近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

1916(大正5)年

九月四日 月 晴
 午前八時より騎兵第四連隊(長、中佐三好一)初度巡視(成績は不良の方にて、新連隊長の下に改善しつゝあれども、未だ著しき成果を収むる能はず、一般に弛緩、敬礼、練兵(徒歩)共に不良にして、乗馬も不良にして見劣すること甚しく、馬術も第七に劣ること遠きが如し。殊に二十名前后の花柳病者ありて、其十八、九人は入営后の発病者なりとは驚入るの外なきが、更に驚くべきは将校(師団、司令部共)等が之を平気に口にして、中隊長等が其責任を自覚しあらざるの事実に在り。

大阪の第4師団長に転任した宇都宮。初めて隷下騎兵聯隊を巡視をした。旭川の初巡視時も大いに不満を持ったが、大阪の緩み方は旭川どころではなかった。特に、土地柄もあるだろうが、騎兵の技量の差は歴然であった。

九月六日 水 晴
(病院は大阪としては矢張比較的緊りて見ゆ。唯だ入院患者中神経衰弱患者の多きはまだしも、曾て見たことは勿論聞たことも無きヒステリー患者と称するもの十人前后も入院しあるには、地方の風尚思ひやられて情け無く感ぜらる。真に大奮闘を要するは此風尚に向てなりとの信念益々加はる)。

ジョージ・パットンならぶん殴ってるところだろう。

十月八日 日 晴
 本日、寺内内閣任命せらる。
 総理寺内正毅(大蔵、外務兼任、外務は現駐露大使本野一郎なりと云ふ)、内務後藤新平、陸海軍は留任にて、陸軍は大島健一海軍は加藤友三郎、逓信田健二郎、文部岡田良平、農商務仲小路廉、司法松室致。
 大正以来の隠謀毒手、終に此までは成功せしが、今后果して善政能く逆取し順守し得るや否や。山県等官僚の徒、口を開けば忠君と言ひ、常に忠義の仮面を被て敢て不臣の行為を為す、奸悪悪むべきなり。

辞任に際し大隈重信は加藤高明を後任に推薦した。しかし元老や西園寺の介入で寺内に大命が下った。陸相大島健一、次官山田隆一(長州)は留任した。新聞はこの内閣を「人材払底内閣」と呼んだ。

十月十七日 火 晴
 今朝鼠賊玄関の外套(マントウ)を持去る。

クライムシティ・OSAKA

十二月一日 金 晴
 午前八時より歩第八連隊初年兵入営の状況を視る(北海道に比し、一、見送人非常に多く二千人以上もありたらんか。二、壮丁の体格劣り九分九厘まで顔色蒼白。三、壮丁の服装上等なること甚しく、十の八、九までは絹布の羽織袴にて一見富豪の子息の如くなるには驚入たり、蓋し中には借物もあるなるべく、土地習俗の反映と謂ふべき乎。四、壮丁に軍服を新調着用しあるは誠に喜ぶべし、但し其数は尚僅少なるを免れず。五、婦人の見送人亦た少からず)。

初年兵入営の様子を視察し、旭川と較べてその贅沢さに土地柄を感じている。

十二月三十一日 日 晴
 徳馬、鶴彦教育の為め、松田幼年学校長(元武、同郷人)先般来心配の結果、同少佐、学校の生徒監歩中尉番行善(岡山の人)、歩三七連隊付歩兵中尉土橋勇逸(同郷人)の両人を伴ひ本日午前来訪。寿満子、徳馬、鶴彦も面会、土橋中尉は算術、番中尉は読書、作文等を受持教育し呉るることとなり大に仕合なり。

この家庭教師の事は土橋の回想録にも出てくる。


以上で大正5年分終了と共に第2巻も終了です。第3巻は来月には購入して、春にはレビューするつもりです。
1916(大正五)年

一月十二日 水 雪
本日の新聞に、枢密顧問官陸軍中将子爵高島鞆之助、京都にて脳充血にて頓に薨去の旨電報見ゆ。驚入りたる次第なり。中将は陸軍大臣たりしこともあり、二十七、八年の役には南進軍司令官として渡台し、余は大尉にてその参謀として従軍せり。此縁故より爾来其知を受けたりしが、中将は晩年轗軻不遇、遂に志を得ずして今長逝す。無念想うべきなり、気の毒の至に禁へず、十日薨去、行年七十有三。

宇都宮がずーっと拘ってきた高島子爵が亡くなった。宇都宮との縁は、日清戦争時の台湾征討以来であった。

一月十九日 水 微雪晴
旧知予備騎兵大尉青柳勝敏来訪す。同人は数年前より職を辞し支那の事業に奔走し、第一次革命の末頃には特別資金より金一千円を与へ多少為さしむる所あり。第二次革命の時には李烈釣等を佐けて宇都宮三千雄共に袁世凱の兵と戦ひしが、敗れて亡命者と共に帰朝、彼等の若輩を集めて大森に学校を興し、私に軍事教育を為す等大に画策する所ありしが、最近蒙古に入り巴布札布等と謀る所あり、其遂行に要する資金調達の為め来りしものゝ如し。

青柳はこの後、当初の希望通り蒙古に赴き、巴布札布の第二次満蒙独立運動に身を投じる。青柳勝敏は秋田出身の陸士12期。

四月九日 日 晴
 此夜は、約により午前六時より上原大将の私宅を訪ひ、晩餐を与にし種々の談話を交換し、最后には余の身上に及び、内山の後任として侍従武官長となりては如何との談も出たり。余は不適任なるべきを答へたるも、絶対に拒絶もせず、進退の余地を残して十時半頃辞し帰宿す。

師団長会議により上京し、参謀総長上原勇作と会談。上原は宇都宮の次の職として、内山小二郎の後任として侍従武官長はどうかと聞いてきた。一応は断ったが、何が何でも絶対嫌というわけではないと含みは持たせた。しかし結局、8月、大阪の師団長に転任となる。

六月二十三日 金 晴
 此夜、徳馬の先生を頼度、歩兵第二十七連隊の中尉小泉恭次を招き相談せしに、予ねて中佐中村稲彦、歩大尉大場弥平、副官飯盛正成等より下相談も為しありしこととて同人も快諾、奮ふて之に当らんと答へたり。
 小泉中尉は旧米沢藩士の子にして、幼年学校、士官学校を経て昨年十二月大学校を卒業帰隊せる温厚篤実の人なり。

長男の宇都宮徳馬を陸軍幼年学校に入れるため、優秀な部下将校に家庭教師を頼むことにした。選ばれたのは陸大を卒業して帰ってきたばかりの小泉中尉。彼は戦後、やはり宇都宮が愛した旧部下篠塚義男と同じく、これといって罪は無かったが自決した。

1915(大正4)年

五月二十七日 木 曇
友人斎藤力三郎(第十八師団長)病死の趣に付き、弔電並に香典を電送す。尋で松石安治(ヨビ中将)亦た病死の旨新聞に見ゆ、弔電を送る(番地不慥に付き、香典は帰宅取調の上送らんとす)。

松石遂に死す。

神頭は今や現職務に於ては技量頂上に達したるが如し。此点に於ては山田大佐、野島大佐も略同様にして、此上目醒ましき進境は期す可らず。独り井上は今一、二段は進歩すべしと思はる。神頭、野島、山田、何れも老熟したる好聯隊長なり。井上は未だ熟せず、併し三年位修養せば前三者以上に進むの望みありと謂ふ意なり。

隷下の4人の連隊長の評価。

八月二日 月 晴
此夜は、大村少将、野島連隊長、斎藤大隊長、松井参謀、松原旅団副官、演習場主管古川中尉を集め会食す。

斎藤は斎藤瀏のこと。栗原勇(栗原安秀の父)もこの頃第7師団にいたはず。

十二月十七日 金 雪
夜半十二時やや過ぎ、上原大将より左の電報着す。
   今日親任セラル
愈々参謀総長に親補せられたるを謂ふ。是れより幾分改善の方向に向はせ得べきか、前途の光明を祈る。

上原はこれで陸軍三長官をすべて歴任することとなった。以後7年以上にわたって総長を務め、若手から雷親爺と恐れられることとなる。
1914(大正3)年

二月十八日 水 曇
本日食堂に於て、毎日の例に依り彼等長閥の面々、内閣及陸軍大臣を熱罵し、海軍の収賄問題、十六日騒擾に対する衛戍総督の応急準備、陸軍大臣の議会に於ける答弁の辞尻(軍隊内には云々に付、師団長等憤慨すべし云々)(其の実扇動せんとするの自白)、軍隊の不平(彼等の扇動、多分其日の応急準備を命ぜられたる近歩第三連隊長児島等と共謀)、大臣の軍機漏洩(彼等二、三ヶ月後には云々を以て斯く称すれば、大臣も失言には相違なきも、之を公然騒ぎ立つれば軍機漏洩を裏書きする道理にして、之を打消に力むるこそ真の愛国者の行為なるべきに、政権争奪長閥復興に眼暗らみたる彼等は、軍機漏洩に裏書するの(大臣は不用意なる一時の失言なるに、彼等は熟慮の上之を為すなり。軽労倉と重営倉との差は慥かにこれにあり)処置を敢てす、真に悪むべきなり。併まさかに世間には公表せざるなるべし)。余は、山梨が大臣を罵倒するに馬鹿の一語を以てするに至り忍耐も最早断へ果てたるも、修養の効聊か現はれ、怒る代に一笑して、談も此に至れば極端に達せりと独語せしに、彼等も幾らか反省する所ありしにや、今まで口を極めたる陸軍大臣等の誹謗談は有耶無耶と為れり。朋党の利己主義より、軍人の身分をも打忘れ此状態を見る、実に慨嘆の至なり。陸軍の長閥一派、海軍の薩閥一派国軍を破壊するや実に大なり、噫。

上原陸相を増師問題で失い、今また同志の楠瀬陸相をシーメンス事件で失う(勿論楠瀬が直接関わっているのではない)。長州系の陸軍軍人にとっては、日頃眼の敵にしている薩摩系海軍の一大不祥事だけに、楽しくてしょうがないのだろう。十六日騒擾というのはよく分からない。此の頃政府弾劾デモが起こっていたが、それではなさそう。或いは兵隊の間で何かあったのだろうか。衛戍総督とは東京衛戍総督のこと。近衛歩兵第三連隊長児島惣次郎は岡山出身だが、長州閥にべったりと評判のあった人物。
楠瀬大臣の失言、軍機漏洩問題というのは2月14日の議会での答弁のことだと思われる。楠瀬は江木議員に二個師団増設の根拠は何かと聞かれ、「大正五年度になりますれば、シベリア方面の輸送力・・・仮想の敵の満洲方面の集中力が殖える・・・我作戦の大体は、有らん限りの兵力を集めまして接戦をしようと云ふ考でありますから・・・二個師団を増設して、是をば朝鮮に常駐させて置けば、それで兵力均衡上、作戦上の手段を設け得られるのであります」と答えた。そのあまりにも正直な答弁に山本権兵衛首相も慌てて本郷房太郎陸軍次官を呼び、質問した江木議員も「そんなことを尋ねたのではない」と質問を打ち切った。宇都宮は、楠瀬のは確かに失言だが、それの揚げ足を取って喜ぶということは、楠瀬の発言を裏書する行為であり、つい口を滑らせた楠瀬よりよっぽど悪質であると怒っている。それにしても山梨半造、調子良すぎ。それに対しブチ切れそうになりながらも、冷静に皮肉る宇都宮。何か絵が浮かぶ。
ちなみに明治24年に、逆に議員であった予備役中将小沢武雄が、国防の不備を衝く演説を行い、免官(陸軍中将を剥奪)になるという事件があったが、その騒ぎに比べれば、楠瀬は特に何の処罰も受けなかった。しかし山本内閣が潰れると、彼もそのまま待命となり、やがて予備役となる。

四月十八日 土 晴
山梨宛庶務課長の電報に依り、岡新陸相の次官は参謀次長大島健一中将にして、参謀次長は寺内伯の下に朝鮮の憲兵司令官たる明石元二郎中将たることを知る。帝国陸軍に進化せんとせし我陸軍は、茲に再び長閥を中心とせる長州陸軍の旧態に復旧せり、更に一倍の大勇気を要す。或曰く、失敗、失敗、大失敗、世は復び官僚一味の世となれり。敗軍、敗軍、総敗軍、帝国陸軍は今や復び長閥陸軍の古体に復せり。言に一理あり、之を反正するもの誰ぞ。

大隈新内閣の陸軍大臣は長州の岡市之助となり、次官には大島健一が参謀本部から横滑りした。宇都宮にとっては勿論面白くない人事であるが、手の施しようがない。

五月十一日 月 晴
大隈総理侍立、陛下には玉音朗かに「第七師団長に補す」と宣ひ、辞令書は総理大臣より手渡せられ、今日染みじみ師団長の職の重に感ず。

4年半の長きに渡って務めた参謀本部第二部長から、中将に進級の上旭川の第七師団長に転任となった。

六月十四日 日 晴
午前八時より昨日に引き続き砲兵連隊を検閲す。成績甚だ不良。

宇都宮から見た第7師団は問題の多い師団であった。彼はこれを徹底的に鍛えなおすことを心に誓う。

九月十二日 土 曇
福島関東都督名誉進級後備に編入の趣、新聞電報に見えし故、上原中将に問合せ、且つ防止尽力の電報を発せしに、事実との返電至る。一部系統のものヽ人事上の専私、実に残念の至なり。

関東都督(関東軍司令官の前身)の福島安正が、大将に進級と同時に後備役となるという報道を見て、東京で教育総監をしている上原勇作に何とかならないかと電報を打ったところ、もう決定済みでどうにもならないとの返電があった。福島は必ずしも反長州という人物ではなかったが、情報将校として宇都宮にとっては良き先輩であった。

以上で1914年を終わる。東京では千客万来であった宇都宮家も、さすがに旭川ではそうはいかない。しかし隷下の歩兵第十三旅団長は親しい間柄の橋口勇馬であり、歩兵第二十六連隊長はかつての部下で、宇都宮がアメリカ行きに尽力してやったことのある井上一次であった。特に橋口とは家族ぐるみで親しくしている。
1913(大正2)年

九月五日 金 晴
午后十時、将に入寝せんとするの際、小村欣一宅より、政務局長阿部守太郎、伊集院を迎へて帰宅、将に門に入らんとして刺客に刺されたる旨電話あり。直に見舞ひしに重体、甚だ気遣わし。

41歳の若さで局長となった阿部とは、陸海外の少壮官僚の集まりなどでよく顔を合わせ親しかった。犯人は岩田愛之助に指嗾された二人の若者。所謂南京事件に対する対応が弱腰であると看做されたことが原因であった。南京事件とは北軍の前軍司令官張勲の軍勢が巻き起こしたアトロシティを指す。張勲軍の軍紀の悪さは半端ではなく、被害者の大半は中国人であったが、日本人も数名が殺害された。

十月九日 木 晴
青柳勝敏(李烈鈞等と事を与にし、敗れて林虎を伴ひ帰朝せるなり、当時の情況を詳報す)来宅す。

青柳は以前から宇都宮の元を何度も訪れ熱心に蒙古行きを希望していた予備役の騎兵大尉。妻は林大八の妹。前年、希望が叶って蒙古に渡っていたが、いつの間にか李烈鈞の幕僚となっていた。第二革命が破れると、李烈鈞は命からがら日本へ亡命したが、林虎は江西の奥地に取り残された。そこでまず山中峯太郎が偽の林虎となって北軍の目をくらまして日本に帰り、その後本物の林虎も何とか日本にたどり着いた。どうも青柳はその間、林虎と行動を共にしていたようだ。

十月十四日 火 曇
此夜、井戸川大佐を宅に招き、晩餐を与にしつゝ時局を談じ、高島子爵をして中心人物たらしむる為め之を擁立し、機を見て政友会に入り之を掌握し、終に大政の局に当らしむるの必要を告げ、之れが為め鹿児島内部、殊に山本伯一派との円満なる疎通を得させ度、之が為めには此数年来感情疎隔しある伊瀬知中将と子爵との交情を復旧、伊をして大に斡旋せしむるの必要を告げ、余も其内往訪すべきも、先づ井をして伊瀬知を訪問、瀬踏を為さしめんと相談せしに、井は之を快諾、二、三日中に伊を鎌倉に往訪することと為る。

高島鞆之助について、宇都宮は以前彼を参謀総長にしようと色々画策していたが、今度は首相にしようとしている。しかし、一体高島の何が宇都宮をそこまで引き付けるのかさっぱり分からない。機を見て政友会入りさせて、そこから首相にしようという考え(ちなみに後年、宇都宮のライバル田中義一がこのルートで首相となった)だが、そのためには同じ薩摩の山本権兵衛一派とも仲良くしておかなければならない。しかし現在、山本と親しい伊瀬知陸軍中将と高島は疎遠となっている。そこでまず井戸川辰三を伊瀬知の元に送り、伊瀬知と高島の仲の修復から始めようというのが話し合いの内容。

十一月三十日 日 晴
早朝、青柳勝敏来訪。孫逸仙等に鈴木宗言宅に密会せんことを申入れしに付き、来訪せば面会を辞せざるも、他に密会に行くことは好まざる旨返答す。

孫逸仙とは即ち孫文。

これにて1913年は終了。
1913(大正二)年

一月七日 月 晴
約に依り、午前八時桂総理大臣を三田の自邸に訪ふ。首相は満蒙問題解決(其程度は低く、安奉線、旅大を、出来れば九十九年、已むを得ざれば五十年延期を得て満足せんとするの意を漏せし故(中略))に意あること、其外対露軍事、就中我輸送力増加の事等を談じ、九時三十分辞して参謀本部に出勤。

西園寺公望から桂太郎陸軍大将に首相が変わった。それに伴い陸軍省首脳も
陸軍大臣 上原勇作 → 木越安綱
陸軍次官 岡市之助 → 岡市之助
軍務局長 田中義一 → 柴勝三郎
となった。一方参謀本部は部長以上に変動無しであった。
参謀総長 長谷川好道
参謀次長 大島健一
総務部長 山梨半造
第一部長 由比光衛
第二部長 宇都宮太郎
第三部長 武内 徹
第四部長 重見熊雄
桂は言うまでも無く長州人であったが、山県とはやや一線を画していた。満蒙に対する桂の経綸を聞いた宇都宮は、その欧米列強の目を気にした消極的な態度に物足りなさを覚えたが、あまり強くは追い込まなかった。宇都宮は十七日から約二ヶ月の支那朝鮮視察旅行に出るが、彼が帰国したときには既に桂内閣は倒れ、山本権兵衛海軍大将が首相となっていた。所謂大正政変である。

三月十五日 土 晴
夫れより木挽町万安に於ける歩中尉篠塚義男と軍医監鶴田禎次郎長女との婚礼開に臨席す。(中略)此縁談には夫婦にて多少斡旋する所ありしなり。

去年、長州人の娘と縁談があると言ってきて、宇都宮に渋い顔をさせた篠塚が結婚した。ところが相手が変わっている。なんと相手の父鶴田軍医監は佐賀人。宇都宮夫妻恐るべし!

四月十五日 火 雨
陸軍大臣官制改正に付き次長より、総長は陛下に対し奉り「臣は該改正には反対に御座候へ共、陛下の御思召に任せ奉る云々」と謂が如き意味にて御答申さんとの様に聞取りし故、国家の重臣の御答としては少しく如何かと思ひ、総理大臣、陸軍大臣と協議し、既に宣言したる後の今日に於ては、時局の収拾上陸軍と国民との関係上、余は、
    一、陸軍大臣の官制は、軍事上の見地よりしては現役大中将を
     以てする現制度を尤も適当なりと思考す。
    二、然れども事情之を変更するの止を得ざるものありとすれば、
     同官の職域に必要の変更を加ふることを希望す。
と云ふ意味の意見を陳せり。

二個師団増設とのバーターで山本権兵衛が持出したのがこの陸(海)軍省官制改正。具体的にいえば、陸海軍大臣及び次官に任用されるものは現役の将官のみとしていたところの”現役”の二文字を削ろうというものであった。陸軍省も参謀本部もこれに強く反対した。宇都宮も陸相は現役将軍であることに越したことは無いと考えてはいたが、現在の陸軍に対する国民感情の悪さを考慮すると、拒否を貫くのは難しい。それならこの改正を受け入れた上で、陸相の権限の一部を参謀総長に移管して埋め合わせるべきだと考えていた。

四月十九日 土 晴
過日来陸軍大臣官制改正に長谷川総長、大島次長等反対の意見を陳し、大臣は為めに辞職を声明し本日茅ヶ崎に転地せりと云ふ。爾後の発展誠に懸念すべきなり。長谷川等の背後に黒幕あるや否や尚不明なり。勿論削除の純軍事上見地より好ましからざることは言ふまでも無きことなれども、総理大臣宣言後、陸軍大臣承認後の今日、時局の模様等に連想する時は、其結果に付ては大に考慮せざる可らざるものあるべし。

山本内閣の陸相は桂内閣以来の木越安綱であった。木越は桂から非常に重用されていたが、必ずしも長州閥の人間ではなかった。士官生徒の1期生で、日清戦争では桂をよく補佐した。日露戦争では最年少の師団長として、黒溝台で大きな功を挙げた。木越の情勢判断は宇都宮と同じであった。しかし長谷川総長などは狂ったように反対するし、直属の部下たちも全員反対であった。主務課長である軍事課長の宇垣一成大佐は稟議書の作成をボイコットした。そのため木越は自ら書記に命じて書類を作成し、参謀本部の同意を得ずに内閣に提出した。今に残る稟議書の連帯欄は空白、主務課長欄に一旦押された判子は黒く塗りつぶされている。その代わり「本案に不同意」と書かれた付箋がべたべたと貼られている。それらには軍務局の5つの課の課長の判子が押してある。木越はこの改正を通すと陸相を辞任。閲歴からも大将になって然るべき人物であったが、そのまま待命のち休職、そして後備役に入れられた。    陸軍大臣 木越安綱

四月二十日 日 曇
早朝、渡辺鉄太郎、海軍大佐秋山真之、川島浪速、伊東佑俊等来訪。就中秋山は尤も長座し色々の時事談あり、将来有用の人物に付き、多少肝胆を披きて相語る。

秋山真之は海軍軍人にしては珍しく支那に深い関心を抱く人物であり、宇都宮もその人物を気に入っている。以後よく彼は宇都宮を訪ねてくるようになる。

四月二十四日 木 曇
次長より部長一同を会し、総長は御前に咫尺し官制改革に不同意の旨奏上せしに、陛下は山本総理より詳はしく聴たり、総理の申す通に致置けとの意味の勅諚ありしに、就ては総長は直に辞表を上りて御反省を奉希(彼等の言)か、或は勅諚ありし此上は陸軍大臣の提案には同意し、其成立に就ては総長も責任を分ち然る後徐に辞表を上るか如何とのことに、最早御反省(彼等の言を借用す)の余地は無きものと信ず
(西園寺内閣の打破以来長閥に対する民怨は絶頂に達し、延て陸軍に及び、陸軍は長閥と共に天下の怨府と為り居れり。然るに彼等今尚其閥族の余命を無理に維持せんとて、官制問題なる好題目を借りて再び内閣、少くも陸軍大臣を動かさんとす。真に私の為めに国を誤り軍を誤るものと謂ふべきなり。軍紀地に落ち洪嘆に禁へず。彼等が対西園寺内閣隠謀の結果、陸軍も怨府と為り、官制改革も万已を得ざるに至り、山本の宣言と為りしものにて、改制の主因を作りしものは彼等隠謀者なり。然るに今亦だ純朴なる一部の軍人を引入れ、彼等長閥者流及之に付随せるもの等は、此問題を以て内閣に突撃せんとするものなり。併し事情已を得ずして大体の上より御裁可に相成り勅諚までありしものを御反省などとは、彼等は己れの立場を好くし内閣、殊に大臣を苦めんとするの陰謀と謂ふべきなり。公然総理大臣や陸軍大臣を悪罵し乱臣賊子を以て之を呼ぶに至る。而かも堂々たる部長や総長や責任ある将官の言動なり、軍紀果して何処にありや)。
因て、総長は責を陛下に帰し己を潔するが如き仕打は我長官としては為さしむ可らずと思考し、第二案、即ち勅諚ありし此上は理屈を抜き陸軍大臣の提案に同意し、唯だ大臣の職域に必要の変更を加ふべく、其細件は進で審議せん位のことを付加して陸軍大臣への回答を為し、総長の進退は徐ろに決せられ可然との意見を述べたり。由比、武内等も大抵同意なりしが如し。

長谷川総長が改正反対の上奏をしたところ、逆に天皇陛下に、山本の言うことを聞けと諭されてしまった。この上は辞任するだなんだとパフォーマンス(実際に辞任する気などさらさら無い)を繰り広げる上司に対し、宇都宮の内なる怒りが爆発している。彼に言わせればそもそも山本権兵衛がこのたびのような官制改正を持出したのも長州閥の専制が原因であり、民心が陸軍から離れたのも同様である。にも拘らずそれらを棚に上げ、尚も自分たちの勢力の保持だけを考えて、天皇陛下の任命した総理大臣や陸軍大臣を乱臣賊子などと罵る。天皇陛下に対する態度もどこかあてつけがましい。一体軍紀は何処にあるのか、と。彼はバッサリと、大島次長が示した二案のうち後者を進言、由比第一部長、武内第三部長もこれに同意であったという。
※取り消し線は本文通り。

五月八日 木 晴
長州の岡市之助、次官を免ぜられ、兵庫の本郷房太郎其後任と為る。兎に角一進歩也。

岡を京都人とする本もあるが実際は長州人である。宇都宮は当初、岡の後任に山口勝を望んでいたが、木越の推薦で円満な人柄の本郷房太郎となった。山口は砲兵課長時代から部内に聞こえた実力者で、その態度の大きいことから”陸軍の大隈伯”というあだ名もあったという。二・二六事件に連座した山口一太郎大尉の父親である。

六月三日 火 曇
軍事課長等任免の件に付き柴軍務局長に注意せしむる為め、少将山口勝を教育総監部に訪ひ意見を交換し、山口本日柴を訪ふことに取極め帰衙す。

官制改正に最も強硬に反対していた宇垣一成軍事課長の処分に関して、山口と共に柴に掛け合っている。怪文書まで撒き散らした宇垣は、八月三十一日付けで歩兵第六連隊長に左遷されるが、これが宇都宮らの意見通りなのかは分からない。後に上原や武藤等と宇垣一派が激しく対立することを思えば、中々興味深い。更に言えば宇垣自身、復活した軍部内閣現役武官制によって組閣を阻まれるのだから、皮肉といえばこれ以上の皮肉は無い。

六月二十四日 火 雨
本日午前、葉山に於て楠瀬中将陸軍大臣に親任式あり。同志苦心の結果事実に現はれ、為邦家為陸軍、祝着の至なり。

木越の後任について宇都宮らは、伊瀬知中将を通じて山本に働きかけていたが、その希望通り楠瀬幸彦中将が陸軍大臣に任命された。楠瀬は上原と同期の砲兵将校で、土佐出身であった。長州の息のかかった人物の任用を防げたことで、宇都宮もほっとしている。このとき次官も寺内に近い本郷から、予てより希望の山口勝に代えるという話があったが、それは余りにも露骨過ぎると楠瀬の判断で見送られた。