近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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林えいだい『重爆特攻さくら弾機 大刀洗飛行場の放火事件』東方出版

NHK 戦争証言プロジェクト「重爆撃機 攻撃ハ特攻トス」の底本である。番組では完璧なまでにスルーされた新海希典のことも、この本ではちゃんと出てくる。新情報としては、倉澤参謀に対し「重爆を戦闘隊の隷下に入れたのは、指揮権の乱用じゃないか」と興奮してすごい剣幕でいたそうだ。

また機に放火をしたとして逮捕された朝鮮人山本伍長の最後についても載っている。憲兵隊は、取り調べもせず、戦隊の名簿を見て、朝鮮人であるというだけで山本伍長を逮捕していた。本人も含めて誰一人、逮捕前に事情聴取をされた者はいなかった。そのため戦隊の間でも、犯人は山本伍長ではないのではないかと考えるものが多かった。憲兵隊を訪ねた倉澤少佐は、伍長に明らかに拷問された跡があるのを認めた。伍長がその後どうなったかについて、倉澤は著者に「日本国内から出国することを条件に」戦後釈放され、朝鮮に帰ったそうだと語った。彼は放火事件の後、鉾田に転任していたので、本当にそう信じていたのかもしれない。著者もそれを聞いて一安心した。しかし現実は厳しい。実際は山本伍長は20年8月9日に六航軍によって銃殺されていた。場所は油山。彼に続いて米国の俘虜が次々と処刑された。世に有名な油山事件である。筆者はこの事実をある本で偶然見つけて驚いて大声をあげたそうだが、それを読んでこっちも驚いた。なぜならその本というのが、以前このブログでも取り上げた上野文雄『終戦秘録 九州8月15日』だったからだ。そう言われれば、確かにそんな記述もあったなと思うが、番組を見ているときは、この本のことなど毫も思い浮かばなかった。全くお恥ずかしい限りである。
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平木國夫『バロン滋野の生涯 日仏のはざまを駆けた飛行家』読了。
これで徳川好敏日野熊蔵、滋野清武と、日本航空界の草創期を彩った三者の評伝を読み終えた。日野少佐については、少しだけ以前触れている。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-198.html
滋野清武フランス陸軍大尉についてはWikiが結構充実している。
滋野清武 - Wikipedia

三者のうち最大の成功者は、一般的価値観でいえば徳川大尉だろう。中将にのぼり、爵位も取り戻した(男爵だが)。自然、残りの二人の評伝は、徳川大尉に厳しくなる。特に滋野の評伝は、より攻撃的である。日野少佐と徳川大尉は、少なくとも表面的にはお互いを尊重し合っていたようだが、本書に依れば、滋野男爵と徳川大尉は、当時から結構対立的であったようだ。陸軍プロパー、それも当時航空を独占していた工兵科の将校である徳川と、陸軍幼年学校を中退し、音楽学校を経て単身渡仏して飛行術を学んだ滋野では、例え飛行家としての腕は断然滋野でも、陸軍がどちらに便宜を図るかは火を見るより明らかだろう。結局滋野はフランスで軍人となり、レジオン・ド・ヌール勲章を受ける。撃墜は5機程度らしい。WW1の撃墜王は言うまでも無くレッドバロン、ドイツの2位はWW2で自決したウデットである。ついでに言うとウデットと諍いのあったふとっちょ元帥も20機弱ほど落としている。

滋野夫人がフランス人であったため、彼の死後、長男の襲爵を巡って問題が発生した。何となれば、宮内省が二人の結婚を認めておらず、子供達は庶子扱いとなっていたからだ。残された夫人は、一時フランスに追い返されそうになり、ポール・クローデル大使(ロダンの愛人だったカミーユ・クローデルの弟)に助けを求めている。幸いにして夫人も子供も一緒に日本で暮らせるようにはなったが、滋野男爵家は廃爵となった。親戚一同が押捺する必要のある書類に最後まで印を押さなかったのは、滋野の義兄河野恒吉少将(7期)であったそうだ。河野は少将で予備役となると、朝日新聞の軍事顧問となり、戦後は『国史の最黒点』という1000ページを越える大著を残しているが、存外((C)大坪元雄)偏狭な人間だったようだ。

長男のジャック滋野氏は、ピアニストとして有名な方だそうだが、不慮の事故で亡くなられた。

私は未読なのだが、志賀直哉の『人を殴つた話』で、志賀たちに殴られるSというのは、清武のことだ。清武がよく華族女学校の正門前に立ち尽くしているというのが理由なのだが、彼からすればそれは、妹たちの送り迎えをしているだけであった。『人を殴つた話』は、ジャック氏の友人の抗議の手紙を受け、志賀の生前は全集に収録されることはなかった(死後に出た第七巻に収録)。

あとがきによれば、著者は日野熊蔵にも興味を持っており、日野熊蔵伝の著者渋谷氏とは同郷で、彼の取材にも協力したそうだ。道理で、特に日野に関する筆致が、日野の評伝と似ているはずだ。得心がいった。

   


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兵器発明家にして飛行家日野熊蔵の伝記。幕末、相良藩では保守派と洋学派の間で争いがあり、慶応元年九月二十六日には、守旧派が洋学派の主だった者を上意討ちにする事件(丑歳騒動)が起こった。このとき日野家では物頭二百石取りの当主佐一だけでなく長男とその妻、さらにその三歳の娘の四名が斬られた。生き残った佐一の妻は縁者から養子を取り、家名をつないだ。熊蔵はその子供であるが、父は熊蔵がまだ母の腹にいるうちに疫病で病死した。
熊本には佐々友房の済々黌という有力な学校があったが、熊蔵は済々黌ではなく私学の熊本英学校に進んだ。熊本英学校は徳富猪一郎の大江義塾を前身とする学校で、済々黌とはいわば国権派と民権派で険悪な間柄であった。大江義塾は宮崎寅蔵も学んだ学校である。熊蔵が後年、支那革命に関係するのも偶然ではあるまい。熊蔵の在学中、短い間であったが、内村鑑三も英学校で教授をしている。

陸士を34番で卒業し、歩兵第2連隊では連隊旗手に任じられた。歩兵は陸士の主兵であるが、熊蔵限っては歩兵将校であるということは、その後の人生においてマイナスであった。

熊蔵は25歳のときには既に日野式拳銃を発明して、陸軍技術審査部員となっている。彼はこの日野式拳銃や日野式擲弾を孫文らの革命運動に提供している。友人の上塚周平はこのころの日野について「彼は一個の機械師にあらず。又以て一個理想の人、発明は彼の宇内に於ける人として単に真理に忠なる一端を実現せるもののみ。彼の頭脳に画する処は発明よりも大なる画策あり。其の一端は常に舌端に迸り以て推知すべし。只才気余りに多く、為に万能を欲するの弊あり」と評している。野津道貫は日露戦争で第四軍司令官を務めたが、彼は渡満する前、熊蔵の家を訪れたという。そこで何が話し合われたかは分かっていない。

明治四十年、熊蔵は結婚した。相手は恒吉忠道大佐の娘であった。余談だが恒吉の前妻は正岡子規の妹の律であった。二人は二年ほどで離別しているので、熊蔵の妻の母は後妻であろう。

明治四十二年に臨時軍用気球研究委員に任ぜられ、飛行機の研究に入る。翌年には徳川好敏大尉と二人で欧州に派遣された。徳川大尉はフランスで、熊蔵はドイツで飛行術を習得した。徳川好敏は御三卿の一、清水徳川家の嫡男であった。しかし父の篤守が伯爵の爵位を返上していたため、このとき家は無爵であった。父の爵位返上については、明治三十年お茶の水で水商売の女が殺害された事件との関係などが取り沙汰されているが、徳川一門はこの件に関しては口を閉ざしている。いずれにせよ、徳川好敏が飛行将校を志したのには、家門の恥をすすぎたいという思いがあったようだ。二人はそれぞれグラーデ式、アンリファルマン式の飛行機を手土産に帰国した。

明治四十三年十二月十四日、熊蔵のグラーデ式は滑走中に高さ10メートル、距離60メートルを飛んだが、この日は公式の飛行実施日ではなかったので『滑走中の余勢であやまって離陸した』ことにされた。十九日、今度は徳川大尉のファルマン機が最高70メートル、距離3000メートルを飛んだ。同日午後、日野も高さ45メートルで1000メートルを飛んだが、日本最初の飛行という栄誉は、徳川大尉のものとなった。ただでさえ徳川家の御曹司で眉目秀麗な青年将校である。こうなっては熊蔵は彼の陰に隠れるしかない。

熊蔵には、仕事に熱中する余り、来訪した皇族の出迎えにすら出ないようなところがあった。また飛行機の研究に私財をつぎ込み、多額の借財をつくって訴訟を起こされていた。そういった点が陸軍上層の忌憚に触れ、少佐昇進と同時に福岡の歩兵連隊に飛ばされた。


秦郁彦『第二次世界大戦 鋼鉄(はがね)の激突』中公文庫

六つの決定的戦闘(バトルオブブリテン、モスクワ、エル・アラメイン、スターリングラード、ノルマンディ、アルデンヌ)と七つのエピソードからなる章立て。
特に第十二章の各国エースリストは秦先生らしい仕事。試みにうpしようかと思ったが、Wikiのエース・パイロットの項目に大部分が載ってるので自重する。
マルセイユには態々一章割いており、先生お気に入りの模様。僕個人としてはガランド・サーカスに興味がある。やはりスコアでいうと、ルフトヴァッフェのエースたちが群を抜いてますね。

日本のトップエースは西澤広義か岩本徹三か。最近では岩本中尉というのが定説なんですかね。陸軍航空のトップは篠原弘道准尉。この人はノモンハンにおいて戦死するまでの2ヶ月余で58機という驚異的な数字を残している(1日に11機と8機を1回ずつ、6機を2回という”固め打ち”を記録)。この数字は結局後の世界大戦でも抜くものが現れなかった。もっとも76機撃墜の上坊良太郎こそ真の陸軍トップエースであるという話もあるらしい。有名な黒江保彦少佐は30機(Wikiでは50機となってる)で、この数字は、陸士or海兵出の正規将校としてはトップでは?



河内山譲『恩愛の絆断ち難し 富嶽特攻隊長西尾常三郎の生涯』光人社

サブタイトルの示すとおり、西尾常三郎大佐(死して二階級昇進)の伝記。西尾は陸士50期で、以前紹介した新海希典と同期。ちなみに著者の河内山も同期であるが、著者は偵察、二人は重爆であった。豪傑で鳴る田中友道大佐の第60戦隊で鍛えられた西尾は、屈指の重爆乗りとなった(田中の統帥の問題点に関しては一旦措いておく)。田中が転出すると、これまた剛直な小川小二郎大佐が戦隊にやってきた。西尾は小川の指揮下で重慶爆撃に出撃した。
その後、航空士官学校で区隊長となった。熱血の区助として抜群の人気があり、生徒は彼に”ヘス”というあだ名をつけた。航空士官学校幹事として着任した遠藤三郎が、緒戦のマレー航空作戦について、教官、学生、生徒を集めて講話を行ったことがあった。その爽やかな弁舌に皆感銘を受けたが、西尾は「くだらん。自分の手柄話じゃないか」と吐き捨てた。
昭和18年5月、第98戦隊の中隊長に就いた。98戦隊の属する第7飛行団々長はかつての戦隊長田中友道少将であった。カルカッタへ進攻する西尾たち重爆を支援するのは、同期の黒江保彦大尉の戦闘隊であった。
昭和19年3月、浜松陸軍飛行学校附となり、内地に帰還した。同校には、親友の新海が居た。8月、浜松飛行学校は、浜松教導飛行師団に改編された。中央部はかねてからの計画に基づき、四式重による艦船特別攻撃隊とサイパン飛行場攻撃を任務とする九七式重による第2独立飛行隊の編成を内示した。第2独立飛行隊長には新海が就いた。西尾は自ら特攻隊長に名乗りを挙げた。隊は梅津参謀総長によって富嶽隊と名付けられた。丁度同じころ、鉾田でも特攻隊が編成されていた。隊長はやはり腕利きの岩本益臣大尉であった。これは万朶隊と命名された。この2隊が、陸軍最初の特攻隊である。岩本大尉は跳飛爆撃の第一人者であり、特攻作戦の強力な反対者であった。それが皮肉にも陸軍最初の特攻隊長に任ぜられ、結局敵に一矢報いることすら出来ずに、無念の死を遂げる。西尾は岩本と違い、自ら名乗りを挙げた。これより以前、まだ南方に居るとき、日記に体当たり作戦への決意を記している。それでもやはり彼も、大本営の推し進める特攻作戦には強い怒りのようなものを抱いていた節がある。19年10月26日、富嶽隊は浜松飛行場より出発した。出発を前に、航空本部長、師団長らの見つめる中、隊員に訓示を行った西尾は、訓示の最中に涙を流して咽び泣いた。元来彼には感情の起伏の激しいところがあったが、それにしても衆人環視の出陣式で、歴戦の勇者が涙を流して泣くというのは、一種異常な感覚を周りに与えた。新海ら同期生にも見送られた西尾隊は真一文字に飛び去った。それを見送り家に帰った夫人は、「かならず出発後見るのだぞ」と言われて渡された遺書を開いた。そこには墨痕淋漓たる筆致で、西尾の決意が示されていた。

恩愛の絆は断ち難し
断ち難きは 心弱きに非ず
一たびこれを断たば如何
強き絆は 強き反動を生ず
断々乎 断
今や 全く心静かなり




西尾の戦死とほぼ入れ違いに比島に着任した第5飛行団長の小川小二郎大佐は、特攻に反対であった。飛行団に、特攻機を出すようにという要求を持ってきた猿渡第4飛行師団参謀長に対し、小川はその怒りをぶつけた。
「富嶽隊が四式をもってきたって、体当たりは成功しておらんじゃないか。西尾ほどの腕っこきを乗せてやっても、突入はできなかった。西尾が四式で行って、だめだというのなら、ほかの者が行ったって、だめさ」
「西尾少佐は惜しいことをしました」
「惜しいにも何にも、あれだけの重爆乗りがザラにおるものじゃない」

11月13日、富嶽隊第三次の出撃によって、西尾は戦死した。それにより二階級昇進の措置がとられ、西尾常三郎少佐は大佐となった。しかし隊長を亡くした富嶽隊の苦闘はまだまだ続く。

  



『Valkyrie』続報
以前のエントリでちらっと書いたトム・クルーズ主演のValkyrieのキャストが、更にちょっとだけ判明した。フロム将軍にTom Wilkinson、オルブリヒト将軍にはBill Nighyとのこと。うむ、もう少しドイツ系は使えないものか。
ところでこの映画、日本公開時のタイトルは”ワルキューレ”となるのか”ヴァルキリー”となるのか、どっちだろう?たぶんワルキューレだろうな。そうすると、当然宣伝部長は藤原嘉明だな。そしてレッドカーペットを歩くトムを襲撃!すると何故かドラゴンが前髪を・・・
ま、最近何となく第三帝国にはまってるので、この映画についてはこれからもちょくちょく気にしていくつもりです。
著者の伊庭稜太郎は航空士官学校卒。本書の主人公は新海希典少佐。アスリート飛行場への渡洋爆撃によって単独拝謁の栄誉を賜った人と書けば、ああ、と思う方もいらっしゃるだろう。著者は陸士でいうと56期に当たる人で、新海との直接の面識はない。が、著者の中隊長であった迫田富美男大尉が新海に深く親炙しており、その影響から、戦後新海の父と知り合う。

東幼の入校式では答辞を読んだ。入試の成績が1番だったのだ。入校当時の生徒監は後に硫黄島で戦死する千田貞季大尉であった。千田は新海の優れた天稟を見抜き、これを愛した。新海もまた千田を尊敬した。ところが半年後、生徒監が丸山房安に替わると、雲行きが怪しくなる。

丸山は新海を将校生徒としてさっぱり評価しなかった。新海の動作の緩慢さは人並みはずれていた。後年、彼の代名詞となる身だしなみへの無頓着さもこの頃からすでにあった。1週間も10日も風呂に入らんので同室の者が悲鳴を上げた。教官が注意したところ、戦場に風呂はありますかと答えたという話もある。怒鳴りつけられてもニヤニヤ笑うだけで、可愛げの欠片もない。

駆け足もまったくだめであった。ニューギニアで空襲を受けたとき、すたこらすたこら走って逃げた。ただそれだけの話を、迫田は嬉しそうに著者に語り、「新海さんはそれまで絶対に走ったことがなかった」と断言しては、からからと笑った。水泳でも恐ろしく金槌で、演習で船から海に飛び込まされたところ、もがくこともせず、そのままの格好で沈んでいくので、慌てた教官が飛び込んで引っ張りあげたという。

しかし決して努力を放棄した人間ではなかった。夏休みに実家に帰ると、父の元が鉄棒を教えた。やっているうちに段々興味を持ってきた新海は、そのうち自分で計画的に練習するようになり、上手になっていった。迫田中隊長が著者に語ったところによれば、新海操縦の練習機は、下から見ても一目で分かるほど上下左右に揺れていたそうだ。教員であった育ての母は、「希典さんはカメです」といったという。

しかし遂に、これ以上手に負えんと判断した丸山は、父を呼びつけ、ぐだぐだぐだぐだと夜中の2時をまわるまで喋り続けた。自発的に退校を言い出させようという意図であった。しかしそれを察した父の元は、猛烈に反撃に出た。
「入校したときあんたのところの校長さんは、希典は実に立派な所感文を書いたと口を極めて褒めてくださったんだが、それが2年やそこらでおかしくなるというのは、幼年学校はひとりの人間の教育もできないのですか」
思わぬ反撃を受けた丸山は、うーんと黙り込んでしまい、話し合いはそのまま物別れとなった。この話は教育総監部までいき、親父の言は尤もだという事で、新海の退校は無くなった。

丸山は後にビルマで辻政信と角つき合わせる癖の強い人物で、評判は総じて良くない。父はこの一件を新海に話してはいないが、人のことはあまり口にしない新海も、丸山については良く思っていなかったようだ。

予科で同じ区隊となった町田一男は中学出身者であった。彼のような中学組から見ると、幼年学校組は、いかにも軍人らしい挙措で、脅威であった。しかしただひとりだけ例外がいた。それが新海であった。背が低く、殆ど喋らず、目だけがぎょろりとしている。町田は彼をミミズクみたいだと思った。自習時間も居眠りばかりしており、大した人物ではないと思った。ものすごく頭の良いことに気付いたのは、半年後ぐらいだった。

新海らの区隊長は片岡太郎中尉であった。非常に人柄の良い、いかにも教育者適な人物で、候補生に人気があった。新海も片岡を崇敬し、彼の家に足繁く通っていた。しかし昭和9年11月以降、学校から片岡の姿は消えた。代わりに中山忠雄中尉が区助となった。

予科を卒業し、飛行第四聯隊での隊附を終えた新海は、陸士分校に入校した。区隊長は俊英田中耕二中尉であった。田中は当時、ドウエの爆撃万能論に傾倒していた。新海もまたその田中の強い影響を受け、重爆を志した。

卒業して航空兵少尉に任官した新海は、浜松陸軍飛行学校を経て、飛行第十二戦隊附となり、公主嶺に着任した。着任後間もなく、彼は下士官兵を飛行機に乗せれるだけ乗せ、新京まで外出した。新京の街で饅頭などたらふく食べ、さて帰ろうというときに、突如第七飛行団長(宝蔵寺久雄?)に呼びつけられた。飛行団長は飛行機による無断外出の不心得を激しく叱った。新海は泰然自若として
「そういうきまりがあることは知りませんでした」
と答え、周囲のものを唖然とさせた。処罰はされなかったが、その非常識ぶりは、たちまち満洲にある航空部隊に広まった。

大東亜戦争突入直前の12月、新海は陸軍挺進練習部、挺進戦隊附となった。空挺部隊を目的地上空まで空輸する部隊である。営外居住者の将校はトラックに相乗りして新田原の本部に通った。途中兵隊が敬礼しても、殆どの将校は雑談に夢中で答礼しない。しかし新海だけは、かならず答礼した。挺進第三聯隊の辻田信秋大尉は、ひとりひとりの兵に、階級を越え人間として対している姿勢を、新海の中に感じた。

挺進飛行戦隊の将校と挺進聯隊の将校の間で、落下傘降下の命令は、搭乗機の機長が出すべきか降下隊の指揮官が出すべきかの激論があった。その議論から日ならずして、新田原飛行場に降下した者があった。降下予定の無い日であったので、誰が降下したかはすぐに調べられた。新海であった。候補生時代、十二階段からの飛び降りも下手で見ていられなかった彼が、何の練習も無しにいきなり降下して、無事成功したのには皆驚いた。しかし何故降下したかについては、新海は一切語ろうとしなかった。

ラシオへの降下作戦は中止となり、挺進団は一旦内地に戻った。その後動員下令でニューギニアへ向かったが、またしてもベナベナ作戦は中止となり、スマトラへ転進。新海は昭和19年6月、浜松教導飛行師団教導飛行隊附を命ぜられ、部隊に先んじて内地に帰還した。

下宿屋曳馬野の女将のもとに飛行隊から
「新海少佐という偉い人がニューギニアから来られるから万端粗漏の無いように」
という連絡があった。数日後、よれよれの軍服に、汚いタオルを腰に下げ、頭陀袋と大学ノートを持った新海が現れた。
「お荷物はいつごろ着くのでございましょうか」
と聞くと
「ぼく荷物ありません」
と答え、柱の釘に持っていた頭陀袋を掛けた。上着を脱がそうとした女将は、あまりの臭さに思わず
「お風呂におはいりなさい」
と命令口調で叫んだ。

浜松には同期の古野一正と西尾常三郎がいた。三人は月に一回同期会を催すことにした。7月の第一回目の同期会の最中に空襲警報のサイレンが鳴った。西尾は立ち上ると、
「チャンス到来。貴様ら続け」
と叫んだ。
「どこへ」
古野が聞くと
「きまってるじゃないか。突撃だよ」
遊郭へ行くという意味だ。高射学校勤務の古野は、外に出ると
「俺はここで失礼する」
と言った。
「おお」
と答えた西尾は浴衣の裾をからげると走り出した。その後をうつむき加減で新海が追う。
「空襲警報、空襲警報」
と大声で叫びながら、曲がり角を曲がって消えた二人に、古野は、なんと大胆な奴等だと半分呆れた思いでいた。その数日後、街で西尾と会った古野は
「俺は臆病者だからお前たちのような真似はできん。近いうちに結婚することにした」
と言った。
「それもよかろう」
8月に入り、古野は結婚した。「それもよかろう」などと他人事のように答えた西尾はその数日前に結婚した。新海だけが独身で残った。

ある日古野が妻を連れて新海の下宿を訪ねると、新海は壁にボール紙を立てかけ、それに軍艦の写真を貼り付けて睨んでいた。
「これはなんだ」
「フランクリン」
「次のは」
「ヨークタウン」
「いつもああして見てるのか」
「うん」
「何分ぐらい」
「1時間くらいかな」
「ときどき写真を並べる順序を変えるのか」
「変える」
その後、取り留めの無い話をして夫妻は帰った。

大本営は航空総監に対し、連合軍に奪われたサイパンへの特別攻撃隊の編成を指示した。新海がその隊長に選ばれ、第二独立飛行隊とされた。同じ頃、西尾が富嶽隊の隊長に選ばれた。10月、古野の元に新海から電話があった。
「ニシが出発するので、直ぐに見送りに来い」
古野の顔を見た西尾は固い表情で、
「元気でな」
とだけ言って機に向かった。新海は黙っていた。
「おい新海、歴戦の彼のことだから、そう簡単には死なんだろうな」
「今度は死ぬ」
驚いた古野は思わず新海の顔を見つめた。
「いつごろ」
「あと2週間かな」
新海は富嶽隊の任務が何であるか知っていたのだ。

11月2日、新海隊はサイパンへ出撃した。9機が出撃し5機未帰還となった。11月6日、第2回の出撃には第1回の残存4機に予備の1機を合わせた5機であった。第1回では最初に飛び込んだ隊長機は、今度は速度を落とし、最後に突入した。後から突入する方が、当然危険度は高い。少なくとも11機以上を撃破し、全機硫黄島に帰還した。11月27日、ほぼ同じルートで第3次のアスリート飛行場攻撃が行われた。前回同様、隊長機は速度を落とし、最後尾から突入し、最後に離脱した。12機以上が炎上し、全機硫黄島に無事帰還した。


12月27日、防衛総司令官東久邇宮殿下より、第二独立飛行隊に感状が授与された。新海は初めて身だしなみを気にした。
「そっちの手袋のほうが少し白いか」
といって同期の南重義の手袋を借りて、恐る恐る司令官室に入っていった。さらに彼の功績は上聞に達し、天皇陛下への単独拝謁を仰せつかった。新海は普段軍刀を引き摺って歩くため、古野のものを借りた。軍服も古野が用意した。下着類は部下が駆けずり回って集めた。体以外はすべて他人のものを身に付け、昭和20年2月23日午前9時20分、新海は陛下に拝謁した。その模様は、新海が誰にも語っていないため、一切伝わっていない。

新海の感状授与をビルマで伝え聞いた迫田大尉は、強い衝撃で顔をこわばらせ、何度も文字を追っているようであった。その晩酒を酌み交わすと
「太平洋の波濤を越えて、新海部隊はゆくぞお!アラカン山脈をこえて迫田中隊はゆくぞお!」
といつもの叫びをやった。しかし昭和20年3月4日、迫田機はシュエボ飛行場攻撃の帰途、エンジンを撃ち抜かれ自爆した。彼もまた師匠同様、最後に突入し、最後に離脱することを常としていた。

拝謁の翌日、第六十二飛行戦隊長に任命された。上司の第三十戦闘飛行集団長の青木武三少将は、生粋の戦闘機乗りであり、新海とはもう一つ合わなかった。南の家に泊まった新海は
「今度がいよいよご奉公の終わりになるかも知れん。どうも戦闘隊出の上司が多いと、戦闘機みたいな使い方をされるんで」
と、あとは言葉を濁した。

3月、戦隊は特攻を命ぜられた。新海はこれに強く反駁した。
「戦隊はご存知のようにまだ戦力を回復しておりません」
「存じておる」
「その微力な戦隊を何故小刻みに特攻につかおうとなさるのでありますか。戦力は小刻みにではなく重点的に集中使用を図るべきであろうと考えます。私には集団長の御意向が理解できないのであります」
「分からんのか」
「小編隊による爆撃隊の投入では、目標につくまでの途中でみすみす艦載機に食われてしまう惧れのあることは十分ご存知のことと思うのでありますが」
「その危険はある。だが差し迫った首都防衛のためには止むを得まい。もちろん掩護戦闘機は十分つけるようにする」
「十分つけるだけの戦闘機はあるのでありますか」
「・・・・・・」
「掩護戦闘機は十分あるにいたしましても、特攻ではなく跳飛弾攻撃、又は魚雷攻撃の方法をとれば、重爆隊の戦力は何度でも繰り返し使えるのであります。損害はその都度ありましょうが、残るものもあり得ましょう。その方が絶対に得策であると考えます」
「貴官の意とするところは、十分理解している。だが先ほども申したとおり、事態は切迫しているのだ。命中率のより高い特攻戦法にたよる他に手はあるまいが」
「特攻戦法をとらざるを得ないに致しましても、戦隊は、まだ、技量向上の余地が極めて大であります。それをいまの時点で特攻に使用するのは、下策であると思うのであります。姑息な手段としか考えられないのであります」
「すでに決定したことである」
「やむを得ません。私が先頭にたち、突入いたします」
「戦隊長みずからの特攻出撃は許さん」
「戦隊の非力を補うためには、それでも」
「ならん!何度言えばわかるのだ!」

隊に帰った新海は、伊藤中隊長に特攻隊の編成を命じた。伊藤は少尉候補者出身の三浦中尉を隊長に選んだ。3月19日14時30分、攻撃隊員と戦果確認機搭乗員が整列した。新海はとつとつとした口調で
「この出動は不本意であるが、新海も共にゆき、お前たちの最後を見届ける。力の限りを尽くして貰いたい」
と語った。隊員が、いっせいにうなずく。
「今日はどこまでも突っ込むよ」
新海は笑いながらに三浦に言った。

熊野灘で編隊はヴォート・シコルスキーに襲われた。機動部隊が下にいると考えた三浦中尉は機首を下げ、雲に突っ込んだ。渡部機が続いた。後方を見上げた三浦の目に、シコルスキーにまとわりつかれながら、水平飛行を維持する四式重が写った。

新海は二階級昇進して大佐となった。享年28歳。機動部隊発見との情報をもたらした偵察将校梶川大尉は、新海の同期生河内山少佐の制止を振り切って特攻隊に志願した。副官の山口少尉が新海の部屋を片付けに行くと、行李が一つあるだけであった。一番上に預金通帳と印鑑が載っており、残高は30銭であった。

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