本書の三分の一を占める第7章なので、さくっとまとめますと、
- 米内内閣の倒壊の一番の原因は近衛の新体制運動であり
- 畑の辞職も結局はそれと無縁ではなく
- 米内が、畑の辞職に全く感付いていなかったわけはない
もう一点、畑陸相が統帥部から辞職勧告を受けた経緯について。畑日記では
と、沢田茂次長から直接、閑院総長宮の署名入りの『大本営陸軍部参謀総長より陸軍大臣への要望』という書付を渡されたことになっています。一方沢田中将は、書付は阿南次官に渡したのであって、直接大臣には会っていないし、署名は自分のもので、断じて総長宮殿下ではないと回想し、食い違いを見せています。この点について著者は、東京裁判での沢田の口供書を見つけ出し、事実は畑の日記通りであり、沢田は、東京裁判では畑を救うために真実を語ったが、ずっと後年の回想録では、今度は閑院宮の責任を免ずるために、手のこんだ虚偽の回想をしているのではないかと、指摘しています。午后次長来訪、(中略)此申出なるものは覚書とて総長宮殿下の捺印あるものなり。こゝまで追い込まれては余として当然身体を明にせざるべからざることゝなれり。
この一件は「豆絞りの手拭を被った」武藤章の陰謀であるという田中隆吉の著作の威力はまだまだ強いですが、実際は近衛と陸軍の合作で、そこに米内の淡白さが加わった結果といったところでしょうか。
この部分昭和天皇二つの「独白録」 (NHKスペシャルセレクション)当時新聞では陸相候補として磯谷中将外一名が出ていた。この両名では又日独同盟をもり返えす怖れがあるし、又当時政治的に策動していた板垣系の有末軍務課長を追払う必要があったので、私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据える事を阿部に命じた。
御前で阿部の口から出たのは多田だったはずです。しかし陛下は多田の名前は忘れておられる。これだけを見ると確かに、佐野氏が言うところの東條憲兵の謀略的リークは成功しているように思えます。阿部が参内してくる以前、新聞報道を見た時点で陛下は、阿部の持ってくる陸相案に反対する肝を固めておられたようですから。しかし同時に多田や磯谷が忌避された理由もはっきりします。陛下には、日独同盟に反対するであろう梅津という意中の人物がいたわけです。ですからこれは想像ですが、仮に板垣が多田ではなく東條を推薦していたとしても、陛下はこれを却下されたのではないでしょうか。新聞は候補者として二人の名をあげた。その一人は磯谷中将(現在は巣鴨拘置所にいる)だったが、他の一人の名は思い出せない。日独同盟に同意する方向に進むおそれのある将官を陸軍大臣に据えることは何としても避けたかったので私は畑大将と梅津中将の二人の名を持ち出した。畑、梅津ともに日本がドイツと同盟を結ぶことには反対であると私は確信していたからだ(畑が侍従武官長にする前、私は宮内大臣の松平に、畑が日独同盟についていかに考えているか調べるよう命じ畑が同盟に反対だと知ったあと、畑を侍従武官長に選任した)どうしたらよいか苦慮した阿部が板垣大将に相談したところ板垣は梅津起用に反対した。その結果当時私の侍従武官長だった畑を任命するほかなくなり、畑が陸軍大臣に据えられた。
畑、梅津がいずれもドイツ駐在組で、多田、磯谷がドイツに縁もゆかりもない支那通というのはちょっと皮肉なものです。私自身は梅津がそこまで日独同盟に反対であったという確信は持てませんが、殊の外軍人に目を配っておられた陛下のことですから、何かつかんでおられたのかも知れません。一方、多田や磯谷が日独同盟をぶり返すような人物であったという確証も無いですが、これは彼ら個人の資質の問題というより、陛下の(現陸相)板垣に対する怒りと、阿部内閣の出自そのものへの不信感に起因するとばっちりではないかと考えます。
五相会議に於ける板垣の粘りは語り草です。彼個人がどこまで日独同盟に拘りを持っていたのかは疑問なのですが、枢軸派の部下の要求通りにしつこくしつこく粘りました。日独同盟が嫌で堪らなかった陛下にとって、これは本当に頭にきたと思います。その板垣が推している、それも彼と同類っぽい人物というだけで、陛下的にはOUTだったのではないでしょうか。平沼内閣が総辞職するとき、板垣も他の閣僚と同じように形式に則った辞表を呈出しましたが、それを読んだ陛下は、侍従武官長の畑を呼び、
と憤懣を述べられております。陸軍大臣の辞表は形式とはいえ他の閣僚と同一通り一遍のものなり。不満に思う。
また陸軍で阿部信行への大命降下工作に活発に動いていたのは、軍務課長の有末精三大佐とその部下の富田直亮中佐、牧達夫少佐の「枢軸三人男」でした。有末はムッソリーニと親友であるというのが自慢の種の男で、自伝では誤魔化してますが、このときかなりえげつない工作をやっているようです。そのお陰で彼の宮中での評判は最悪で、まだ阿部に決定する前、「宇垣山を降る」という情報を得て、侍従武官長の畑に問い合わせの電話をしたとき、畑から
と剣もほろろに突き放されています。またその後陸相に就任した畑から、「阿部総理は勿論他の閣僚に話しかけてはいかん」と、政治に関わることを禁止されています。ただ彼が板垣系というのは間違いで、彼は典型的なオポチュニストです。「君いい加減にし給え、君は宮中で評判悪いよ」
有末が阿部内閣についてどう考えていたかは、次の挿話がよく顕しています。彼は北支方面軍参謀に転任することになり、赴任前に宝亭で家族と食事をとることにしました。彼が麹町の宝亭に赴くと、「武藤様御席」という札が掛かっており、挨拶をしようと顔を出すと、武藤章の他に秋永月三、河村参郎、池田純久、岩畔豪雄の4人がいました。
これは軍務局長武藤章回想録河村が、
「オイ、久原はどうか」と私に聞く。
「なんだ、次の内閣の話か」というと、
「ウン、そうだよ」と河村は平然と答えた。
私はムッときて、
「なんだ、君等は僕らがせっかく作った内閣をつぶす気か。それなら俺も新民会をぶっつぶすぞ」と少々気色ばんでいった。
「マァマァ、そんなことをいうなよ」と河村。
「イヤ、私は明日、北支へ赴任する」と私がいうと、
「オイオイ、冗談だよ」と武藤が茶化した。
組閣直後のまだ軍務課長時代、西浦進と共に中支、北支の視察旅行をした有末は、北支で軍司令官の多田に会い、彼から「乃公の陸相候補が中止になったその真相、特に陛下御信任云々について」説明を求められ、次のように答えています。
どう考えても有末自身、誡めの対象であるにも関わらず、この”ひとごと”のような説明には苦笑せざるを得ませんが、彼の回答は確かにこの問題の真因を衝いていると、私は思います。「何も閣下をご名指しで忌避せられたのではなく、阿部大将の大命拝受の折、とかく近時における軍のやり方について、軍全般をお誡めになって越軌の行動を抑えるために、特に畑大将か梅津中将をお名指しになったのでしょう。畑大将着任の訓示が、最も雄弁にこれを説明していると思います」
以上、本書において最も短い第6章について長々とやりましたが、ここらで終わろうと思います。
佐野氏は陸軍担当の政治部記者で、宇垣一成や畑俊六、永田鉄山らと親しく、特に磯谷廉介からの信頼の厚さは格別で、磯谷が香港総督をしていたとき、招聘されて彼の下で新聞班長を務めています。植田司令官と板垣陸相の間で、出せ、出さないとやっている間に、東条の巧妙な″多田潰し″が始まるのです。
第一弾は八月二十八日、夕刊の締め切り間際ギリギリに同盟通信から「後任陸相は磯谷廉介中将」という情報です。これは、憲兵隊が同盟通信にリークして、新聞社に流されたものですが、各紙は大きく取り上げてしまったのです。
僕ら陸軍省を担当している記者は、すでに後任陸相は第三軍司令官の多田駿に決まっているのを知っていましたから、この誤報にはびっくりしたものです。さすがに毎日新聞だけは最終版で「後任陸相は多田駿」と書きましたが、要するに磯谷を強く印象づけることで、多田の影を薄くしてしまおうという狙いの情報操作です。
第二弾は、「陛下が磯谷や多田は信任しない。後任は梅津か畑だ」といったという怪情報が、陸軍省や参謀本部に流されたことです。天皇は、閣員名簿奉呈時にたまに意見をいわれることはあっても、情報段階で意見を述べることなど考えられません。まして磯谷は候補者でもなく、三長官会議で名前すら出ていない人物について天皇が「信任しない」というわけがない。これは宮中を巻き込んだ謀略です。前述したように憲兵隊は、一時間おきに板垣陸相の行動を逐一チェックしていて、全神経を集中して後任陸相の情報を取っていました。当然、後任陸相が多田に決まったということも知っているわけです。その憲兵隊が磯谷陸相を流すのはまったく謀略です。
事実、当時の東京憲兵隊長加藤泊治郎(22期)は、二十八日夜、内務大臣木戸幸一を訪ね、多田反対の協力を求めているのです。
〔木戸日記〕昭和十四年八月二十八日
……午後八時、加藤〔泊治郎〕憲兵隊長来邸、陸相に多田〔駿〕中将云云の話あるところ、若し之が決行せらるるに於いては、陸軍部内の派閥抗争は一層激化すべしとて非常に苦慮せられ、之が防止方につき相談あり
加藤は、東条英機が関東憲兵隊司令官当時、奉天憲兵隊長をつとめた東条の腹心中の腹心です。おそらく東条の密命を帯びて木戸を訪ねたものと思われます。
先月号で触れたように多田と東条は、犬猿の仲ですから、東条にしてみれば多田が陸相に就任すると自分が飛ばされるのは目に見えている。東条が一派を挙げ多田潰しに奔走したのは分かります。
板垣陸相は、こういう揺さぶりに弱く、多田の陸相案を白紙に戻して、三長官持ち回り会議で、後任陸相に畑俊六を決めました。板垣は少くとも侍従武官長を通じて、三長官会議で後任に多田を決めた事情を内奏すべきでした。三長官会議で決まった陸相候補が大臣に就任しなかったのは、後にも先にも多田中将ただ一人です。
東条一派の工作が見事に成功したわけです。さすがに憲兵の情報工作はうまいものだなと思いました。
まず第一弾について。これを解釈するとこうなりますか。
”多田はOKだけど磯谷にはマイナスイメージがある。その磯谷を前面に押し出すことによって、次の陸相候補そのもののイメージを落とした”
誰よりも磯谷に親近していた佐野氏の論としてはやや皮肉ですが、それでは磯谷のマイナスイメージというのは何か?ノモンハンは陸軍内部では大問題でしたが、宮中ではそれほどでもなかったようです。佐野氏は、磯谷が孫文と親しかったことが一つあるのではないかと言っています。思想問題というのが宮中では非常にセンシティブな問題であったのは確かですが、それにしてもそれだけでは弱すぎます。リース・ロス(イギリス人)の幣制改革に反対したことがありましたが、やはりアピールとしては弱いでしょう。なんぼ陛下が親英派だとしても。
第二弾についてですが、実際陛下は「後任は梅津か畑だ」みたいなことを阿部に言ってるわけです。佐野氏がそのことを知らなかったのか、或いは阿部の参内以前からそういう噂が流れていたのか。多分後者だと思うんですが、ちょっと裏付けが取れないので鵜呑みにはできないですね。僅かに額田坦がそれらしいことを書いていますが。それに加藤が木戸を訪ねたのは午後8時、阿部の参内が9時前。幾らなんでも薬の効きが早すぎます。
要するに佐野氏は、東條の計画が何から何まで図に当たり、目障りな多田、磯谷を潰したと言ってる訳です。しかし対象が近衛ぐらいなら、或いはそういうことも可能だったかも知れませんが、天皇陛下が相手ですからね。東條派が色々と策動したのは確かでしょうが、真因はそこではないように思います。次回は陛下がどう考えておられたのか探ってみます。
テクノラティプロフィール
というものでした。それを聞いた有末は、「電気ではねられたように」驚き、それは湯浅内府の言葉か、それとも陛下直々のお言葉かと確かめ、直々のお言葉と知って二度びっくり、慌てて西尾教育総監、中島参謀次長を招聘し、改めて協議が行われました。「どうしても梅津か畑を(陸軍)大臣にするようにしろ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所に持って来ても自分はこれを許す意思はない」
ちなみに児島襄の『天皇』第4巻によれば、陛下は阿部に椅子をすすめ、
といった質問をされたそうです。「永井(柳太郎)は排英運動をやっておったが大丈夫か。鉄道、逓信の兼任は無理ではないか」
「陸軍はやはり梅津が嫌いなんだね」
「司法大臣はあれでいいのか」
梅津か畑かと言われても、梅津は関東軍司令官としてノモンハン事件の後片付けをという話もあり、侍従武官長の畑俊六大将を下げ渡し願うことで決まりました。その間、陸軍省の空気は「惨として声なし」といった具合で、元気者の有末大佐もシュンとしていたそうです。
新たに陸相となった畑大将は、陸軍省の高等官以上を集め、「自分の任務は天皇陛下に御信頼して頂くことの出来る陸軍になるよう、建て直すこと」であるという、非常に厳しい訓示を行いました。その後、軍務局長、人事局長、次官は逐次転出し、新軍務局長には次の舞台の主役となる武藤章がやってきました。
関東軍は軍司令官、参謀長が共に交代、多田中将は同期の梅津の下ではやりにくかろうということで、北支那方面軍司令官に栄転、畑の後任の侍従武官長には藤江恵輔第十六師団長が推薦されました。しかし藤江中将は、不動の姿勢を取ると目眩がするという健康上の理由からこれを固辞、結局蓮沼蕃中将が就任しました。蓮沼中将は陛下の第一の意中の人物でもありました。藤江中将は参謀本部附となり、後任の師団長には石原莞爾がなりました。これは辞めていく板垣陸相の最後の心遣いでしたが、これを見て、藤江の侍従武官長推薦は石原を師団長にするためではなかったかという悪声が、海軍側からも上がったということを、畑が書き記しています。板垣は8月の定期異動で石原を師団長に推薦する人事案を出しましたが、陛下はなかなかこれを御裁可なさらず、結局しばらくは師団司令部附にして様子を見るということになっていました。しかしこの2度目のトライで、東京以外の師団長なら宜しいという許可を得たのです。同時に駐蒙軍司令官への就任が却下されていた山下奉文も、許されて第四師団長となりました。
以上がこの騒動のあらましですが、しかし何故陛下は突然そのような要求を阿部大将に突きつけたのでしょうか?次回以降謎解きです。
阿部信行への大命降下が確実となり、組閣に際して策動すること大きかった軍務課長有末精三大佐は、陸相官邸へ向かいました。官邸に着いた有末は、まさに帰ろうとしている山脇正隆陸軍次官と遭遇しました。そこで立ち話で現在の情勢を説明すると、山脇中将は
と言いました。驚いた有末は、飯沼人事局長が満洲へ向かったことを聞いていたので、「よかった、直ぐ大臣に報告してくれ給え、新大臣候補も親しい間柄だからよかったネ」
と聞きました。すると山脇は「新京の方ですか」
とはっきり答えました。新京とは関東軍司令部の位置で、同軍参謀長磯谷廉介を指し、牡丹江とは第三軍司令官多田駿を指します。急いで大臣室に行き報告したところ、板垣陸相も「イヤその先の牡丹江だ」
と喜びを漏らしました。「ヨカッタ、ヨカッタ、新大臣候補も同じ兵科で親しい間柄だしなあ」
三長官会議の前に意見を徴され、東條が良いのではと答えていた有末は、ちょっと解せない気もしましたが、特に何も言わずそのまま自室に帰りました。するとそこに防衛課長の渡辺富士雄大佐がやってきました。そこで彼に、次の陸相が多田中将であることを告げると、渡辺大佐は
血相を変えて言いました。そして一寸前までイタリアにいて、よく事情が飲み込めない有末に、多田中将と東條中将の確執の激しさを説明してくれました。「これでは血を見ますよ」
有末ほどの”やり手”が、本当に何も知らなかったのかという点は、やや疑問もありますが、彼は渡辺から警告を受けた後も、陸相人事について特にこれといった動きは見せていないようです。阿部内閣の事実上の生みの親である有末からすれば、とにかく組閣を終えることが最優先だったのでしょう。
一方同日午後8時、木戸幸一内務大臣の下を、東條の腹心を以て自認する東京憲兵隊長加藤泊治郎大佐が訪れ、次のようなことを述べました。
そのような事態を苦慮し、相談に来たという体ですが、実態は著者の言うとおり、”多田を陸相にするな”と警告に来たとするのが妥当でしょう。憲兵隊長にしてこのような言動、まさに言語道断なのですが、腰抜けの宮中勢力には、この脅しが一番効きます。陸相に多田中将云々の話あるところ、若し之が決行せらるるに於いては、陸軍部内の派閥抗争は一層激化すべし
午後8時50分、阿部大将は大命を拝すため参内しました。そしてそこで驚きのお言葉を賜ります。
続く
それに対し板垣は、情勢からいって留任は絶対不可能であるし、大命は今夜にも降下するので、至急人事局長を牡丹江の多田の下にやって欲しいと返電しました。それを受けた軍司令官はまた次のように返しました。大臣辞任の件は、いずれの点より思考するも、この際適当と認められず、特に陸軍として従来の意見に変化なき限り、新内閣に留任すべきは、他の閣僚と趣きを異にするは当然
もしどうしても多田を出すなら、多田の後任には板垣自身をという、いちゃもんに近い要求でした。板垣は関東軍一般にわたる当面の情勢より見て、この際、軍内部の軍司令官ならびに三師団長の異動は、波及すること統帥上相当の衝動を与える恐れあるをもって、しばらくは絶対に避けられたし。(中略)陸軍大臣留任やむなく多田中将後任として転出の場合、関東軍の現状に鑑み、他に動揺を極限するため、ぜひ板垣中将を多田中将の後任に充当せしめられたし。
と平身低頭して頼みます。このやり取りの間、飯沼は新京駅で留め置かれました。まげて本職希望の通り至急配慮願いたし
このやりとりが示唆するものを見ていきます。まず第一に、中央部では、磯谷中将はノモンハン事件の責任者であり陸相の資格無しと考えていたのに対し、関東軍では責任は軍司令官の植田大将一人が取ればよいもので、磯谷は陸相の資格有りであると考えていたということです。尤もこれは関東軍に限った話ではなく、陸軍省でも飯沼の部下であった額田坦や榊原主計が、「(磯谷で)よかったですナー」と喜び合っています。しかし結局磯谷はこの後、植田共々予備役に編入されました。
第二に、関東軍の多田に対する見方です。電文をそのまま見れば、大変な情勢下で(ノモンハンとは方面が違うが)前線の軍司令官を異動させることに反対であると、つまり多田が陸相になることに反対なのではなく、異動させることそのものに反対していることがわかります。しかし飯沼の到着を、磯谷陸相の誕生と思い込んで、大喜びしたというのが事実なら、これは額面通りには受け取れなくなります。つまり一旦は新陸相を喜びながら、実は磯谷ではなく多田と知って、やっぱり板垣が留任しろと言い出したことになるからです。そして私はやはり、多田の陸相就任そのものに対し、関東軍司令部に忌避する感情が濃厚にあったと見ます。
多田は参謀次長として、支那事変の拡大に消極的でした。一方関東軍は一貫して、強硬に武力解決を支持していました。その空気は、多田が東條と喧嘩をして、関東軍隷下の第三軍司令官に”栄転”してきたときも変わっていません。また彼は、軍司令官としても持ち前の慎重さを発揮しています。昭和14年4月、関東軍隷下の兵団長会議が行われ、その席上で(辻政信の手による)有名な国境紛争処理要綱の骨子が説明されました。その内容を危惧した多田は発言を求め、
と述べました。しかし植田大将は「お示しの通りにやると、あるいは思わざる結果を起こすかもしれない。少し考慮の余地を与えられたい」
としてこれを斥けました。多田は会議の後、第四師団長として列席していた沢田茂を捉まえて「そんな心配はご無用だ。それはこの植田が処理するから、第一線の方々はなんら心配することなく断固として侵入者を撃退されたい」
と密語したそうです。問題の処理要綱はこのすぐ後に、これ以上ないくらいの”思わざる結果”を惹起しました。参謀次長としてノモンハン事件の後片付けをした沢田にとって、この多田の発言は印象的でした。しかし関東軍司令部が、このような多田の態度を面白く感じていた筈は無く、その感情は事件後にも改まったとは思えません。植田はまだしも磯谷という人は、必ずしも物が見えない人物ではありませんでした。これが関東軍の魔力でしょうか。私には関東軍が一個の意思持つ有機体に思えます。あの今村均ですら、関東軍時代はもう一つ冴えませんでした。「植田軍司令官はあんなことを言われるが、まことに心配に堪えない」
最後に、足止めを食った飯沼少将が、本当に牡丹江の多田の所まで行く気があったのかという点です。陸軍省の中堅以下には東條支持者が多かったことは既に述べました。では飯沼はどうだったのでしょう。これは要するに、柳条湖事件の前の建川美次のような態度ではなかったかという意味です(建川は柳条湖事件直前、陰謀の匂いを感じ取った中央部から、”止め男”として派遣されましたが、彼自身が半分陰謀一味のようなものでしたので、酒を飲んで寝てしまい、その役目を果たしませんでした)。この点飯沼は、ちゃんと大臣の命令に従う気があったと、私は見ます。理由は、本書でも引用されている町尻量基軍務局長と彼との間で交わされた会話です。それは次のようなものでした。私は町尻量基追悼録から引用してみます。
二人は同期生でした。飯沼は、町尻があっさり引き下がった点から、彼もまたあんまり東條に乗り気でなかったのではないかと推測しています。当時の陸軍省において、こういう意見をはっきり言う飯沼は、やはり板垣の命令を遵守する気持ちを持っていたと思います。十四年の夏、板垣大臣が辞任される際、後任大臣のことで私を呼ばれた時、たまたま町尻君と廊下で会ったら「軍務局の若い連中は、後任大臣は東条さんがいいといっている」というので、私も黙って承っておけばよかったのだが、平生から町尻君とは全く腹蔵なく話し合っていたものだから「僕は東条さんは大臣に適しないと考えている」と答えたところ、町尻君は「うん、そうか」と至極あっさりと打ち切ってしまった。
とにかくそうこうしていうるうちに、東京でも動きがありました。
続きます。






