近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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1919(大正八)年前半
この年宇都宮太郎は、年始から天道教の幹部と会ったり、朝鮮人軍人の待遇改善を要求したりと、鮮人悦服を目指し余念が無かった。そんな中で三・一事件が起こる。

三月一日 土 晴
 午前、秋山大将、野田逓相、古賀長官を朝鮮ホテルに往訪。
 古賀廉造重ねて来訪、午餐を与にす。
 午后三時頃、電話で警務総長より、形勢不穏に付歩兵一中隊の出兵を請求し、直に之に応じ、予て計画せる中の一中隊を京城に派遣し、憲兵巡査と協力せしむ。
数日来益々不良の形勢を現はし来りしが、本日午后に至り基里蘇土学生等を基幹とせる数干(後には万以上に上りしこともありしが如し)の群集は、独立の宣言書を撒布し、独立万歳を叫びつつ街路を練り歩き、一部は昌徳宮、大漢門内にまで闖入するに至り、歩兵隊(朝鮮歩兵隊)、憲兵隊などにて辛ふじて駆逐せり。形勢此の如くにして逐次兵力を増加し、歩兵七中隊、騎兵一小隊を使用するに至れり。併し夕景より漸次鎮静に帰し、夜に至り歩三中を残し他は引揚げたり。此日は宣川、平壌、元山等にも騒擾あり、人心一般に不穏なり。按ずるに此度の独立運動は、内外広く気脈を通じ組織的にして根底あり。耶蘇教徒、天道教(これは味方にせんと思ひ居りしに、来て見ればすつかり敵方に駆逐しありたり)徒、学生等、新進有為の分子主動と為り、外国人、殊に宣教師(現に本日も自動車にて示威行列を押伍せり。其外証跡少からず)の後援を得て(恐くは米国の如きは、少くも官憲の一部にも引援者ありと認めらる)蜂起せしものにて、此度は勿論鎮圧し得ることは疑なき所なれども、其根底は頗る深く、将来の形勢は甚だ憂ふべきもの無きにあらず。これ畢竟彼等一派の誤れる対韓根本政策(無理に強行したる併合)、これは納得せざる婦女と無理に結婚せしが如く、彼等は甚だ誤れり。今暫く忍耐して道を尽せば婦女進で婚を請ふべく、然らざるも無理なく得心せしならん。返す々々も残念なり。これが為め支那以下東方諸邦の心を失ひ、帝国開発膨張の前途を困難にし、鮮人悦服の大障碍と為り、朝鮮統治の大面倒を胚胎せしこと返す々々も遺憾なり。今日鮮人の怨嗟動揺は自然の数なり。加ふるに爾後の施政も有形上の施設にのみ急にして、人心の収攬は丸で閑却し、第一鮮人を馬鹿にし、社交上(殆んど社交なく、殆んど没交渉也)にも、又た俸給や任用等にも極めて愚劣なる差別不公平を極めて無分別に現実し、上下平然として泰平の夢に酔ひつゝあるが如き、誠に非常識の極みなり。此等根本的の改善を断行するにあらざれば真の統治は得て期す可らざるなり。而して之を治むるに道を以てすれば、今日と雖ども為して為し得ざるにはあらざるべきを信ず。例へば無理に結婚せし不得心の妻女も、夫にして爾后誠心誠意之を遇せば、終には彼も心を動すべく、其中には子供も出来真の夫婦の情合も発生せざることあらざるべく、余は必ず斯くあらせ度く熱望し、又だ其途あるを自信するものなり。

「これ畢竟彼等一派の誤れる対韓根本政策」の彼等とは、韓国併合を強行した勢力(大体宇都宮と敵対的な長州閥と考えてよいだろう)を指している。

三月二日 日 晴
 京城は本日は割合に静穏にて、午后約四百米の労働者、学生の一団、独立万歳を唱へつつ鐘路警察署前に至り、主動者らしき者約二十名程捕縛せられ四散せし外無事なりしも、地方に於ては祥原(中和の東方三哩)に於て暴徒警察を襲ひ、署長以下を捕縛し武器を奪ひしを始めとし、義州、鎮南浦等数ケ所に小紛擾ありたり。
 夜に入り、京城にても二、三学校の学生寄宿舎を脱し、多人鮮人と共に南山に集合するの模様ありとて、総督府、警務総監部等の照会により、将に撤退せんとせし歩兵三中隊(一部は残り、他は新に派遣す。本日も朝より七中隊を使用せり)を引続き駐派(京城に)、明三日の警備までも続勤せしむ。又総督の命に基き、第十九師団長に、平壌の部隊を以て平壌付近の暴徒(祥原等)鎮圧を下命す。

以上は二日目の描写。

三月九日 日 雨
 此日、京城の電車々掌、運転手、同盟罷業す。
 地方は各地に妄動断続す。
 京城及平壌には、明十日を期し大妄動を為すとの情報あり。京城の鮮人商店は本日より殆んど全部閉店、形勢陰鬱なり。京城に現在せる歩兵一中隊の外、歩三中隊、騎二小、砲一中を明日(一部は今夜)京城に入れ、示威鎮圧に任ず。
 此度鮮人の運動は、朝鮮独立を標榜し、一寸人聞き好く、生まじいの議論にては対抗やや困難なり。之に対するには、余が年来の主張を以て大に同志を結合し対抗の必要を感じ、之を左の如く記述し、
    大本願
凡そ物合すれば則ち強く、分るれば則ち弱し。是れ天地の真理なり。而して世界は未だ強弱無差別一切平等の黄金時代に達せず。吾人は合同共存、吾人共同の福祉を開拓増進し、融合和楽真に世界太平の民たらんと欲す。是れ吾人年来の大本願なり。同憂同感の士女来て吾人の志業を助成せよ。
 漢文訳略す。
 鮮文其他に訳せんとす。
 先づ金応善を招き、改めて余の精神を告げ、此文字を示して其中心よりの賛成協力を求め、其同意を矢ふを認め、其妻女トシ子を正式に入籍せしめ、要すれば余が妹として一旦余が籍に入れ、更に転籍せしむるも苦しからざることを告げ、是れより一層此本願達成の為め同心協力すべきを求め、次に参将李煕斗を招き、同く此大本願を示して同心協力を盟はしめ、次に鮮人内に同志を拡張することを相談し、先づ近日中に元と総理大臣李完用を同伴来訪せしむ

以後、宇都宮は、日鮮を問わずこれと思った人に、この大本願を示し、協力を求めている。

三月十一日 火 晴
 朝鮮の騒擾は益々蔓延、北は義州、会寧より、南は光州、釜山に及び、最早姑息の防圧手段にては到底奏功し得可らざるものと判定し、一般的区処の必要を感じ、職制上之に関する総督の命令を必要とするを以て、自ら之を相談するの決心を固め、午前に先づ大野をして村田少将を説かしめ、村田をして長谷川総督に説かしめ、余は午后総督を往訪せんと手配せしに、大野の説破にて村田先ず同意し、両人にて総督を説きしに、此度は案外容易に同意し、余は殆んど行くの必要なかりしも、既に往訪を申上ありし故往訪、其上の打合を為、帰途山県政務総監を訪ひ、一般に軍隊を使用するの自由を得たるに付き、地方官憲等との打合を為し帰邸す。総督の命令は、
  一、目下の騒擾は尚は蔓延の兆あり。
  二、朝鮮〔軍〕司令官は所要の兵力を使用し之れが鎮圧を図るべし。
                    総督署名
 此命令に依り軍隊の行動初めて自由と為り、鎮圧の奏功も有望と為れり。

村田少将というのは、総督府付武官の村田信乃のこと。大野というのは自分の参謀長であり同じ佐賀の大野豊四。ことここに至り、最早武力介入は不可避と、宇都宮も遂に決断を下した。武力使用の許可を総督たる長谷川好道から得るために、まず村田を口説き、その足で総督の許可も得た。長谷川は武断派として名高いが。

三月二十三日 日 晴
 早朝、内野少将来訪、暴徒鎮撫の為め其管区内の兵力不足を訴ふ。
 午前、歩兵第七十八連隊(長、大佐堀田信直)第一期検閲を視る。二中隊を視しが、内地にては先づ中等やや下る位の程度なり。
 此不在中、山県政務総監来訪(口演要旨を返却す)。
 京城、平壌等は一、二小運動は無きにあらざるも、大体に於いては表面は概して平穏、今や南鮮尤も騒擾に付き、本日歩兵第四〇旅団長に其旅団(一大隊欠)を以て之を鎮圧すべきを命令す(忠清南北道、黄原道、慶尚南北道、全羅南北道の七道)。
 支那と交渉中に付、臨機の出兵(間島へ)は見合せられ度しとの陸軍省の電報、総督府に達す。又琿春領事よりも出兵請求を取消し来りたる旨の電報、第一線隊より転宅し来る。
 夜十時過に至り、京城並に付近村落暴動の報あり。京城屯在三中隊の外一中隊を出動せしめ、夜十二時頃には概ね鎮定。一中隊も一時過には主力は帰途に就けり。此暴動は京城の周囲諸村落略ぼ同時一斉に起り、同一の計画に基くものなるには明瞭なり。地方にても此二十三日は期する所ありしものの如し。

蜂起が計画的であることを認識している。

四月一日 火 晴
 午前、高島師団長、内野旅団長を官邸に招き、兵器使用等に関する余の希望(心持強硬に)を述べ、要旨の筆記を与ふ。
 日本に同情を有すると云ふthe Associated Press通信員J.E.Sharkeyなるもの(参謀本部よりも紹介あり)来訪、暫時対談。大野少将、山本中佐をして細部の応答を為さしめ、明日午餐に来るべきを約し、余は席を外づす。三月十二日の訓示及希望事項(余自ら起稿のもの)を与ふ。
 先日来京城は此日も無事、但し軍隊の警戒は厳重を継続す。
 夜十時過、長谷川総督自ら電話口に出で、上京中の山県政務総監より、内閣より速かに朝鮮の妄動を鎮圧する為め増兵の必要有無問合られたりとの電報来れりと相談あり。目下の兵力のみにても鎮圧は出来る見込なるも、十分に増兵、迅速に鎮圧するの必要(最初よりの余の持論)なることを答へしに、明朝来府せよとのことにて電話を切る。

兵力増加の必要性を聞かれた宇都宮は、目下の兵力でも鎮圧できないことはないが、兵力増強を断る謂れもないという態度。

四月二日 水 曇後晴
 早朝、余の意見を言表はすべく下記電報案を起草し、参謀長を招き一見せしめたる上、自ら携へて総督に出せしに快く同意、之に内地より憲兵二百の臨時派遣を希望することを付記し、総督の名を以て本日発送せられたり。
  目下ノ兵力ノミニテモ鎮定シ得ル見込、併シ此際十
  分ノ兵力ヲ用イ迅速ニ平定ノ効ヲ挙ケ、且ツ当分之
  ヲ威圧シ置ヲ必要ト信ス。之カ為メ歩兵約五、六大
  隊ノ増派ヲ得ハ幸ナリ。委細八本日出発上京ノ軍参
  謀長ヲシテ陳述セシム。
Sharkey、山本参謀、古城副官と与に午餐、大に打解け談笑、午后三時に至る。

結局兵の増加を求める電報を打つ。

四月十八日 金 晴 
夜総督を訪ひ、丁度大島副官の復命に依り、十五日水原郡発安場付近提厳〔堤岩〕里に於ける有田中尉(12/79俊夫)の鎮圧に関する真相を聴き、帰て軍より差遣せる山本参謀の詳報に接す。即ち中尉は同村の耶蘇教徒、天道教徒三十余名、耶蘇教会堂内に集め、二、三問答の末其三十二名を殺し、同教会並に民家二十余戸を焼棄せるの真相を承知す。児島警務総長(巡査、巡査補も参加せる故)も来会、浄法寺師団長、大野参謀長、山本参謀と凝議、事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども、斯くては左らぬだに毒筆を揮ひつつある外国人等に虐殺放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益と為り、一面には館内の暴民を増長せしめ、且つ鎮圧に従事しつつある将卒に疑惑の念を生ぜしむるの不利あるを以て、抵抗したるを以て殺戮したるものとして、虐殺放火等は認めざることを決し、夜十二時散会す。

宇都宮日記刊行前の朝日新聞の記事でも、一番大きく扱われた堤岩里事件というのが、これ。

四月十九日 土 晴 
 早朝総督を訪ひ、政務総監の列席を求め、提巌〔堤岩〕里事件に関する決心其理由等を述べ、総督の同意を得るや、総督府各部諸機関に於ても此件に関する答弁等は全然同一歩調に出で度き事を請求して、総督、総監の承諾を得て帰る。
 然るに午后に至り、総督より再び会ひ度しとのことに往訪せしに、今周知の事を全部否認するは却で不利なる無らん乎、其幾分は過失を認めて行政処分にても為し置くこと得策にはあらざる乎とのことに、此夜大野をして前決心を遂行し度内意にて明日往訪せんとするの意あることを内談せしめしに、総督は矢張行政処分丈は為し置を可とする旨復命せし故、来合せたる児島中将、大野、山本等と相談中、浄法寺、内野も来会し、虐殺放火は否認し、其鎮圧の方法手段に適当ならざる所ありとして三十日間の重謹慎を命ずることに略決心、散会せしは午前一時近かりし。

処分するのは簡単だが、状況がそれを許さないので、致し方ないから有耶無耶にしようとしたのは宇都宮で、それに対し行政処分だけでも下すように求めたのが長谷川好道の方だった。

四月二十日 日 晴
 午前十時、浄法寺師団長、児島憲兵〔隊】司令官、内野第四十旅団長、大野参謀長、山本参謀を官邸に会し、提巌〔堤岩〕里事件善後策を再議し、各人の意見を徴し、其以上の決心は保留し総督と熟談決定することにして散会、午后総督を訪ひ左の如く決定す。
  虐殺、放火は飽まで否認し、唯だ鎮圧の手段方法其
  当を得ざりしものとして重謹慎(大隊長にて二十日、
  連隊長にて加罰十日、計三十日)に処すること。
 浄法寺、児島、内野、大野、山本等再会、東京への電報案等研究、夕刻散会。

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1918(大正七)年
この年の宇都宮の現職は大阪の第四師団長。

三月八日 金 曇
 村岡大佐へ頼みありし池袋師範には未だ学歴書も願書も出して無きとの事にて、寿満子よりの請求により大急にて両人の学歴書二通を送る。初め心配を頼みしは昨年十一月中のことにて、学歴書を送りしは二月四日なりしに、此始末とは能々他人の頼に為さざることを今更ながら感ぜしめり。愚痴は兎に角、此度転学の成否は両児の将来に影響すること尠少ならざるなり。

村岡長太郎は宇都宮の親しい後輩の一人で、このとき教育総監部の課長として東京に居た関係から、子供(徳馬ら)の転校手続きを頼んでいたが、それがほったらかしにされていたことが判明。妻に怒られて慌てて書類を提出したが、、、

七月十二日 金 風雨
 上原大将より、井戸川を東京に都合付かざるにより、余が朝鮮軍司令官たると仮定して同人を平壌に遣りては如何、至急返電との文通あり。且つ出兵も遷延せしが漸くにして変形して不実実行の運と為れりと付記しあり。
 井戸川に付ては「デカセギデキソウナトコロヘ、シカラサレバ、ヘイゼウ」と返電。同時に東京に置くこと不可能ならば今度の出兵に出れそうの師団に配属し度、それも未定等にて不可能ならば、平壌可然との書状を発す。

上原の腹心で、宇都宮とも親しい井戸川辰三の進退について相談された。井戸川はこのとき近歩三の聯隊長だったが、次の定期異動で東京を離れることになりそうなので、それならいっそ宇都宮と一緒に朝鮮に行かせてはどうかと言われ、宇都宮は、シベリアへ出兵しそうな師団がベターだが、それが無理なら一緒に連れて行こうと返している。

七月二十四日 水 晴
 本日朝鮮軍司令官拝命の旨発表せらる。普通の順序より言へば柴五郎之に任じ、余は東京衛戌総督が順番なり。其顛倒せる所は当路多少の手心を見る。併し朝鮮の軍司令官も要するに一閑職に過ぎずして、一年前后の後には軍事参議官に転補せられ、其儘年齢満限を待つ身となり、終に葬り去らるるが普通なり。井口省吾然り、秋山好古然り、松川敏胤亦た然りと為す。独り特別の因縁ある長谷川好道の参謀総長と為り、安東貞美の台湾総督と為りしは例外と為さざる可らず。尤も此両人も駐剳軍司令官より直に前記の官職に就きしにはあらずして、長谷川も一時は軍事参議官と為り、安東は一時待命と為りしかと記億す。興味あるは余今後の運命なり。

前から噂になっていたことだが、此度の定期異動で宇都宮は朝鮮軍司令官に親補された。前述の井戸川も同時に少将に進み、朝鮮の旅団長に補された。順番からいえば、朝鮮軍司令官は先輩の柴五郎が先なのだが、上原などの差し金でこれが入れ替わったように考えている。しかし朝鮮軍司令官もまた閑職には違いなく、過去の軍司令官たちも長谷川安東貞美を除けば、皆その後軍事参議官となり、そのまま引退したと書いている。長谷川はまさにこのときの朝鮮総督であった。安東は寺内正毅と比較的親しかったそうだ。
ところで柴は、宇都宮の書くとおり、この少し前に東京衛戍総督というド閑職に就いているが、この補職もいわく付きであった。柴は第12師団長からの転補であったが、これはこの師団がシベリアへ出兵することとなったので、長州の大井成元にその栄誉を与えるために、柴を追っ払った人事だと世人は見た。しかし結果からいえば、シベリア出兵になど関わらず、柴もその武名を汚さずに済んでよかったのではないか。

八月十四日 水 晴
 午前、司令部内巡視。井戸川少将、司令部に来訪。午后一時半、長谷川総督の帯同にて、児島憲兵〔隊〕司令官、内野、井戸川両少将と共に昌徳官に李王並妃両殿下に拝謁、親しく御言等あり。去る大正二年、初めて拝謁の際とは余程の相異にて、一層御健勝に拝せられたり。夫れより徳寿宮に李太王殿下に拝謁す。初めての謁見なり。噂の如く世才に長けさせられたるものの如く、言語応対仲々に御老練なりき。太王は朝鮮〔服〕を召され、王は我軍服、妃は朝鮮婦人服を召させられたり。

太王というのは高宗のこと。
1916(大正5)年

九月四日 月 晴
 午前八時より騎兵第四連隊(長、中佐三好一)初度巡視(成績は不良の方にて、新連隊長の下に改善しつゝあれども、未だ著しき成果を収むる能はず、一般に弛緩、敬礼、練兵(徒歩)共に不良にして、乗馬も不良にして見劣すること甚しく、馬術も第七に劣ること遠きが如し。殊に二十名前后の花柳病者ありて、其十八、九人は入営后の発病者なりとは驚入るの外なきが、更に驚くべきは将校(師団、司令部共)等が之を平気に口にして、中隊長等が其責任を自覚しあらざるの事実に在り。

大阪の第4師団長に転任した宇都宮。初めて隷下騎兵聯隊を巡視をした。旭川の初巡視時も大いに不満を持ったが、大阪の緩み方は旭川どころではなかった。特に、土地柄もあるだろうが、騎兵の技量の差は歴然であった。

九月六日 水 晴
(病院は大阪としては矢張比較的緊りて見ゆ。唯だ入院患者中神経衰弱患者の多きはまだしも、曾て見たことは勿論聞たことも無きヒステリー患者と称するもの十人前后も入院しあるには、地方の風尚思ひやられて情け無く感ぜらる。真に大奮闘を要するは此風尚に向てなりとの信念益々加はる)。

ジョージ・パットンならぶん殴ってるところだろう。

十月八日 日 晴
 本日、寺内内閣任命せらる。
 総理寺内正毅(大蔵、外務兼任、外務は現駐露大使本野一郎なりと云ふ)、内務後藤新平、陸海軍は留任にて、陸軍は大島健一海軍は加藤友三郎、逓信田健二郎、文部岡田良平、農商務仲小路廉、司法松室致。
 大正以来の隠謀毒手、終に此までは成功せしが、今后果して善政能く逆取し順守し得るや否や。山県等官僚の徒、口を開けば忠君と言ひ、常に忠義の仮面を被て敢て不臣の行為を為す、奸悪悪むべきなり。

辞任に際し大隈重信は加藤高明を後任に推薦した。しかし元老や西園寺の介入で寺内に大命が下った。陸相大島健一、次官山田隆一(長州)は留任した。新聞はこの内閣を「人材払底内閣」と呼んだ。

十月十七日 火 晴
 今朝鼠賊玄関の外套(マントウ)を持去る。

クライムシティ・OSAKA

十二月一日 金 晴
 午前八時より歩第八連隊初年兵入営の状況を視る(北海道に比し、一、見送人非常に多く二千人以上もありたらんか。二、壮丁の体格劣り九分九厘まで顔色蒼白。三、壮丁の服装上等なること甚しく、十の八、九までは絹布の羽織袴にて一見富豪の子息の如くなるには驚入たり、蓋し中には借物もあるなるべく、土地習俗の反映と謂ふべき乎。四、壮丁に軍服を新調着用しあるは誠に喜ぶべし、但し其数は尚僅少なるを免れず。五、婦人の見送人亦た少からず)。

初年兵入営の様子を視察し、旭川と較べてその贅沢さに土地柄を感じている。

十二月三十一日 日 晴
 徳馬、鶴彦教育の為め、松田幼年学校長(元武、同郷人)先般来心配の結果、同少佐、学校の生徒監歩中尉番行善(岡山の人)、歩三七連隊付歩兵中尉土橋勇逸(同郷人)の両人を伴ひ本日午前来訪。寿満子、徳馬、鶴彦も面会、土橋中尉は算術、番中尉は読書、作文等を受持教育し呉るることとなり大に仕合なり。

この家庭教師の事は土橋の回想録にも出てくる。


以上で大正5年分終了と共に第2巻も終了です。第3巻は来月には購入して、春にはレビューするつもりです。
1916(大正五)年

一月十二日 水 雪
本日の新聞に、枢密顧問官陸軍中将子爵高島鞆之助、京都にて脳充血にて頓に薨去の旨電報見ゆ。驚入りたる次第なり。中将は陸軍大臣たりしこともあり、二十七、八年の役には南進軍司令官として渡台し、余は大尉にてその参謀として従軍せり。此縁故より爾来其知を受けたりしが、中将は晩年轗軻不遇、遂に志を得ずして今長逝す。無念想うべきなり、気の毒の至に禁へず、十日薨去、行年七十有三。

宇都宮がずーっと拘ってきた高島子爵が亡くなった。宇都宮との縁は、日清戦争時の台湾征討以来であった。

一月十九日 水 微雪晴
旧知予備騎兵大尉青柳勝敏来訪す。同人は数年前より職を辞し支那の事業に奔走し、第一次革命の末頃には特別資金より金一千円を与へ多少為さしむる所あり。第二次革命の時には李烈釣等を佐けて宇都宮三千雄共に袁世凱の兵と戦ひしが、敗れて亡命者と共に帰朝、彼等の若輩を集めて大森に学校を興し、私に軍事教育を為す等大に画策する所ありしが、最近蒙古に入り巴布札布等と謀る所あり、其遂行に要する資金調達の為め来りしものゝ如し。

青柳はこの後、当初の希望通り蒙古に赴き、巴布札布の第二次満蒙独立運動に身を投じる。青柳勝敏は秋田出身の陸士12期。

四月九日 日 晴
 此夜は、約により午前六時より上原大将の私宅を訪ひ、晩餐を与にし種々の談話を交換し、最后には余の身上に及び、内山の後任として侍従武官長となりては如何との談も出たり。余は不適任なるべきを答へたるも、絶対に拒絶もせず、進退の余地を残して十時半頃辞し帰宿す。

師団長会議により上京し、参謀総長上原勇作と会談。上原は宇都宮の次の職として、内山小二郎の後任として侍従武官長はどうかと聞いてきた。一応は断ったが、何が何でも絶対嫌というわけではないと含みは持たせた。しかし結局、8月、大阪の師団長に転任となる。

六月二十三日 金 晴
 此夜、徳馬の先生を頼度、歩兵第二十七連隊の中尉小泉恭次を招き相談せしに、予ねて中佐中村稲彦、歩大尉大場弥平、副官飯盛正成等より下相談も為しありしこととて同人も快諾、奮ふて之に当らんと答へたり。
 小泉中尉は旧米沢藩士の子にして、幼年学校、士官学校を経て昨年十二月大学校を卒業帰隊せる温厚篤実の人なり。

長男の宇都宮徳馬を陸軍幼年学校に入れるため、優秀な部下将校に家庭教師を頼むことにした。選ばれたのは陸大を卒業して帰ってきたばかりの小泉中尉。彼は戦後、やはり宇都宮が愛した旧部下篠塚義男と同じく、これといって罪は無かったが自決した。

1915(大正4)年

五月二十七日 木 曇
友人斎藤力三郎(第十八師団長)病死の趣に付き、弔電並に香典を電送す。尋で松石安治(ヨビ中将)亦た病死の旨新聞に見ゆ、弔電を送る(番地不慥に付き、香典は帰宅取調の上送らんとす)。

松石遂に死す。

神頭は今や現職務に於ては技量頂上に達したるが如し。此点に於ては山田大佐、野島大佐も略同様にして、此上目醒ましき進境は期す可らず。独り井上は今一、二段は進歩すべしと思はる。神頭、野島、山田、何れも老熟したる好聯隊長なり。井上は未だ熟せず、併し三年位修養せば前三者以上に進むの望みありと謂ふ意なり。

隷下の4人の連隊長の評価。

八月二日 月 晴
此夜は、大村少将、野島連隊長、斎藤大隊長、松井参謀、松原旅団副官、演習場主管古川中尉を集め会食す。

斎藤は斎藤瀏のこと。栗原勇(栗原安秀の父)もこの頃第7師団にいたはず。

十二月十七日 金 雪
夜半十二時やや過ぎ、上原大将より左の電報着す。
   今日親任セラル
愈々参謀総長に親補せられたるを謂ふ。是れより幾分改善の方向に向はせ得べきか、前途の光明を祈る。

上原はこれで陸軍三長官をすべて歴任することとなった。以後7年以上にわたって総長を務め、若手から雷親爺と恐れられることとなる。
1914(大正3)年

二月十八日 水 曇
本日食堂に於て、毎日の例に依り彼等長閥の面々、内閣及陸軍大臣を熱罵し、海軍の収賄問題、十六日騒擾に対する衛戍総督の応急準備、陸軍大臣の議会に於ける答弁の辞尻(軍隊内には云々に付、師団長等憤慨すべし云々)(其の実扇動せんとするの自白)、軍隊の不平(彼等の扇動、多分其日の応急準備を命ぜられたる近歩第三連隊長児島等と共謀)、大臣の軍機漏洩(彼等二、三ヶ月後には云々を以て斯く称すれば、大臣も失言には相違なきも、之を公然騒ぎ立つれば軍機漏洩を裏書きする道理にして、之を打消に力むるこそ真の愛国者の行為なるべきに、政権争奪長閥復興に眼暗らみたる彼等は、軍機漏洩に裏書するの(大臣は不用意なる一時の失言なるに、彼等は熟慮の上之を為すなり。軽労倉と重営倉との差は慥かにこれにあり)処置を敢てす、真に悪むべきなり。併まさかに世間には公表せざるなるべし)。余は、山梨が大臣を罵倒するに馬鹿の一語を以てするに至り忍耐も最早断へ果てたるも、修養の効聊か現はれ、怒る代に一笑して、談も此に至れば極端に達せりと独語せしに、彼等も幾らか反省する所ありしにや、今まで口を極めたる陸軍大臣等の誹謗談は有耶無耶と為れり。朋党の利己主義より、軍人の身分をも打忘れ此状態を見る、実に慨嘆の至なり。陸軍の長閥一派、海軍の薩閥一派国軍を破壊するや実に大なり、噫。

上原陸相を増師問題で失い、今また同志の楠瀬陸相をシーメンス事件で失う(勿論楠瀬が直接関わっているのではない)。長州系の陸軍軍人にとっては、日頃眼の敵にしている薩摩系海軍の一大不祥事だけに、楽しくてしょうがないのだろう。十六日騒擾というのはよく分からない。此の頃政府弾劾デモが起こっていたが、それではなさそう。或いは兵隊の間で何かあったのだろうか。衛戍総督とは東京衛戍総督のこと。近衛歩兵第三連隊長児島惣次郎は岡山出身だが、長州閥にべったりと評判のあった人物。
楠瀬大臣の失言、軍機漏洩問題というのは2月14日の議会での答弁のことだと思われる。楠瀬は江木議員に二個師団増設の根拠は何かと聞かれ、「大正五年度になりますれば、シベリア方面の輸送力・・・仮想の敵の満洲方面の集中力が殖える・・・我作戦の大体は、有らん限りの兵力を集めまして接戦をしようと云ふ考でありますから・・・二個師団を増設して、是をば朝鮮に常駐させて置けば、それで兵力均衡上、作戦上の手段を設け得られるのであります」と答えた。そのあまりにも正直な答弁に山本権兵衛首相も慌てて本郷房太郎陸軍次官を呼び、質問した江木議員も「そんなことを尋ねたのではない」と質問を打ち切った。宇都宮は、楠瀬のは確かに失言だが、それの揚げ足を取って喜ぶということは、楠瀬の発言を裏書する行為であり、つい口を滑らせた楠瀬よりよっぽど悪質であると怒っている。それにしても山梨半造、調子良すぎ。それに対しブチ切れそうになりながらも、冷静に皮肉る宇都宮。何か絵が浮かぶ。
ちなみに明治24年に、逆に議員であった予備役中将小沢武雄が、国防の不備を衝く演説を行い、免官(陸軍中将を剥奪)になるという事件があったが、その騒ぎに比べれば、楠瀬は特に何の処罰も受けなかった。しかし山本内閣が潰れると、彼もそのまま待命となり、やがて予備役となる。

四月十八日 土 晴
山梨宛庶務課長の電報に依り、岡新陸相の次官は参謀次長大島健一中将にして、参謀次長は寺内伯の下に朝鮮の憲兵司令官たる明石元二郎中将たることを知る。帝国陸軍に進化せんとせし我陸軍は、茲に再び長閥を中心とせる長州陸軍の旧態に復旧せり、更に一倍の大勇気を要す。或曰く、失敗、失敗、大失敗、世は復び官僚一味の世となれり。敗軍、敗軍、総敗軍、帝国陸軍は今や復び長閥陸軍の古体に復せり。言に一理あり、之を反正するもの誰ぞ。

大隈新内閣の陸軍大臣は長州の岡市之助となり、次官には大島健一が参謀本部から横滑りした。宇都宮にとっては勿論面白くない人事であるが、手の施しようがない。

五月十一日 月 晴
大隈総理侍立、陛下には玉音朗かに「第七師団長に補す」と宣ひ、辞令書は総理大臣より手渡せられ、今日染みじみ師団長の職の重に感ず。

4年半の長きに渡って務めた参謀本部第二部長から、中将に進級の上旭川の第七師団長に転任となった。

六月十四日 日 晴
午前八時より昨日に引き続き砲兵連隊を検閲す。成績甚だ不良。

宇都宮から見た第7師団は問題の多い師団であった。彼はこれを徹底的に鍛えなおすことを心に誓う。

九月十二日 土 曇
福島関東都督名誉進級後備に編入の趣、新聞電報に見えし故、上原中将に問合せ、且つ防止尽力の電報を発せしに、事実との返電至る。一部系統のものヽ人事上の専私、実に残念の至なり。

関東都督(関東軍司令官の前身)の福島安正が、大将に進級と同時に後備役となるという報道を見て、東京で教育総監をしている上原勇作に何とかならないかと電報を打ったところ、もう決定済みでどうにもならないとの返電があった。福島は必ずしも反長州という人物ではなかったが、情報将校として宇都宮にとっては良き先輩であった。

以上で1914年を終わる。東京では千客万来であった宇都宮家も、さすがに旭川ではそうはいかない。しかし隷下の歩兵第十三旅団長は親しい間柄の橋口勇馬であり、歩兵第二十六連隊長はかつての部下で、宇都宮がアメリカ行きに尽力してやったことのある井上一次であった。特に橋口とは家族ぐるみで親しくしている。
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