近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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チケット売り場のお姉ちゃんに、見上げますよと忠告された前から二列目。確かに予告とか見てる間は、こりゃえらい席買っちゃったなと思ってたが、本編が始まるとそんなことも忘れた。ネット上の評判に違わぬすばらしい作品でした。
渡辺謙さんも伊原剛志さんもすばらしかった。伊原さんは実物に較べたらごついなと思ってましたが、No Problemでした。まあ正直最後の出撃から死までの謙さんにはデジャブを感じましたが。渡辺伊原コンビといえばテレビ版壬生義士伝と同じですが、このコンビ良いですねえ。
NAEは登場シーンが少なくて良かった。
破甲爆雷を水筒みたいに掛けて、遠足に出掛けたシドウ君も個人的にはツボった。
市丸少将は空気でしたな。
しかし寝水がミミズに聞こえた。藤田副官はカツゼツが悪すぎ。そらミミズは重要な栄養源だがな。愛国婦人会のおばちゃんを見習いなさい。キレキレやん。ただもんじゃないぜ。
よく聞き取れなかったが、清水君は後方勤務要員養成所って言ってなかったか?それじゃ憲兵じゃなくて中野学校じゃねえか。
一瞬噴進砲が出たような気がするが、気のせいか?
できればロスオリンピックの回想も入れて欲しかったな。
五体満足の健兵がああも簡単に自決するものか?
栗林閣下の周りに参謀が全然いないな。
と、こんな感じです。


帰り、メリケンの祭日には一日早いですが、阪急の商品券があったので、五感でケーキ買いました。

西男爵がサムに自慢した写真はこれだろうか?

ダグラス・フェアバンクスとは本当に友達だったらしい。



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野中大尉の話ではない。硫黄島である。
もう書くことも無いと思ってたが、映画第二段の公開が迫り、巷に関連本が並ぶようになったので。
しかしどれをとっても吃驚するぐらいナイヨウガナイ。金太郎飴かよ。栗林、西、栗林、西、たまに市丸。あわれなのは高石参謀長や中根参謀。栗林を神聖化するために完全にオミットされてる。語りつくされた栗林や西に代わり、脇役に少しはスポットが当たるかと期待してたオレが馬鹿だった。
保阪氏にしても、十年一日、知米派は非主流でとか。そんなくだらねえことどうでもいいんだけどね。はっきりいって勤務先の国のシンパになるというのは当たり前の話で、むしろ米国に染まらなかった佐藤賢了の方が奇人種で面白いんだがw


「父島ノ皆サン、サヨウナラ」
というのは硫黄島の一通信手が最後に送った電文だが、それではその「父島ノ皆サン」は何をしていたかというと、これが米軍捕虜を殺害してその肉を喰ってたんだな。所謂父島人肉食事件。勿論喰ったのは極々限られた一部であったが、其の中に旅団長や根拠地隊司令官が含まれていたから、事件は極めて特異性を持つこととなった。

父島には第109師団隷下の第1混成旅団がいた。旅団長立花芳夫は愛媛出身の陸士25期。陸大は出ていない。広島聯隊区司令官から現職に就いた。一方父島で輸送業務にあたっていた堀江参謀には、栗林中将より、作戦指導に関する権限が与えられていた。硫黄島が玉砕すると、混成第1旅団は第109師団に改編され、立花少将は中将に進級と同時に師団長に補された。このとき堀江参謀は大本営に「事情あり、適任の師団長を派遣せられたし」と電報を打った。更に返電が無いと見ると、「参謀長でもよいから派遣せられたし」と打電した。大本営ではこれを受け、柴山兼四郎次官が、「堀江がそんなに困っているのなら何とかできないか」といったが、結局制空権の無い島に送り込む手段が無いということで、沙汰止みになった。堀江がこのような異例の要請電を打ったのは、旅団長以下の振る舞いに起因する。

そもそも父島は、物資が限りなくゼロに近いレイテやニューギニアに較べれば、少なくとも上級幹部が食べるものくらいはきちんとあった。その父島で、分別のついた大人たちが、何を好き好んで人肉に手を出したのか?秦郁彦氏は、その原動力となったのは陸軍の立花少将、的場末男大隊長、海軍の森国造中将、吉井静雄大佐の4人としている。立花少将は、酒瓶に目盛りをつけて、兵隊が盗み飲みしないようにする程の酒好きであったそうだ。的場少佐に至っては、酒好きというより酒乱であったようだ。武芸計十数段、六尺ゆたかな偉丈夫で、やたらと部下を殴るので、皆から恐れられていた。性格が凶暴化した原因は、歩兵第56聯隊の大隊長として、マレー戦線で活躍したにも拘らず、軍医学校の戦術教官というような閑職にまわされたことに由来するのではないかと推測される。ただマレーでの指揮は、むやみに突撃して部下に多くの死傷者を出す暴虎馮河の勇といった感があったようだ。尤も、左遷に近い人事を受けた理由は、その指揮っぷりではなく、酒乱の方にあったのではないかと思われる。というのも少佐は、シンガポール陥落を祝した軍民幹部出席の映写会に、一杯機嫌で乱入し、フィルムを引きちぎるという狂態を演じているのである。このとき同期の朝枝繁春参謀が止めに入った。朝枝もまたどちらかといえば乱暴な人物であったが、的場はその制止を振り切ってなお暴れたというから凄い。この旅団長と大隊長は、酒を通じてかどうかは知らないが、非常にうまが合ったようで、そのうち人肉を喰うぞというような話になったらしい。

最初は海軍が処刑した捕虜を喰ったが、そのうち喰うために処刑するようになった。またその処刑も、一思いに殺すのではなく、木に針金で縛り付けて行われるなど、残虐なやり方であった。旅団長命令で、嫌々捕虜を斬った召集の60歳代の中佐は、後に絞首刑となった。

一方海軍の森中将は、米内光政の参謀を務めていたことがあり、非常に米内を尊敬していた。しかし「人間の肝は日清日露の戦役では薬用として食べられ、征露丸と呼んでいた」というような怪しげな知識を振り回していたという。そのせいか、海軍は陸軍に対して、「今度捕虜を処刑したら肝臓を持ってきてもらいたい」というようなことを頼んでいる。

堀江少佐は、ホール中尉という捕虜を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていた。しかしそのホール中尉も遂には連行され、喰われた。だが堀江少佐は『闘魂硫黄島』の中では、立花少将を頭の鋭い実行家、的場少佐をマレーの勇者、森少将を自らケーキを作り振舞うなど気さくな人物という風にしか書いていない。

戦後、遂にこの事件を嗅ぎつけた米軍は、果たして怒り狂った。森中将だけは死刑を免れたが、立花、的場、吉井を含む5人が絞首刑となった。ちなみに、ここで処刑を逃れた森中将もマカッサルの裁判に於いて刑死している。岩川隆『孤島のつちとなるとも』によれば、立花少将、的場少佐は、処刑の前日まで、踏む、蹴る、殴る、壁に叩きつける、気絶したら水を浴びせかけるといった凄まじい虐待を受け続けた。二人は這うように処刑台を上がったのではないか。ただ父島の通信隊司令であった吉井大佐は、「無差別空襲をするパイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した。命令はすべて自分が出した。部下に責任は無い」という態度を崩さなかった。そのせいか、海軍で極刑となったのは彼一人である。私も無差別空襲が戦争犯罪であるという点は賛成だ。どう言い繕ってもあれは完全無欠の戦争犯罪。中には極刑に値する人物も居るだろう。しかしそれを無裁判で殺し、ましてやその肉を喫食しては、元も子も無いではないか。



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堀江少佐によれば、栗林中将は大分グチっぽくなっていたようだ。

「永田さんでも生きておれば、こんなことにはならなかったんだよ」

「鈴木宗作さんも同じことをいわれていましたが」

「なんだ、君は鈴木さんの部下だったのか。頭のいい人だね。教育総監部で一緒だったよ・・・永田さん、今村さん、鈴木さん、あのころは君、教育総監部はそろっていたよ。相沢とか何とかいう狂人が殺しちゃって、国宝を失っちゃったんだ。盲目の馬鹿めらが愛国だヘチマだのといって、見さかいのつかないことをやるからこのざまだ」

「ご郷里が同じなので特に永田鉄山と親しくされたわけですか」

「うーん。偉い人だったよ。世界を見ていたよ。何しろ宇垣さんの一番弟子だからね。俺も東京師団で火災なんかが起きなければこんな所へきやしなかったんだ」

永田鉄山は栗林と同じ長野県出身で栗林と同じ時期に教育総監部にいた。今村鈴木は共に陸大首席卒業の英才だが、二人とも教育総監部には勤務していないはずだが・・・。今村はラバウルの第8方面軍司令官として終戦を迎え、鈴木はレイテの第35軍司令官として戦死した。堀江少佐は、栗林中将と幕僚たちとの不仲の原因に、現状に対する認識の差異を挙げている。

結局堀参謀長と大須賀旅団長は更迭となった。参謀長後任には第93師団参謀長であった高石正大佐(30期)が、旅団長の後任には、栗林と同期の、仙台幼年学校校長千田貞季少将がそれぞれ任命された。いずれも歩兵戦術の大家であったらしいが、栗林の好きな陸大は出ていない(高石大佐は陸大専科卒)。果たして栗林中将との関係はどうであったのか?本当のところは分からない。更に中根兼次中佐が高級参謀に補され、司令部を強化した。中根中佐は豊橋中学出身の陸士35期。歩兵学校で恩賜賞を貰い、陸大専科を卒業した。剣道五段、歩兵の神様といわれる猛者であった。一方で非常な親孝行でも知られ、歌心もあった。最期の訣別電はこの中根中佐の筆によるという説もある。硫黄島への赴任時、次女はまだ9ヶ月に過ぎなかった。

栗林中将はノイローゼになり、実際の指揮は高石参謀長、千田旅団長、市丸少将らがとったという話がある。ノイローゼ云々はともかくとして、栗林は騎兵科であり、千田以下が歩兵戦術の大家であるとするならば、実際の戦闘指導が彼等によって行われていたとしても、不思議な話ではないと思う。また降伏しようとする栗林を中根参謀が殺害したという話もあり、これは実際に見たとする人物が居るが、なんとも言えない。

一方更迭された二人は内地に帰ることなく、司令部附として島に残り、戦死した。大須賀少将は病気をしており、野戦病院内で死を迎えたとの説もある。二人が島に残されたことについて、栗林中将の差し金であるようなことが、SAPIO誌上に書いてあった。勿論彼等の人事に栗林が全く無関係ということは有り得ないが、正式な権限は栗林には無い。最終的な決定は東京である。

硫黄島シリーズは次で最後。明日映画見てくる。

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第109師団は2個旅団から成っていたわけだが、そのうち第1混成旅団は父島に位置した。硫黄島に配置されたのは混成第2旅団。初代旅団長の大須賀応少将は北海道出身の陸士27期、兵科は砲兵であった。硫黄島の将校の中では珍しく陸大も卒業している(39期)。父島要塞司令官から新編の混成旅団長となった。堀大佐、砲兵隊長の街道大佐と親しく、堀江少佐は二度旅団司令部を訪れたが、二度ともその三人がお茶を飲んでいたという。

厚地大佐は摺鉢山の地区隊長として戦った。鹿児島出身の負けじ魂の強い人だったそうだ。

硫黄島唯一の歩兵聯隊、鹿児島第145聯隊を率いていたのは、やはり鹿児島出身の池田増雄大佐であった。大佐は陸士27期、もちろん無天であった。

戦車第26聯隊長の西竹一中佐もこれまた偶然にも本籍鹿児島であった。外交官であった父が授かった男爵を襲爵。ロサンゼルス五輪の馬術競技において金メダルを獲得したスターであった。非常なプレーボーイでアメリカにも知人は多かった。




機動力の使えない硫黄島で死ぬことを残念がって、堀江少佐には何とか転属させてもらえないかというようなことを言っていたらしい。しかしその後一旦東京に帰り、戦車をかき集めると再び硫黄島に戻り、そして死んだ。伝説を残して。


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父親たちの星条旗』公開に寄せて

第109師団は昭和19年5月に父島要塞守備隊を基幹に編成された師団で、2個旅団から成り、それぞれの旅団は6個の独立歩兵大隊から成っていた。歩兵大隊の大隊長は60前後のロートルが多かったらしい。小笠原兵団とはこの第109師団に、歩兵第145聯隊や戦車第26聯隊などの諸部隊がくっついたものをいう。ちなみに支那事変初期に存在した第109師団とは別物である。

師団長栗林忠道は長野県出身で長野中学から陸士に進んだ。陸士は26期、兵科は騎兵、卒業席次は125番と平凡であったが、その後陸大に進み(35期)、これを次席で卒業して恩賜の軍刀を賜った。ちなみに首席は陸軍開闢以来の秀才といわれた藤室良輔。その後米国、カナダに勤務して所謂知米派となる。海外駐在時代はしきりに子供たちに絵手紙を送っていた。第23軍参謀長として、大東亜戦争の緒戦において香港を攻略。その後近衛の留守師団長となったが、部下(幹部候補生らしい)が火事を出した(宮城か?)ために、東部軍司令部附に左遷され、間もなく第109師団長に補された。同期のトップから比べればやや遅れたが、それでも栄転には違いない。しかし本人はこの人事に非常に不満であった。貧乏籤との思いが強かったのか。確かに彼が辞めさせられた僅か3ヶ月後には、近衛第2師団の留守師団は近衛第3師団に改編された。そのままなら東京で近衛師団長だったはずだ。

堀江芳孝少佐によれば、栗林中将は非常な陸大至上主義者であり、無天や専科を雑魚扱いしていたそうだ。ちなみにこの観察をなしている堀江少佐は陸大を卒業している(陸大については拙サイトを参考にして頂きたい)。兵団司令部は堀江少佐を除けば皆無天であった。そのため兵団長と参謀たちの関係はあまり良好とは言えなかったようだ。

陸大至上主義者といえば、栗林と同期の花谷正を思い出す。彼もまた無天を非常に馬鹿にしていた。馬鹿にするだけならいいが、花谷は更にぶん殴った。下は兵卒から上は大佐に至るまでであるから恐れ入る。残念なことに昨今いじめを原因とした自殺が続いているが、第55師団でも兵器部長を筆頭に何人かの自殺者が出ている。いずれも花谷の虐待が遠因である。死なないまでも頭がおかしくなって後送された軍医もいる。しかしもちろん従順に殴られる人間ばかりではなかった。昭和20年2月、歩兵第121聯隊長であった長澤貫一大佐は第55歩兵団長に任命され、後ろ髪を惹かれる思いで、部下と離れ師団司令部に出頭した。長澤は花谷より1期先輩の25期であり、幼年学校も大阪で、花谷の先輩にあたった。しかし無天のため、出世は花谷より遅れていた。花谷はいつもの調子で、
「なんだ貴様は蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか」
「平時なら、貴様のような低脳は閣下になるような人間じゃないぞ」
とやった。ところが長澤はこれを聞いて黙っては居なかった。
「私はいかにも無天だ。しかし歩兵団長としての任務は遂行しているつもりだ。何をいうか。貴様は大阪幼年学校では、おれの後輩じゃないか」
これを聞いた花谷はビール瓶を手に長澤に殴りかかったが、長澤はこれをかわして軍刀に手をかけた。副官は慌てて割って入り、竹薮の中に筵を敷いて二人を座らせ、論戦で対決させた。二人は睨み合っていたが、少しして花谷がいった。
「おれが悪かった。あやまる」
この話は高木俊朗の『戦死』よりの引用だが、この長澤将軍の態度というのは、いじめに対する一つの戦術ではないだろうか。いじめる人間というのは大概弱い。ところでこの第55師団にしても、インパール作戦を強行した第15軍にしても、その作戦も陰惨だが、司令部の空気もまた陰惨であった。これはもちろん長の性質によるところも大きいが、参謀長の無能無気力無責任のせいでもある。実際第55師団も、河村弁治大佐から俊秀でなる小尾哲三大佐に参謀長が替わって、大分ましになったそうだ。自分に矛先が向かってくるのを恐れておべんちゃらばかりだった河村と違って、小尾は花谷に向かって
「閣下、なぐってはいけませんぞ。師団長がおこったら部下がいじけますぞ」
と遠慮なく直諫したという。

さて話を小笠原兵団に戻すと、兵団の初代参謀長は堀静一大佐であった。大佐は陸大専科を出ており、歩兵科であり歩兵聯隊長も務めているが、その前は鉄道関係に居たらしい。長い髭をたくわえた温厚な人物で、よく人の話を聞いてメモを取るような真面目な人であった。栗林中将とも最初は親しかったらしい。しかし何が原因かは分からないが、栗林中将は堀大佐を非常に嫌うようになった。ある日の朝礼などでは、中将は大佐に向かって、ひげでは戦争はできないと凄い勢いで面罵したという。その場に居た堀江少佐は居たたまれず、そっと場を離れた。50も過ぎてひげがどうのとは、堀大佐も確かにうんざりしただろう。逆に言うとそれほどまでに栗林中将の大佐に対する感情は悪化していたのだろう。西川参謀、吉田参謀も陸大専科を出ていたが、やはり中将に軽んじられることに不満を抱いていたようだ。しかし西川参謀などは、戦術論に関しても臆することなく意見を述べていたようだ。

つづく。。。

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