時代、好古は教師の欠勤による休講を非常に嫌い、そんなときは自ら補欠教授となり、連続二時間でも喜んで授業をした。

最期
好古危篤の報を聞いて、同期の本郷房太郎が駆けつけ、「秋山、本郷が判るか。馬から落ちるな」と言うと、好古は目を開き微笑み、「本郷か、少し起こしてくれ」と言った。皆、起こせば良くないことは判っていたが、本人が望むので、本郷と次男の二郎が抱きかかえて起こした。暫くして再び寝かすと、そのまま永き眠りに入った。

続く
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